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幕・157 暇だ遊べ
「で、範囲は?」
忙しくなって、ヒューゴはこんな仕掛けをしてこなくなったから、この挑戦は本当に久しぶりのことである。
言葉が『試験』であったとしても、ヒューゴにとっては大勢を巻き込んだ『遊戯』という感が強い。
無論、リュクスがそう感じただけで、ヒューゴは真剣なのかもしれなかったが。
しかし、魔竜が本気になった時、果たしてどこまで太刀打ちできるものだろう。
リュクスにはそんな疑問がある。
いつだってどこかに、ヒューゴには遊びがあった。
今回も、きっとそうだろう。
そのせいか、時に、リュクスとて思わないでもない。
―――――この悪魔と本気の勝負をしてみたいな、と。
「神聖力が消失しない範囲内で逃げ隠れすると言っていた。転移魔法、隠形は使わず、ヒューゴは防戦のみ、だそうだ」
リヒトにも、そういう気持ちがあるのだろう。積極的だ。
無論、ヒューゴがそばにいないことに対する苛立ちもあるはずだが。
「宣言したからには、守るだろうね、ヒューゴのことだから」
あの律儀な悪魔は、これ幸いと逃げ出したりしないだろう。
「でもいきなりだな」
やはりどうしてもしっくりこない。
今回は、ヒューゴが昔のように「暇だ遊べ」と仕掛けてきた『試験』とは、やはりどうも違う。
胡乱な目でリヒトを見遣れば、返されたのは無表情だ。大半は、その厳しさに心折れる。
慣れている分、リュクスはへこたれないが、これでは、自分からは話さないだろう。知りたいことがあるなら聞くしかない。
…まずは何から聞くべきか。考えながら、リュクスは口を開く。
「ヒューゴは何を願ったの?」
基本的に、ヒューゴはおおらかだ。
ダメだと言われたら、分かった、とあっさり諦める。執着心がない。
なにがなんでも我を通す性格なら、そもそも、リヒトに縛られっぱなしではいないだろう。
ヒューゴが『試験』などと言い出した、何かきっかけがあるはずだ。
まずはヒューゴが叶えろと言った、願いが何かを、聞くしかない。
リヒトが厳格な表情のまま、リュクスの手の下にある書類を一瞥。
「きっかけは、数日後の北部行きだ」
リュクスは手元の書類に目を落とした。
たしかにそれは、数日後の北部行きに関する資料だ。
あと数日で、皇帝は帝国北部へ向かう。
表向きは、北部辺境伯の見舞いである。
皇帝御自ら出向くなど普通はない話だが、北部辺境伯は忠誠心厚い功臣だ。
しかも、現在の皇帝の祖父の代からその地を治め、守って来た。
相当な老齢であるのに、その地位を譲れなかった理由は、彼自身が地位にしがみついたからというわけではない。
北部は危険な地である。
そのせいで、早くに息子たちを亡くしてしまったのだ。
ただ孫たちが生きており、その中から後継者が先日ようやく決定した。
皇帝が訪問する表向きの理由は、見舞い。だが、辺境伯の容体は危篤。
よって、葬式ができる可能性が高かった。
なし崩しに後継者の任命式にも出席することになるだろう。要するに、重要なのはそこだ。
…その北部行きが何だというのだろうか? 意外なことを言われ、リュクスは面食らった。
「行きたくないの?」
脳裏に浮かんだのは、無邪気に、「わあおじいちゃんに会えるの楽しみ」とか言っていたヒューゴの姿だ。
リヒトの表情がさらに厳しくなる。
「それはない。…そうだな、何から話せばいいのか」
―――――それからリヒトが語ったのは。
今朝の話だ。
朝、皇帝の私室内に繰り広げられたのは、いつもと同じ光景だった。
リヒトが起きて顔を洗えば、ヒューゴの手が器用に動き、リヒトの今日の衣服を整えていく。
最近ヒューゴは、奴隷の時のように、リヒトの私室に長く居座ることはなくなった。
が、騎士となっても、昔からやることは変わらない。陛下の奴隷という印象が周囲から抜ける気配もなかった。
リヒトの体調管理も、衣服の準備も、ヒューゴの仕事だ。
予定の調整も昔はしていたが、リヒトが即位してからは、侍従が管理するようになった。
ヒューゴは奴隷だったので、リヒトの予定管理をするには立場が問題になったのだ。
そもそも、皇子の予定の管理を奴隷がしていたこと自体が、異例である。
首元までボタンをとめたとき、目が合った。
とたん、ヒューゴはにっこり。とても嬉しそうだ。
リヒトにとっては―――――この顔がいけない。
泣いても笑っても怒っても、格好いいのだ。この世でリヒトが一番好きな顔立ちである。
いや正直、ヒューゴであればリヒトはなんでもいい。
たとえばヒューゴがそこらの石ころだったとしても、格好いいと思うだろう。
そんなことを言えば、リュクスには早く病院に行けと言われる。
大丈夫、手遅れだ。
ヒューゴは本日も絶賛、男前である。
うっとり見惚れた時には、からかうような、楽しそうな声で、ヒューゴが何かを言った。
そのままヒューゴの腕が伸びて、肩に両腕が回される。そのまま、穏やかに抱きしめられた。
ヒューゴがリヒトの肩に回した自分の腕の上に顎を乗せるように、くっつく。
慣れた温かさと匂いに、安心したリヒトが目を閉じた時のことだ。
―――――ほんのわずか、血の匂いがした。
(なんだ?)
