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幕・153 愛情と殺意が手をつなぐ
(笑った)
今まで。
リヒトが見せたことのない、…大人びた微笑だった。
これまで、リヒトは―――――微笑むにしたって、何かを押し殺すようで。
思い返せば、幼い頃はもっと真っ直ぐ感情を表していたはずだ。
なのに、…いつからだろう。
精巧な作りの人形であるかのように、感情らしいものを見せなくなっていった。
リヒト・オリエスは皇帝だ。
その重みが、リヒトにそうさせるのかと思っていたが。
「…生きている。ヒューゴが。―――――ここにいる」
独り言のように呟きながら、リヒトの指先がヒューゴの頬の輪郭を辿る。
宝物でも扱うように、そうっと輪郭を辿る感覚に。
―――――否応なしにヒューゴは理解した。
…本当に、リヒト・オリエスは、魔竜を。
どうして。
いつから。
いや、そんなことは重要ではない。
だからこそ、なのだ。
そのせいなのだ。
リヒトが、感情を殺すようになったのは。
愛は、悪魔を殺す。ゆえに。
「リヒト」
知らないところで、リヒトに理不尽を強いていたのは。
(…俺?)
ヒューゴは愕然となった。それなのに、
「うん?」
見下ろしてくるリヒトの瞳に、恨みも曇りも一切ない。
ヒューゴの中で、何か色々湧きだしてくる。刹那、それらをぐっと飲み込んで。
「リヒトは何も我慢しなくていいんだ。愛は俺を殺さない」
今回のような羽目に陥ったのは、ヒューゴの自業自得だ。
悪魔には害がないからと、降った呪詛を平気で一気飲みした。悪食さは反省すべきである。
美咲がばらばらのヒューゴをまとめてくれたとはいえ、食らった業は残っているのではないかと思ったのだが、どうもすっかり消えているようだ。
リヒトの腕の中、その感情を痛いほど感じても、ヒューゴが不調になる気配はない。
どうやら飲み込んだ業も消えたようだが―――――。
(あ、そうか、美咲)
彼女だ。
別れの刹那、彼女が抱いていた屈託が、すっと消えた感じがした。日差しの下で溶けた氷のように。
あの時、すべて消え去ったのかもしれない。
…いずれにせよ。
「ただ悪いけど、いくつか問題がある」
ここは大事なことだと思う。だから正直に告げた。
「俺は悪魔だから、愛ってものがよく分からない」
他人のものなら、ああこれかな、と感じ取れるのだが、自分となると。
これがいい、あれが好ましい。
そう言った感情があるにはあるが、これがリヒトと同じものかと聞かれたら、答えられない。
ヒューゴはリヒトがだいじだが、これは母性や父性に近い気がする。
「だからリヒトと同じものを返せるかどうかわからない」
そう言えば、美咲も言っていた。
―――――恋愛感情が分からない。
つまりヒューゴが、そういうものを理解できないのは、前世からという、根が深いところにあるのかもしれなかった。
そもそも、頭で理解しようとしている時点で、何かが間違っている気もする。
頭で理解するものではなく、気付いたら落ちているものであるという以上、感性の問題という気もした。
つい真面目に、ヒューゴはうんうん唸ってしまう。
「あと、リヒトに殺されるのも嫌だ」
ヒューゴにとって戦いは望ましいが、リヒトの理由ではいけない。
ヒューゴが理解した感じから、リヒトがヒューゴを殺すことを望む理由は、ヒューゴを愛しているからということになるが。
まずもって、愛するから殺すというのが、ヒューゴには謎だ。
どうやって感情の中で愛情と殺意が手をつなぐことができるのか、ヒューゴには分からない。
それでもひとつ、はっきりしていることがある。
それはそれでだめな気がするのだ。
それでは本当の意味で、リヒトは幸せになれないのではないだろうか。
リヒトが幸せになれないのなら、ヒューゴは全力で阻止する。
