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幕・149 悪魔に生まれてよかった

「なんにしたって、だから、他の悪魔と違って、あんたは愛で死にはしないってことさ」 とっくの昔に、あんたはそうなってるよ、と彼女は軽く言ってのける。 「つまり」 ヒューゴは首を傾げた。 「悪魔の業、それが、愛を受け止められないってことなのか?」 悪魔の弱点が愛だというのは、要するにそういうことなのか。 美咲は頷いた。 「生きてるうちに、業そのものになっちまうからね。愛で砕け散るのも無理はない」 ふぅん、と頷き、ヒューゴはすぐ眉根を寄せる。 「でも俺は平気だって?」 「なんせ業は昇華されたからね。あんた自分がどれくらい長生きか自覚あるかい? その間ずぅっと」 「いやいやいや」 ヒューゴは思わず両手…もとい、前脚を左右に振った。 「俺、悪魔なのに?」 ヒューゴは愕然となる。 美咲が言ったことは、いいことなのだろうか。悪いことなのだろうか。 自分のアイデンティティが崩れるような、落ち着かない気分になる。 そんなの悪魔と言えない気がした。なら。 いったいヒューゴは何になったというのだ? 「で、でも、今回ばらばらになったのは、じゃあ、なんでだ?」 急に不安になったヒューゴは、ぴょんぴょん跳ねるようにして美咲に追いつき、着物の袖をつんっと引っ張った。 「―――――あんた直前に、皇宮に降った呪詛を全部受け止めたろ」 美咲が半眼でヒューゴを見下ろす。呆れ返った表情。 「そのぶんまた、業がたまったのさ。即死はしないけど、苦しむのは仕方ないね。愛によって呪詛が爆弾みたいに吹っ飛んだんだから」 悪魔に呪詛など栄養剤に過ぎない。 実際、そうなった。 まさか、そのために結果がこうなるとは。 なんだか、目が回ってヒューゴは美咲の袖から手を離した。 先を進み始めた彼女の後ろから、うんうん唸りながらおとなしくついて行く。 美咲は苦笑。 「―――――あの子の愛の衝撃は強かった」 池を回って歩く彼女について行けば、どうやら、桜の木を目指しているのが分かる。 ソメイヨシノではない。豪勢で野趣溢れるヤマザクラだ。 桜はどれもいいが、美咲の感性には、こちらが合うのだろう。 「衝撃で、あたしを閉じ込めた封印が砕けちまうくらいにね」 そう、日向美咲は、人間の精神を封じた後、結局、解くことを忘れた。 それで不便がなかったからだ。 そうして、奥の奥へ閉じ込められた結果、封印は当たり前のものになり、解かなければならないモノという認識はなくなって―――――。 だが、やはり、不自然なものであったのだろう。ゆえに、…砕け散ったのだ。 ただ、今回に至っては、それは僥倖であったと言わざるを得ない。 「封印が砕けて、あんたはこんな奥まで落っこちた」 しかし、だからこそ。 美咲は桜の前で立ち止まり、満開の桜を見上げる。 花は誰かを呼ぶように、ざわざわと揺れていた。 「でもそれでよかったのかもね。あたしがいなきゃ、あんたはばらばらになって消えてたかもしれない。もしかすると、この日のために」 美咲は静かに告げる。 その表情を見たくてヒューゴも桜の木の幹に手をついたが、小さな彼の目に、彼女の顔は見えなかった。 「あたしは残ってたのかもしれない」 ちょっとがっかりしたヒューゴが、ふと気付いたときには。 消しゴムで消されるように、不自然に周囲の光景が光の中へ消えていき始めた。 不意に、美咲が言う。 「ありがとう」 面食らうと同時に。 ヒューゴは、自分が人間の姿になっていることに気付いた。 中間界での、彼の姿だ。 騎士服である。 呆然と自分の両手を見下ろした時、その隙間から、美咲の顔が見えた。 先ほどまでの、悪魔のヒューゴは小さかったが、人間の姿になった途端、いっきに追い抜いたらしい。 日向美咲とは、こんなに小さな女性だったのか。 互いの身長差に、ちょっとびっくりした。 ようやく目に映った、彼女の、表情に。 …つられて、ヒューゴも泣きそうになる。 「生きてくれてありがとう。業を清算してくれてありがとう。話ができて良かったよ」 光の中に、彼女の姿も消えていく。 そのときになって、光の正体がなんなのか察した。 これは―――――神聖力だ。 ずっとずっとヒューゴを呼んで、ヒューゴだけを残そうとしている。 呆れるほど、他は目に入っていない。 間違いない。これは、リヒトの力だ。 「封印がなくなった以上、あんたとあたしはひとつに戻る」 その言葉を聞くなり。 咄嗟に、ヒューゴは、目の前の小さな女性を抱きしめた。壊れ物のように。 そうしたかった。 ずっと、会えたら、こうしようと思っていた。 分かっている。 ただの自己満足だ。 遠い昔、ある日唐突に蘇った、日向美咲だった記憶。 どこか不器用で、稚拙で、どうしても嘘がつけず、周囲から冷たいという評価を受けがちだった、少し生真面目な傾向にある女性。 それでも可愛いものが大好きで、女性らしく、服や化粧品、小物を選ぶ時には心が弾んだ。 ―――――…どこにでもいる、ごく普通の、人間。 悪魔に生まれるほど、ひどいことをしたとは思えない。 むしろ、ひどいことをされた側だとヒューゴは思う。 それでも、きっと彼女は、不自然に閉じてしまった彼女の人生のことを、今更なんと言われても、どうでもいいと感じるだろう。 もう意味はないかもしれないけれど。 ヒューゴは少しでも、彼女の心を軽くしたかった。だから。 せめて、何か言葉をかけようとして、 「俺は、―――――よかったよ」 気持ちだけ先走って、妙な台詞になってしまう。 「ああ、だから」 何をどう言うべきか、難しいな、と思いながらも言葉を選ぶ。 「悪魔に生まれてよかったと思う。地獄で生きるのも悪くない。喧嘩友達はいるし、そう、娘だっている。なくすことも多いけど、得られるものも多い」 悪魔に生まれてよかった、などと。 口にした自分でも滑稽だとは思うが、心の深いところでヒューゴには変な肯定があった。 この生涯も、悪くない。 だから何が言いたいかというと。 「だから俺に悪いとか思わないでいい」 対人関係において、日向美咲は、嫉妬深く陰気に感じられたが、懐に入れた相手には情が深く優しい女だった。 変に誠実だから、こんな形になって、ヒューゴに罪悪感を持っていなければいいと思ったのだ。 ―――――長い、沈黙の後。 ヒューゴが、もう戻る時間が来た、と感じた刹那。 「…そうかい」 たった、一言。 彼女の声が聴こえた。 何もかもいっさいを委ね、許し、受け容れる声だった。 それが、最後だった。

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