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幕・152 目覚めの時間

リュクスはすぐには、彼が言いたいことが理解できなかった。 ゆえに、サイファの呆れや興奮にも冷めた目を向けてしまう。 悪魔が背負う業。 そして、今目の前で起きている出来事。 リュクスから見れば、全く別問題に見えた。双方に、何の関係があるのか。 そのように、言いさして。 (…待て、関係がある、とすれば?) 視点を変えるなり、天啓のように、ある仮説がリュクスの脳裏に閃いた。 「まさか」 早口に告げる。 「愛が悪魔を殺すというのは、要するに、持って生まれた悪魔の業が、原因なのですか」 ならば、魔竜に悪魔が背負っている巨大な業が、きれいさっぱりないとすれば。 「では、魔竜は」 塔主が目を瞠り、サイファの横顔を見遣った。 「自力で業を克服し―――――悪魔としての弱点が、弱点でなくなった、ということですか?」 「即ち」 リュクスが難しい顔で言葉を続ける。 「愛は、魔竜を殺さない」 サイファは大きく頷いた。次いで、大きく笑う。 「ははっ、あはははは!」 隣で、ダリルが顔をしかめた。注意するように、サイファの袖を引っ張る。 だが、黒い翼の元御使いの笑いはなかなか収まらない。 まるで彼自身が、宿敵に勝利したようかのような態度だ。それでも。 もうそれは、皇帝の耳に届いていないようだった。 彼のすべての注意は、腕の中の騎士へ向けられている。 「こんなこと、見たことも聞いたこともない、前例がない!」 「サイファ、ここは皇帝陛下の私室です」 とうとう、ダリルが口に出して窘めたが、サイファは常の沈着な彼らしくない、愉悦に満ちた声を張った。 「弱点のない悪魔など、楽園が知れば、さぞかし大騒ぎでしょうね!」 「待ってください」 リュクスはつい、口を挟んだ。 「魔竜の業が昇華された―――――というのは、彼の行いを見ていれば納得できます」 誰に対する評価でも辛口になるリュクスでも、それは認めざるを得ない。 ヒューゴは、悪魔にしては信じられないほど、命を重く見る。 どれだけくだらないちっぽけな相手でも「殺すのは許してやれない?」と言うことが、過去を振り返る中でも、結構あるのだ。その上。 悪魔のくせになぜか治癒を覚え、味方を癒した。時に、敵の兵をも癒していたことをリュクスは知っている。 彼は戦争でたくさん殺したかもしれないが、それ以上に助け、生かし、その生かされた誰かがさらに誰かを助け、生かした。 …きっと、この連鎖だ。 それらが、魔竜から、悪魔の業を取り去っていった。 おそらくは、地獄でもそうだったのだろう。聞いた話では、彼に従う一族があるらしい。 地獄でもきっと魔竜はたくさん殺した。だがそれ以上に、守り、育て、繋いでいった。 「ですが」 だからこそ、解せない。 「ならばなぜ今回は、…倒れたのですか?」 ヒューゴの様子からして、もう大丈夫なようだが。 サイファはなんでもないことのように、肩を竦めた。 「―――――昼間、呪詛を一手に引き受けたでしょう?」 彼の表情には、ちょっと、呆れが浮かんでいる。 「悪魔にとっては栄養剤ですが、あれも、業です」 単純だが、痛恨のミスである。 ああ! とリュクスとダリルが声を上げると同時に。 ―――――パチッと、ヒューゴの目が開いた。 その、瞳を見るなり。 「あ、魔竜だ」 間抜けな呟きをこぼしたのは、ダリルだ。 ある時は群青と言われ。 ある時は、瑠璃色と言われる。 その、印象深い濃紺の瞳が、彼こそが確かに魔竜だと、竜体を知る者に教えた。 待ち構えていた様子で、その目を真っ先に覗き込んだのは。 「ヒューゴ」 オリエス皇帝、リヒトだ。 寝起きのためか、ぼんやりしたヒューゴの顔を両手で挟み込み、そっと覗き込む。 「僕がわかるか」 先ほどの、ダリルたちへの声音や口調は何だったのか。 母親が子供を甘やかすかのように優しげで、同時に、迷子のように不安そうな口調だ。 対する魔竜はと言えば。 「リヒト」 至極嬉しそうな笑顔になった。その、笑顔にか。口調にか。 皇帝が、小さな子供のように、泣くのを堪える顔になる。 心からの安堵と、罪悪感に似た表情を浮かべ、一言。 「すまない」 ヒューゴの表情から、すっと嬉しそうな輝きが消える。 真顔で、ただ、声だけは宥めるように優しく尋ねた。 「それは、何に対する謝罪なんだ?」 「―――――僕が隠しきれなかったから。我慢できなかったから」 語尾は、嗚咽を飲み込むように、唐突に途切れた。 何を。 とは、誰も言わない。 重苦しい深刻さに室内の空気が包まれようとした寸前。 「えい」 気合を入れるような声がして、リヒトの顔がヒューゴの褐色の手に包まれた。 頬を挟み込んだかと思えば、中央にぎゅっと寄せる。リヒトが面食らうと同時に、 「あははははっ」 ヒューゴが楽し気な笑い声を上げた。 「何度も言ってるだろ、忘れたのか?」 悪戯小僧そのものの表情で、ヒューゴは不敵に告げる。 「俺は簡単に死なない」 リヒトから手を離し、ヒューゴは片手で自分の胸をおさえた。 「だからどんどん好きになってくれていいぞ、俺は格好いいからな!」 惚れるのも仕方ないよな。 ヒューゴがそんな風に言ったのは。 ―――――正直言えば、茶化したかったからだ。 本音のところ、自身に対して、ヒューゴは劣等感が強い。美咲の指摘通りだ。 産み落とすなり、自身を食らおうとした母を、逆に食らい返した、おぞましくも醜い悪魔だ。 それでも。 美咲は言った。 ヒューゴは業を昇華した、と。 ずっと何かを踏みつけ、殺してきたと思ったが、それ以上にたくさんの、誰かが生きる力になれていたのだろうか。 これまで。 …かなうなら、これからも。

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