一気に目が覚めた心地で、リヒトは目を開ける。
ヒューゴは夜から、リヒトの傍を離れていなかった。
つまりその血の匂いは、侵入者と相対した時に返り血を浴びた、とか、そういうものではないはずだ。では、いったい。
―――――どうした、ヒューゴ。
抱きしめられたまま、思わず、深刻な声を出した時。
パッとヒューゴはリヒトから離れた。その顔は、夢から覚めたようでもあって。ただ。
…ヒューゴの唇から、犬歯が見えた。
ヒューゴの犬歯が鋭いことを知ってはいるが、そこまではっきりと鋭さを感じたのは初めてのことだ。
思わず凝視すれば、ヒューゴは片手で口元をおさえた。隠すように。
その上で、むず痒いかのように、手で唇をこする。
いや、こすったのは、歯だったろうか?
ヒューゴの行動も気になったが、騎士服の袖ににじんだ血に気付き、リヒトは咄嗟に、叱るような声を上げた。
―――――自分で、自分の手首を噛んだのか?
なぜそう感じたのか。
傷口が、たった今できたことを、リヒトは確信していた。
それも、あの犬歯でつけた傷だ、と。
もしかすると、別の理由だったかもしれない。
だがヒューゴは、誤解だよ、といつものような飄然とした態度で応じたりしなかった。
ここで彼が、傷の理由は別にあると言えば、リヒトはおかしいと思いながらも信じたかもしれない。だが。
刹那、視線に圧でも感じたように、ヒューゴは一歩下がった。狼狽えた態度だ。
―――――…?
違和感に、リヒトは眉をひそめる。ヒューゴにしては、滅多にない様子だったからだ。
今、ヒューゴがどんな表情を浮かべているのかと言えば。
少しの戸惑い。
盛大な狼狽。
リヒトの前ではとても素直なヒューゴが、どうやら心底困っているらしいことは、察せた。
しかし、なぜ。どうして。今、いきなり??
――――ヒューゴ。
どうした、と声をかけ、開いた距離を詰めようと動くなり。
―――――昨夜のお願い、どうしても聞いてくれない?
機先を制するように、ヒューゴは声を張った。
気合を入れるような声の大きさに、リヒトは面食らう。足を止めた。
―――――許さないと言ったろう。
即答したが、内心、驚いていた。
終わった話を、こうしてヒューゴが蒸し返すのは珍しかったからだ。普段なら、
「だめ」「そっか」
それで終了である。というのに。
これは、明らかに、今、目の前で起きた出来事を、誤魔化そうとしている。
稚拙な誤魔化しだ。
自覚があるのだろう、ヒューゴは、きゅっと唇をへの字に引き結ぶ。
それでも、押し通した。
―――――ごめん、でもやっぱり俺は諦めきれないから。
拳を握り締め、そうして提案してきたのが。
「…追いかけっこ、いや、鬼ごっこの抜き打ち試験ってわけ?」
リヒトの話に、リュクスは眉をひそめた。ずばり、指摘。
「本当、聞けば聞くほど、ヒューゴらしくないね。そんなに、つい、血が出るほど自分を噛んだことを追及されたくなかったってことだろうけど」
リヒトの表情から、一瞬、厳しさが抜ける。
たちまち浮かんだのは、…心配だ。
すぐに消えたが、リュクスと同じことを考えているに違いない。
自分で自分を噛んだ。ヒューゴが。リヒトを抱きしめているときに?
そんな自傷行為など、ヒューゴであれば、どんな衝動があったとしても、誰にも知られず行うはずだ。知られたくもなかったはず。それが。
…その後の反応も、妙に幼い。
そもそも、ヒューゴという存在を考えた時、そのような行動とは無縁に見える。
(いったい、どうしたんだ?)
「ひとまず、分かった」
何を誤魔化したかったのかは、直接本人に聞くしかないだろう。
では、叶えてほしい願いというのは、本当の望みというわけでもないはず。
とはいえ、一応、きちんと聞いておこうか、とリュクスは再度尋ねた。
「で、ヒューゴは何を望んだのさ」
ヒューゴがリヒトにしたお願いとはなんのか。
それが北部行きとなんの関わりがあるのだろうか。
とたん、リヒトは渋面になる。
リヒトは本来、気に食わない話なら、氷のような眼差しになるか、顔からいっさいの表情を消すかのどちらかだが、相手がヒューゴとなれば、困惑が先立つようだ。
「北部への移動の際―――――」
リヒトはあっさりと答えたが。
リュクスは、彼にしては珍しく、ぽかんと口を開けて固まった。
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