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幕・155 今まで何かが欠けていた

「あいつ直接ここに来たんだよ」 しれっと応じたヒューゴに、ますます渋面になるサイファ。 どうも、サイファはヒューゴといるとき、そんな表情ばかりだ。 いや彼ばかりではない。 振り返れば、リュクスやサイファ、…混沌もこんな顔をする。 サイファは、元、とはいえ、御使いだ。 混沌が中間界に出てきたなど、もしかすると大ごと扱いかもしれない。 言った後で思いついたヒューゴは失敗したかな、と思う。だが言葉は取り返せない。 どうやって出てきた、という問いが来ることを覚悟したヒューゴの前で、 「―――――聞きたいことは山ほどあるが、とりあえず、分かった」 渋面のサイファは、ひとまず要点だけは了解した、と頷いた。 「それが楽園の仕業かどうかを知りたいのだな?」 前も思ったが、物わかりがいい男である。 堕天すると、御使いは皆こうなるのだろうか? 「ぶっちゃければね」 なんにしろ、素直に答えるつもりだったヒューゴは、頷いた。 「でも、その線は薄いんじゃないかなって俺は思ってる。実際」 ヒューゴの目が、冷たく細められる。 「関わっていたのは、はぐれの魔法使いらしいし」 「…定時連絡の中に報告がありましたね。犯人は、」 ダリルが厳しい表情で顔を上げた。 「キリアン・デズモンド」 落ち着いているようで、その名を紡ぐ声は静かな怒りに満ちている。 「ええ、先日詳細を尋ねたあの魔法使いです」 リュクスが重く頷いた。 何も知らなかったヒューゴは、そうなの、と驚いた顔でリュクスを見たが、無視される。 サイファは顎に指の甲をあて、 「確かに彼は面倒この上ないが…だからと言って、一人でそんなことができるものでもない」 言いながら、彼は首を横に振った。 「私は楽園の状況を知らない。追放されたのだからな。とはいえ、私も魔竜と同意見だ。…いずれにせよ」 サイファは、ちらりとリュクスを横目にする。彼は頷いた。 それを見て、ダリルを促し、サイファは立ち上がる。 「知りあいの御使いと連絡を取ろう。そう言った話がないか、あるいは楽園が何か知らないか、…遠回しに探りを入れてみる」 「いいの?」 随分手厚い対応だ。意外な思いを隠さないヒューゴに、 「いいも悪いも」 サイファは呆れた顔になる。 「今の話と、報告の内容を合わせて考えるに、つまりは皇宮に現れたという悪魔は、召喚されたものではなかったということだろう? 攫われた悪魔だった。違うかね」 どうやらそこまでの情報は、定時連絡の中に含んでいなかったらしい。 リュクスを見遣れば、彼は他人事のように肩を竦める。 「地獄から攫われた悪魔が中間界に現れた、となれば、―――――見過ごせまい」 「情報では」 きびきびとダリルが付け加えた。 「キリアン・デズモンドは皇都から離れたようですが」 「見つけたら教えて」 ダリルに、ヒューゴはにっこり。 「ぼっこぼこにしたい」 「…ヤツに関しては、まあ、早い者勝ちになりそうですよ?」 どうやらキリアンという魔法使いは、そこかしこで恨みを買っているようだ。 難しい顔になったダリルの隣で、 「それより魔竜、いったい、お前は」 サイファが改まった口調で尋ねた。 「―――――何になったのだね?」 「何って」 ヒューゴは首を傾げる。 いったい何を言っているのか、わからない。いや。 …なんとなくは分かるのだが、ヒューゴとしても、どう言えばいいのか分からなかった。 「俺は悪魔だけど。それ以外の何に見える?」 なので、誤魔化すつもりはなかったが、あえて尋ね返せば。 「もしかすると、今まで魔竜は」 サイファは一度、息を呑み、声を潜めた。 「…不完全、だったか?」 ―――――不完全。 その言い方に、なんだかしっくり来た。納得した心地で、ヒューゴは頷く。 「そうかも」 目を輝かせたヒューゴに、リュクスは胡乱な目を向けた。 