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幕・161 遊ぶときは全力で

× × × 「ああ」 皇宮の上階で日没を見届けた、几帳面に黒髪を撫でつけた官吏は、小さく息を吐いた。 「陽が落ちましたね」 今宵の日没は、また格別だ。 どこかで勝利の凱歌を上げる悪魔の声が響いていることだろう。逆に。 ―――――皇宮の空気は、葬式でも滅多にないだろう陰鬱な空気に満ちていた。 さもありなん、お気に入りの騎士がそばにいない皇帝の気分は直滑降の一途であり、宥めるべき役目の宰相ときたら、悪魔に勝利を譲った今、心に余裕は全くないはずだ。 皇宮のきらびやかな通路に、魔法のあかりが灯りだす。 夜の皇宮は昼と違う顔を見せ、妖艶な上品さを醸し出していた。 窓からそちらへ顔を戻した彼の足元に畏まっているのは、皇宮の侍従の制服を着た人物。 ごく普通の顔立ちの、何ら目立たない容姿の彼は国の諜報機関『月影』の一人だ。 「…それで」 一重の目を眼鏡の奥でひからせ、官吏は足元を見ず、確認。 「結局、報告はわたしの役目ですか」 言葉と同時に、足元の男が差し出した書類を受け取り、彼はそれに目を落とした。 ―――――彼の名は、ジョシュア・スレイド。宰相リュクス・ノディエの側近の一人だ。 実家は伯爵家。 現在は子爵を名乗っているが、父親であるスレイド伯爵が亡くなれば、その後を継ぐ嫡男である。 齢、三十。 現在の皇帝がその玉座につくまで、麻のように乱れた世相の中、早くから彼らについた人物だ。 ただし、皇帝を盲信する姿勢はない。 皇帝派でもなく、貴族派でもない。 中立派だ。 常に、国にとって、民にとっての良いこととは何か―――――を考え、行動する、ある意味無私の人間だった。 ゆえに、もし皇帝やリュクスがその道から外れることがあれば容赦なく見捨てるだろう。 ジョシュアをよくよく知れば、彼ほど高潔な人間はいないという印象を抱く。 ただし、世間の彼への評価は灰色だ。 なにせ、リュクスの側近でありながらも彼からは一定の距離を置いていた。 その上、他の貴族や力をつけた商人などにも顔が利く。 そういった行動から、腹に一物あるのではないかというのが、世間の彼に対する評価だ。 なにより、ゴリゴリに冷静で、能面のような無表情であるから、切れ長の目尻なども合わさって、『冷酷』というのがその印象である。 とはいえ、周囲からいくら不審を買っても、立っていても座っていても、背中は常に真っすぐで、隙が微塵もなかった。 要するに親しみにくい。 それでも宰相は彼を重用するのを止めず、皇帝もその人事に口を挟まない。 だからこそ、『個』として動きやすい、という側面もあった。 「さすがはグラムス卿、といったところですが…」 報告書にざっと目を通した彼は、 「…??」 半ばあたりで首を傾げる。 何かおかしい。 『月影』は今日、ヒューゴ・グラムスの捕り物に追われていたはずだが。 「―――――…フィオナ皇妃の料理に混入されていた毒の入手ルートの追跡完了、及び顧客名簿の入手とは何でしょうか」 ヒューゴと追いかけっこの最中に、調査に苦労していたそれらの情報が手に入ったとある。しかも、偶然。 なにをどうしたらそんな話になるのか。 「また、先日よからぬ企みごとをしていた貴族子息たちが集まる酒場を発見、そこのマスターや従業員の証言を確認、魔法で…記録…とはいったい」 あとは裏付けを取るだけというところまで、仕事が進んでいた。 ぎゅっとジョシュアの眉間にしわが寄る。 おかしい、一日がかりで国直属の諜報機関から治安維持部隊の末端に至るまで、ヒューゴ・グラムス探索に精を出して…いや全力を尽くしていたことは分かるのだが、その目的が達成できない代わりとばかりに、他の急を要する重要事項案件の解決に目途が立っているのはどういうことか。 