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幕・158 グラムス邸
× × ×
皇宮近くに位置するその屋敷は、つい最近人が入ったばかりだ。
景観はよいが、こじんまりとして、貴族が家族で住むには小さいが、地方の貴族がたまに少人数で訪れ拠点とするには、ちょうどいい大きさ。
ただし、たまにしか使わない場所と考えれば、高価な買い物になる。
よって、長い間買い手がつかなかった物件だ。
そんな場所に、最近、人が出入りするようになっている。
夕暮れ時。
その屋敷の玄関近く、二階への大きな階段の下で、エイダンは人待ち顔で佇んでいた。
エイダン―――――皇宮の奴隷だ。首には奴隷の首輪がついている。
だが、あとひと月も経たずして、彼は平民になる予定だった。
(人間が変わるわけでもないんだけど…)
元・奴隷というレッテルは消えないだろうが、平民になれば、色々と今までとは違ってくるのは当然だ。
税金も納める必要がある。
どうあっても、仕事が必要だ。
平民にとっての普通の生活に慣れる、その手始めの訓練として、エイダンはこの屋敷に配属された。
奴隷としてではなく、侍従として。
現在のエイダンは、中途半端な存在だ。
奴隷の首輪をしていながら、侍従の制服を着ている。
だがこの屋敷の主と使用人たちなら、問題にしないだろう、ということで、エイダンは皇宮に通いながら、この屋敷に住まわせてもらっていた。
ちなみにこの屋敷の主の名は。
―――――ヒューゴ・グラムス。即ち。
魔竜にして、皇帝陛下の専属騎士である。
屋敷を持つにあたって、彼はこう言ったという。
―――――騎士って言っても一代限りだし、執事なんかいらないよ。使用人も。そもそも屋敷だって必要ない。ずっと陛下の傍に控えてるのに。帰らない屋敷なんて無駄じゃない?
ヒューゴがどのような顔でそう言ったのか、見ていなくともエイダンには分かる気がする。
心からびっくりした顔に、次第に面倒くさそうな表情が浮かんで、拗ねたように唇を尖らせる様子まで想像がついた。
それでもリュクスがヒューゴに空いている屋敷を用意し、人を雇った理由も分かる。
いくらヒューゴが皇宮に住んでいるようなものだと言っても、形式は必要だ。
それも聞いた話だと、皇宮内の騎士たちの棟に一部屋与えられているようだが、実際に使用することはほぼないという。
ではどこにいるのかと言えば―――――皇帝の傍だ。
以前は身分の問題があり、貴族だけの会議の時などは控えていなかった。
しかし、騎士となってからは堂々と、皇帝の席の斜め後ろで控えているらしい。
つまり、皇帝を見れば絶対的に視界に入る位置にヒューゴはいるわけだ。
奴隷上がり、しかも悪魔、と顔をしかめる貴族も多いが、その容姿と悪魔の力に魅了される者も多く、少なからず秋波を送られると聞く。
ヒューゴ曰く、ウチのリヒトが一番、という態度は不動であり、声をかけたとしても彼が従う可能性は期待薄にもかかわらず、寄ってくるから鬱陶しいようだ。
嫌われている方がよっぽど気が楽、というのが本音らしい。
―――――そういう手合いを少なくするためにも、一応、これも必要な措置だよ。
リュクスは言って、この屋敷を準備した。
オリエス帝国において、皇宮周辺の一等地に建っており、しかしかつて没落した貴族の別宅、という、まあ、曰く付きの物件なのだが、位置も景観も申し分なかった。
場所や規模から考えれば、値段は二束三文。国庫は痛まない程度の額だ。
というか、金はヒューゴがリュクスに管理を一任している彼自身の資産から出ている。
それは今まで、ヒューゴが当然受け取るべきだった報奨金や労働に対する対価だ。
金など興味がない、正確には必要がないヒューゴは、それらがどう使われるかにまでとやかく口出ししない。
むろん、辺境の一軒家に比べれば、手も届かない高額ではある。
…にもかかわらず。
数十年後、この屋敷の価格は、信じられないほど跳ね上がることになる。
オリエス帝国の宰相閣下と言えども、そこまでは予測しなかったに違いない。
この時はただ、自身に無頓着な悪魔に、屋敷が必要だっただけだ。
屋敷があり、そこに勤める者もいてこそ、この地に根を張ったという印象もできる。
実質問題、専属騎士が皇宮を離れることに対して皇帝がいい顔をしないため、屋敷の主であるヒューゴ・グラムスは滅多にこちらへ足を運ばないだろうが―――――。
数日前からこの屋敷は名実ともに、グラムス邸である。
そこになぜ、エイダンがいるのかと言えば。
―――――近いうちに、君は晴れて平民だよ。おめでとう。
先日、リュクスはそう告げた。次いで、
―――――信じられる人間と言う点において、君が適任だ。日中はこちらにも顔を出してもらうけど、グラムス邸に住むといい。もう奴隷じゃなくなる以上、奴隷棟に住むわけにもいかなくなるからね。グラムス邸では、侍従として働いて。
基本的には、皇宮へ通い、リュクスの傍で下働きをすることになるだろうが、エイダンの住む場所を考慮した結果、ヒューゴの屋敷がいいという結論に至ったらしい。
皇宮での仕事が第一であるため、侍従としての仕事は早朝と夜に限られるだろうが、できうる限り頑張ろうと真面目なエイダンは考えていた。
様々な配慮が申し訳なく、恐縮するエイダンにリュクスは苦笑した。
―――――どうだかね、今まで以上に苦労することになるかもしれないよ?
先の見えなかった昔に比べれば、今は天国だ。
それにしても。
小綺麗な侍従の制服を着たエイダンは、金髪のクセッ毛を揺らし、階段の上を見上げた。
先ほどから、何度もしている動作だ。不審だったか、
「ん、どうした、小僧」
足元から、声。
「わあ」
びっくりして飛び上がったエイダンが足元を見下ろせば。
「あ、クレトさん。何か足りないものでもありますか?」
立っていたのは、小柄でずんぐりむっくりした印象ながら、威風堂々としたドワーフだ。
斧を肩に担ぎ、何を言うかと思えば。
「文句はない。単純にやることがないのが苦痛でな、宿泊と食事の礼に薪割でもと」
義理難い性格である。エイダンは慌てて両手を横に振った。
「いえそんな、困ったときはお互いさまと言いますし」
「それではいかん、きさまはいいかもしれんが、わしがいかん。やることをくれ、仕事をくれ、何もするなとは、どういう拷問だ」
エイダンが遠慮すれば、怒った態度でクレトは足を踏み鳴らす。
「し…仕事をお願いしても、いいんですか…?」
エイダンは思わず自分の口を押さえた。
そこにこもった気持ちは、遠慮や申し訳なさではない。
ドワーフという最高の職人に仕事を頼める機会など、帝国一の貴族でもきっとほぼないはずだ。
なのに今、目の前にいるドワーフは、落ち着かないから仕事をくれと自ら申告した。
そのあまりに貴重な機会に元奴隷の自分が直面しているという、歓喜やら興奮やらなにかわからない昂揚から、つい、エイダンの目が潤む。
潤んだ大きな目に、クレトがたじろいだ。
「い、いや、怒っているわけではないぞ? 泣くでないっ、ええい、執事のじじいはどうした、いやまず、ギデオンの弟子―――――ああ違う、この屋敷の主はどこだ! さっき帰ったのではなかったか?」
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