リヒトは気難しそうな表情で、黙り込んでいる。 言っている当人こそ、一番戸惑っている態度で、サイファ。 「不思議なことに、今は、完成されているな。今まで何かが欠けていたらしいというのが、…逆に脅威だが」 サイファの目には何が見えているのか、正確だ。 ただ、説明したくとも、 「どう言えばいいのか、俺も困ってるんだ」 美咲との成り行きには、ヒューゴも未だ困惑の中にある。説明が難しい。 ただ、確かに、生まれたばかりの頃、生き残るために自身の一部を彼は封じたのだ。 それが、つい先ほど、自分の中に戻った。 今まで欠けていたと言われたらそうなのだろうが、欠けた部分が埋まったからと言って、ヒューゴはヒューゴだ。何ら変わらない。 困った顔のヒューゴを、立ち上がったサイファはじっと見下ろし、 「少なくとも、愛を知って死なない悪魔など聞いたことがない。それに、もしその感情を理解したのなら」 複雑そうな表情になった。言いにくそうに続ける。 「魔竜はもう、地獄へは帰れまい」 ―――――思わぬ指摘だった。 「……………………………ぇ?」 小さな呟きをこぼし、ヒューゴは硬直。 サイファが言うと同時に、何に気付いたか、リュクスが目を瞠った。遅れて、ダリル。そして、リカルド。 一瞬気の毒そうな表情になったサイファは、しかしすぐに、気持ちを切り替えた。 ダリルを促し、リヒトへ頭を下げる。 「では、御前、失礼致します」 踵を返すその背をぼんやり見つめるヒューゴの前で、リヒトの手が左右に振られる。 「大丈夫か、ヒューゴ」 「リヒト」 ぼんやり、皇帝を認めた魔竜の瞳が―――――不意に潤んだ。 「どうしよう、俺」 絶望したと言いたげな愕然とした声を上げたかと思えば、 「『愛』に嫌悪感も忌避感もなくなっちまった…!」 突如、びゃっと涙を流した。 「これじゃ地獄に帰れない…うっかり帰ったら、他の皆、殺しちまうかも…っ」 すぐには理解に苦しむ台詞を口にして、ヒューゴは力いっぱい皇帝に抱き着く。 その胸に顔を埋め、しくしく泣き出した。 それを見ながら、リュクスは安堵。 ヒューゴにはかわいそうだが、本当に、これなら大丈夫だ。彼が死ぬことはないだろう。ようやく確信が持てた。 そうかそうか、かわいそうに、とヒューゴの頭を撫でるリヒトの手を見ながらリュクスは考えをまとめる。 (ヒューゴが地獄に帰れない、ってことは。つまり、ヒューゴがうっかり愛情なんてものを振り撒けば、周りの悪魔を殺してしまうから、…もう帰れない、と) …確かにその通りだ。 ヒューゴが死なないのはいいが、思わぬ弊害があったものだ。 しかし、口に出しては言わないが、リュクスとしては気が楽になったのも事実だ。 そして、もう一人。 ヒューゴを胸に抱き寄せながら、皇帝が浮かべた表情を見て、リュクスは目を逸らす。 リヒトは微笑んでいた。 幸福そうに。 そう、彼は喜んでいる。心の底から。 ヒューゴが地獄へ帰れなくなった現状に。 ヒューゴが悲しんでいるにもかかわらず。 ヒューゴにはかわいそうだが、リュクスにとってもその方が助かる。 ヒューゴがここにいてくれたなら、リヒトは完璧な皇帝で在ってくれるだろう。 魔塔の二人が部屋を出て行くのを見守ったリュクスは、リカルドに合図。 二人を皇宮の外まで案内するように、と。 頷いた彼が消えるのを見て、リュクスは寝台の上の二人を一瞥。 こんな状態でも、ヒューゴがついているのなら、リヒトは大丈夫だろう。 仕事へ戻ろうかとも思ったが、今日はかなり、リュクスも疲れていた。 ルシアにも言われたことだし、もう帰ろう。 寝台周囲のカーテンを閉め、リュクスはとっとと踵を返す。 「では失礼します、陛下」 その言葉の後で、 「泣くな、ヒューゴ。おっぱい吸うか?」 「うん」 そんな会話が耳に入ったが、聴こえなかったフリで、平静を保ったリュクスは扉から出て行った。

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