ジョシュアは足元の『月影』構成員に目を落とした。 まさか、悪魔の追跡に手心を加えたなどということがあるのだろうか。 (ないとも言い切れないところが如何とも…) 『月影』の構成員たちの能力は高い。 騎士に勝るとも劣らぬ剣の技能。 白兵における個人能力、対団体の戦闘能力の高さもさることながら。 暗殺から炊事洗濯、果てはダンスと言った貴族の作法に至るまで、個人の能力がズバ抜けているのだ。 ついでに言えば、この短時間にここまできちんと報告書の体裁を仕上げて提出した事務能力の高さまで全員が保有している。 舌を巻かずにいられない。 この有能な人間たちを、他国や他の貴族たちに奪われるのは絶対に避けたいところだ。 着目すべきは、『月影』という集団の原型をつくりあげたのはレディ・ルシアという点だった。 今回、標的となったヒューゴ・グラムスは、裏側でルシア・メレディスの顔を持っている。 レディ・ルシアに彼らが甘くなるのも仕方ない話のはず。 ジョシュアは真っ直ぐ尋ねた。 「まさか、グラムス卿の探索に手を抜いてはいませんよね」 「それはあの方に対する侮辱に当たります」 返されたのは、迷いない答え。 ジョシュアの疑念は、瞬く間に溶けた。 「なるほど」 相手はあのヒューゴだ。 常に皇帝の傍に控えているため、話す機会など滅多にないが、少し接触しただけでもひととなりは理解できる。 …この例えはアレだが。 ―――――彼は、遊ぶときは全力で遊ぶ人物だ。 その姿勢は、余裕ある大人と言うより、仔猫がおもちゃにじゃれつきまっしぐらに遊ぶ姿に重なる。 確かに、そういう彼だからこそ、遊び相手の手加減は嫌うし、…彼相手だからこそ手加減などできるはずもなかった。 そもそも、ヒューゴは逃げるにあたって厳しい条件を課されているはずなのだが、それをものともしていない。 「失礼、愚問でした」 格下の相手というのに、ジョシュアはきちんと頭を下げて謝罪。 ジョシュアという人物を知っている構成員は、特に驚く様子もなく、応じて頭を下げる。 「ではこの結果は」 淡々と言うジョシュアの眼鏡が、きらりとひかった。 「偶然、ではなく、逃亡者側の作為と見ていいでしょうか」 『月影』の構成員は、今度は額が床につくまで頭を下げる。 ジョシュアはしょっぱいものを口いっぱい頬張った気分になった。 ヒューゴ・グラムスが有能なのは知っている。 それが目立たず、悪魔という本性のみで語られるのは、常に皇帝の身近に控え、それを発揮する機会がないからだ。 だが、何も。 (―――――こうまでしてうちのめさなくてもいいだろうに) これでは、完全に皇帝側の完敗だ。 敗北という文字が、ここまで徹底的に臓腑にまで食い込む感覚はそうそう味わえない。 しかもおそらく。 ヒューゴに悪気はない。それが一番、悪い。 …どうしてこうも、負けん気を刺激する方法を取るのだろう。 そんなものがさして強くもないはずのジョシュアですら、それなりに悔しくなるのだ。 あの宰相、―――――なにより、皇帝がこの報告書を見れば、どんな気持ちになるか。 「時間切れですが、できるだけ早くグラムス卿を皇宮へ…いえ皇帝の元へ連れ戻すように。それから」 重い気分を引きずりながら、ジョシュアは宰相の執務室へ足を向けた。 「連れ戻した後は、皇帝の宮殿から、人払いを」 ゴリゴリに冷静と言われるジョシュア・スレイドだが、彼とて怖いものは怖い。 ましてや『あの』皇帝の怒りとなれば。 それが民に向けられたなら、命をなげうってでも止める覚悟だが。 …今回は悪魔の自業自得だろう。 重い気分をため息と共に吐き出し、表面上は冷めきった態度で告げる。 「―――――今夜は、悲鳴が上がるでしょうからね」 悪魔の。

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