…ちなみに。
機嫌がよさそうな黄金の目を、ヒューゴはちらと見上げた。
リヒトはそれで本当に幸せなのだろうか? ちょっと聞いてみたいが、―――――聞けば、幸せだと言う返事が返る確信があった。
怖いから聞けない。
なんにしたって、ヒューゴは、それはちょっと違うと思うのだ。
なら、リヒトに殺されないためにはどうすればいいか? 一生懸命考えながらヒューゴは口を開いた。
どんどん好きになっていい、と言った後であれだが、
「だから俺はリヒトに嫌われるべく努力しようと思う」
…そんなことをヒューゴが言った時の周囲の反応こそ見ものだった。
リヒトは虚を突かれ。
ダリルは耳を疑い。
サイファは難しい顔になる。
リカルドこそ、表情を殺したままだったが。
良くも悪くも、室内の緊張感が霧散した瞬間だった。
「はあ?」
リュクスは、呆れ返った声を上げる。容赦なく突っ込んだ。
「どこの子供さ、きみは。わざわざ宣言して行動するなんて、昨今の子供もしないよ?」
その時には、ヒューゴも「痛いこと言った」感丸出しの表情で、無念さに目を閉じている。
「言っとくけどね、周りから嫌われる態度を取る人間を、きみは生理的に嫌って避けてる。自分が心底嫌ってる行動を、自然体でできるの、ヒューゴは?」
できないよねえ? と言外の言葉が聴こえた。
ぐっとヒューゴは胸をおさえる。
「よしんばできたとしても、周囲が受ける倍のダメージをヒューゴ自身が受けることになるよ、ぼくの年俸を賭けたっていい」
うぐぅ、ととうとうヒューゴは唸り、もうやめて、と白旗を上げた。
ぐっと目を閉じていたヒューゴは気付かなかったことだが。
それに、とリュクスはリヒトを見遣った。その唇が声を出さずに動く。
―――――もう手遅れ。
ヒューゴが何をしたとしても、リヒトはそのすべてを肯定するだろう。
昔からその傾向は顕著だったが、この数年は輪をかけてひどくなっていた。
「まあとにかく」
―――――パン、パン。
仕切り直すように、リュクスは大きく二回、手を叩く。
「お帰り、ヒューゴ」
目を開け、ヒューゴはおそるおそるリュクスを見遣った。
「…ただいま?」
ヒューゴの返事に、眼鏡をきらりと光らせ、オリエス帝国の宰相閣下―――――リュクスは半眼で言う。
「さあ、この状況を見て、何か言うことは?」
「?」
状況、とは。
ヒューゴが視線を巡らせれば。
すぐ近くに、先日ほんの少し顔を合わせただけの、魔塔の塔主・ダリルの姿がある。
気まずそうに目を逸らしている彼の隣には、元・御使いのサイファが、考え込むような表情でヒューゴを見ていた。
遠く、扉の前では。
炎のような赤毛のリカルド。
「…」
しばし、ヒューゴは状況を熟考する。
ここがリヒトの私室で、しかも寝台の上なのは間違いない。
どういうわけかリヒトはヒューゴを抱え、多忙であるはずのリュクスが番人よろしくその寝台のそばで立っている。
リカルドをまじまじ見つめれば、遠くにいる彼は、素直に安堵した表情を浮かべていた。
皇帝の私室の守りという点では、外に騎士が二人立っているだけで、十分だろう。
それが、リカルドは中に立っている。―――――それはおそらく。
ヒューゴは意識を床の上に跪いている部外者二人に向けた。
…この二人がいるからだ。
もしもの場合には、リカルドの剣が唸る手はずだったはず。
リヒトやリュクスに命じられれば、リカルドは騎士として、何があっても必ず命令を遂行する。彼はそういう男だ。
ヒューゴは心底思った。
目覚めてよかった。
「もしかして」
自然とヒューゴは正解を察して呟く。
「意識不明になった俺を心配、してくれた? 目覚める方法を知るか、目覚めない原因を探るために、塔主が呼ばれたって感じかな」
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