149 / 215
幕・149 悪魔に生まれてよかった
「なんにしたって、だから、他の悪魔と違って、あんたは愛で死にはしないってことさ」
とっくの昔に、あんたはそうなってるよ、と彼女は軽く言ってのける。
「つまり」
ヒューゴは首を傾げた。
「悪魔の業、それが、愛を受け止められないってことなのか?」
悪魔の弱点が愛だというのは、要するにそういうことなのか。
美咲は頷いた。
「生きてるうちに、業そのものになっちまうからね。愛で砕け散るのも無理はない」
ふぅん、と頷き、ヒューゴはすぐ眉根を寄せる。
「でも俺は平気だって?」
「なんせ業は昇華されたからね。あんた自分がどれくらい長生きか自覚あるかい? その間ずぅっと」
「いやいやいや」
ヒューゴは思わず両手…もとい、前脚を左右に振った。
「俺、悪魔なのに?」
ヒューゴは愕然となる。
美咲が言ったことは、いいことなのだろうか。悪いことなのだろうか。
自分のアイデンティティが崩れるような、落ち着かない気分になる。
そんなの悪魔と言えない気がした。なら。
いったいヒューゴは何になったというのだ?
「で、でも、今回ばらばらになったのは、じゃあ、なんでだ?」
急に不安になったヒューゴは、ぴょんぴょん跳ねるようにして美咲に追いつき、着物の袖をつんっと引っ張った。
「―――――あんた直前に、皇宮に降った呪詛を全部受け止めたろ」
美咲が半眼でヒューゴを見下ろす。呆れ返った表情。
「そのぶんまた、業がたまったのさ。即死はしないけど、苦しむのは仕方ないね。愛によって呪詛が爆弾みたいに吹っ飛んだんだから」
悪魔に呪詛など栄養剤に過ぎない。
実際、そうなった。
まさか、そのために結果がこうなるとは。
なんだか、目が回ってヒューゴは美咲の袖から手を離した。
先を進み始めた彼女の後ろから、うんうん唸りながらおとなしくついて行く。
美咲は苦笑。
「―――――あの子の愛の衝撃は強かった」
池を回って歩く彼女について行けば、どうやら、桜の木を目指しているのが分かる。
ソメイヨシノではない。豪勢で野趣溢れるヤマザクラだ。
桜はどれもいいが、美咲の感性には、こちらが合うのだろう。
「衝撃で、あたしを閉じ込めた封印が砕けちまうくらいにね」
そう、日向美咲は、人間の精神を封じた後、結局、解くことを忘れた。
それで不便がなかったからだ。
そうして、奥の奥へ閉じ込められた結果、封印は当たり前のものになり、解かなければならないモノという認識はなくなって―――――。
だが、やはり、不自然なものであったのだろう。ゆえに、…砕け散ったのだ。
ただ、今回に至っては、それは僥倖であったと言わざるを得ない。
「封印が砕けて、あんたはこんな奥まで落っこちた」
しかし、だからこそ。
美咲は桜の前で立ち止まり、満開の桜を見上げる。
花は誰かを呼ぶように、ざわざわと揺れていた。
「でもそれでよかったのかもね。あたしがいなきゃ、あんたはばらばらになって消えてたかもしれない。もしかすると、この日のために」
美咲は静かに告げる。
その表情を見たくてヒューゴも桜の木の幹に手をついたが、小さな彼の目に、彼女の顔は見えなかった。
「あたしは残ってたのかもしれない」
ちょっとがっかりしたヒューゴが、ふと気付いたときには。
消しゴムで消されるように、不自然に周囲の光景が光の中へ消えていき始めた。
不意に、美咲が言う。
「ありがとう」
面食らうと同時に。
ヒューゴは、自分が人間の姿になっていることに気付いた。
中間界での、彼の姿だ。
騎士服である。
呆然と自分の両手を見下ろした時、その隙間から、美咲の顔が見えた。
先ほどまでの、悪魔のヒューゴは小さかったが、人間の姿になった途端、いっきに追い抜いたらしい。
日向美咲とは、こんなに小さな女性だったのか。
互いの身長差に、ちょっとびっくりした。
ようやく目に映った、彼女の、表情に。
…つられて、ヒューゴも泣きそうになる。
「生きてくれてありがとう。業を清算してくれてありがとう。話ができて良かったよ」
光の中に、彼女の姿も消えていく。
そのときになって、光の正体がなんなのか察した。
これは―――――神聖力だ。
ずっとずっとヒューゴを呼んで、ヒューゴだけを残そうとしている。
呆れるほど、他は目に入っていない。
間違いない。これは、リヒトの力だ。
「封印がなくなった以上、あんたとあたしはひとつに戻る」
その言葉を聞くなり。
咄嗟に、ヒューゴは、目の前の小さな女性を抱きしめた。壊れ物のように。
そうしたかった。
ずっと、会えたら、こうしようと思っていた。
分かっている。
ただの自己満足だ。
遠い昔、ある日唐突に蘇った、日向美咲だった記憶。
どこか不器用で、稚拙で、どうしても嘘がつけず、周囲から冷たいという評価を受けがちだった、少し生真面目な傾向にある女性。
それでも可愛いものが大好きで、女性らしく、服や化粧品、小物を選ぶ時には心が弾んだ。
―――――…どこにでもいる、ごく普通の、人間。
悪魔に生まれるほど、ひどいことをしたとは思えない。
むしろ、ひどいことをされた側だとヒューゴは思う。
それでも、きっと彼女は、不自然に閉じてしまった彼女の人生のことを、今更なんと言われても、どうでもいいと感じるだろう。
もう意味はないかもしれないけれど。
ヒューゴは少しでも、彼女の心を軽くしたかった。だから。
せめて、何か言葉をかけようとして、
「俺は、―――――よかったよ」
気持ちだけ先走って、妙な台詞になってしまう。
「ああ、だから」
何をどう言うべきか、難しいな、と思いながらも言葉を選ぶ。
「悪魔に生まれてよかったと思う。地獄で生きるのも悪くない。喧嘩友達はいるし、そう、娘だっている。なくすことも多いけど、得られるものも多い」
悪魔に生まれてよかった、などと。
口にした自分でも滑稽だとは思うが、心の深いところでヒューゴには変な肯定があった。
この生涯も、悪くない。
だから何が言いたいかというと。
「だから俺に悪いとか思わないでいい」
対人関係において、日向美咲は、嫉妬深く陰気に感じられたが、懐に入れた相手には情が深く優しい女だった。
変に誠実だから、こんな形になって、ヒューゴに罪悪感を持っていなければいいと思ったのだ。
―――――長い、沈黙の後。
ヒューゴが、もう戻る時間が来た、と感じた刹那。
「…そうかい」
たった、一言。
彼女の声が聴こえた。
何もかもいっさいを委ね、許し、受け容れる声だった。
それが、最後だった。
ともだちにシェアしよう!