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幕・154 皇宮伝説のひとつ
いったいヒューゴはどれだけ意識不明だったのだろう。
感覚からして、そう長いことではない気がするのだが。
リヒトの目の前で倒れたのだ、リヒトの混乱と衝撃は今の様子からしても言われるまでもないが。
魔塔へ手配を取ったのはリュクスだろうことを考えれば。
リュクスも相当、混乱したようだ。
彼は基本的に部外者を関わらせることを好まない。それが―――――この現状。
まずはごめんなさい、だろうか。
とも思うが、それはリヒトが気にするかもしれないから言いにくい。悩むヒューゴを見下ろし、
「とうとうこの日が来たかってぼくは思ったんだけど」
リュクスは言って、長く息を吐きだす。
ということは、リュクスはリヒトの感情を知っていたということだ。
なるほど、ならば彼が時折見せていた妙な態度にも納得がいく。
リュクスにも変な心労をかけていたようだ。
反省しきりのヒューゴを真剣に見下ろし、
「ほんとに大丈夫なんだね?」
リュクスは真面目な声で念押しした。ヒューゴは目を瞬かせる。
リュクスは別の言い方で、同じ言葉を繰り返した。
「ヒューゴは死なない、それをぼくらは信じていいんだね?」
びっくりするくらい真剣に言われ、ヒューゴの胸がチクチク痛む。
リュクスは、ヒューゴがリヒトと再会した少し後から、数年間、一緒に過ごした相手だ。
ご飯を作って、世話をして。いつの間にか立場は逆転したが、ヒューゴにとっては、リュクスだっていつまでもかわいい子供だ。
だから、できうる限り真剣に返した。
「うん、信じて」
今リュクスが言ったのは、ヒューゴにとって愛が弱点にはならないということでいいか、という確認だろう。それなら、問題ない。
「…そう」
リュクスが、ようやく安心した、と言いたげに頷いた。そこへ、
「もし、もう、問題がないようなら」
決死の表情で口を挟んだのは、ダリルだ。
「我々は、お暇しても?」
確かに、ここから先は引きとめすぎだろう。
ヒューゴはそこでようやく、自分が自堕落に寝転がっているのが恥ずかしくなった。しかもリヒトに抱えられている。
これはさすがに失礼だ。
しかも、ダリルとサイファは、間違いなく、ヒューゴのために呼び出されたはず。
ヒューゴはリヒトに解放してもらい、身軽に起き上がると、寝台の上で正座した。
「ごめんね、お騒がせしました。来てくれてありがとう」
後日お詫びに魔塔にお邪魔しようかな、とダリルが効いたら全力で拒絶しそうなことを考えながら、ヒューゴは頭を下げた。
顔を上げれば、蒼白になったダリルが目を逸らしている。
彼の様子に、―――――不意にヒューゴはあることに気付いた。
思わず、驚嘆の声を上げる。
「あ、やっぱり、君はすごいな」
「…、いえ、なんのお役にも立てず」
ふるふる、首を横に振るダリルは、小動物のようだ。
「いやそのことを言ってるんじゃなくって」
ヒューゴは満面に笑みを浮かべ、告げた。
「魔法使いなのに、リヒトを目の前にしても発狂してないってすごいよね? 普通じゃない精神力だよ」
とたん、ダリルの表情が固まる。
陸に上がった魚のように、ぱくぱく、口を何度か開閉した後、
「………………………ハッキョウ、ですか?」
ぎこちない声で聞き返してきた。
まるで初めて聞く話みたいな態度だなあ、と首をひねりながらヒューゴ。
「え、魔法使いの間では有名な話だよね?」
ヒューゴの態度には、悪気一つない。
ダリルは素早くリュクスを見遣る。
オリエス帝国の宰相は微笑んだ。
宰相の微笑は珍しいことこの上ないが、同時に彼から吐き出される言葉は不吉そのものだというのが、数多綺羅星のごとく煌めく皇宮伝説のひとつである。
「いや、感嘆しました」
それが宰相の答えだ。
今やすっかり冷静そのものの宰相閣下の態度は、微笑んでいても、怖いほど冷酷である。
ダリルの表情は変わらない。だが、内心愕然としているようだ。
まさか誰も言わなかったわけないし、魔法使いがこの話を知らないなんてことないよな、とヒューゴは笑顔でダリルの衝撃をスルーした。
次いで、ヒューゴはサイファを見遣る。
「元・御使いくんも一緒だったんだな。丁度良かった。あ、髪、短いけど切ったの?」
サイファはじっとヒューゴを見上げ、少しため息をついた。
「髪は、短くも長くもできる。ちなみに私の名は」
冷静な声が続く。
「サイファだ」
「それじゃ、サイファ。聞きたいことがあるんだけど」
何の屈託もなく、昔ながらの旧友に対するような態度で、ヒューゴはにっこり。
「最近、地獄から悪魔が攫われてるみたいなんだけど、何か知ってる?」
無論、サイファはもう御使いではない。
ただ、後で聞いたところによると、彼は聖女たちと一緒に皇宮へ現れたようだ。
ならば御使いと通じて楽園の状況を知ることもできるかもしれない。
聞いたリュクスは、遠い目になった。またコイツは直球で、といった態度だ。
だがヒューゴが御使いと直接コンタクトを取ることができない以上、間にサイファが入ってくれた方がうまくいく気がするのだ。
「…悪魔が攫われる、だと?」
サイファは眉根を寄せた。演技の様子はない。初耳なのは間違いなかった。
「それを私に聞いたということは、楽園の意向を探りたい、ということか」
彼の隣で、ダリルはギョッとしたように息を呑む。
それにしたって、ヒューゴの短い質問で、きちんと正確に聞きたいところを把握してくれたものだ。
頷いたヒューゴに、サイファは考え込むような低い声で尋ねる。
「どこからの情報だ」
「混沌」
これまた素直に、ヒューゴは悪友の名を出した。
リュクスは呆れたのか、傍観の姿勢で口を挟まない。
「混沌だと?」
サイファが眉をひそめるのも仕方がない。
悪魔・混沌は上位の悪魔である。
彼が地獄から出たという話は聞かない。ということは。
「待て、地獄にいる悪魔と交信する手段があるのか?」
ヒューゴを押しとどめるように片手を挙げ、サイファは気難しそうな表情で尋ねた。
リヒトがわずかに身じろいだが、ヒューゴに視線が集中している今、誰もそれに気づかない。
だが―――――別の意味で、リュクスとダリルはリヒトが気になって仕方がなかった。
どうも、ヒューゴと話すサイファに、リヒトの目が冷たすぎる気がするのだ。
周囲の微妙な反応に疎いヒューゴは、違う違う、と呑気に片手を顔の前で横に振る。
「あいつ直接ここに来たんだよ」
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