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幕・160 魔竜が住んだ屋敷

出て行ったところは見ていないが、ヒューゴのことだ、窓から出入りしたことも考えられた。 屋敷の主人となった以上は、扉から出入りしてほしい、と次に会った時はお願いしようと小さな拳を握り締めた時。 女性は、軽やかな笑い声を立てた。 その姿は、きっと誰にだってずっと見ていたいと思わせるだろう。 「いいえ、まだ居りますわ。出かけるのは、これからです」 言いながら、彼女は手に提げていた外套を身体に羽織った。 目に毒な、魅惑的な肉体の輪郭は隠されたが、逆に美貌がさらに際立つ。 隠したはずなのに、ますます目立つとは、どういうことか。 なんにしろ。 …そこまで知っているということは、彼女は今までヒューゴと共にいたということで。 「あの」 尋ねにくい気分は消えないが、胸の前で両手を握り締め、エイダンは頑張って口を開いた。 「ご、ご主人さまとはどのようなご関係で」 恋人、だろうか。 ヒューゴより年上に見えるが、彼は悪魔だ。 見た目よりずっと、年を重ねている。年齢は問題あるまい。 なんにしたって、ヒューゴと彼女が並び立った様は―――――危険だ。 想像だけで、エイダンは鼻血をふきそうになった。頭に登った血を下げるためにも、すぐ、思考を消す。 ただ、残念だが、恋人ではない気がした。 なにせヒューゴは、―――――皇帝のものだ。 では、どういう関係なのか。 知っておかねば、正しい対応ができない。 俯きたくなるところを堪え、ぐっと顔を上げたエイダンを慈しむような眼差しで見下ろし、 「わたくしは、ルシア・メレディス」 密やかに名乗りを上げた。そして、子供に言い聞かせる態度で一言。 「この屋敷の主です」 姿勢が良いためか、妙に目につく豊満な胸に手を当て、淑やかに、にこり。 「?」 エイダンは目を白黒させた。 この屋敷はグラムス邸―――――主はヒューゴ・グラムス。彼女であるわけがない。 明らかに彼女の言っていることは間違いだ。エイダンはそう断じたが。 ごく丁寧で誠実そうなルシアが、嘘をつくとも思えない。 (待った。もしかして肉親、とか?) 真っ先に、ルシアの容姿に衝撃を受けたが、…その瞳。 長い漆黒の睫毛に縁どられた、好奇心に満ちた童女のようにきらめく双眸は、印象的な濃紺。 思わず、あ、とエイダンは声をこぼす。 ヒューゴと同じ色彩である。そっくり、そのまま。他人が持てる色彩ではなかった。 ではルシアも悪魔なのだろうか。 屋敷の主の肉親であるならば、確かに主人と同様に接さねばならないだろう。 「ごめんなさい、そろそろ出ますね。帰りが遅いと心配をかけてしまうの」 申し訳なさそうに告げるルシアに、彼女をひきとめてしまっていることに気付いたエイダンが、恐縮しながら横へ退く。 「失礼致しました」 深く頭を下げれば、視線を頭に感じた。 「…何か話があったのではないですか? すぐすむ話なら、聞かせて下さいな」 「あ、その」 エイダンは、少し言い淀んだ 貴女には関係がありません、なんでもない、と突っぱねるには、ルシアの声は思いやりに満ちている。 それに、話さないより話した方が、ルシアを早く解放してあげられそうだ。 この様子だと、話すまで彼女は出て行きそうになかった。 気がかりを残させるのも、申し訳ない。 すぐ心を決め、エイダンは口を開く。 「ご主人さまに、一度くらい、屋敷で食事をされて行かれてはいかがでしょう、と提案をさせて頂こう、と、思ったのですが…」 言いながら、エイダンの声が小さくなっていった。 なんて生意気だろうと内心頭を抱えてしまう。 侍従風情が主人に提案するようなことではない。 しかも今はまだ、エイダンは奴隷の身分だ。 奴隷や侍従は黙って主人に従うべきであろう。 だが、ヒューゴなら。 こう伝えれば、笑顔で頷いてくれそうな気がしたのだ。…それでも。 甘えていて、出過ぎた行動には間違いない。 真面目なエイダンが、落ち込んだその時。 「―――――素敵ですね」 沈んだ気分をすくいあげるように、ルシアが嬉しそうな声を上げた。 「屋敷の方々を、忘れていたわけではないのですが、…余裕がなくて申し訳ないことをしました」 なぜか、ルシアが目を伏せ、頭を下げる。 「え、え」 戸惑いの声を上げるエイダンに、ルシアは丁寧に提案。 「では明日は如何でしょう? 夕刻には来られるように致しますので、食事の準備をお願いできますか?」 「はい、もちろん!」 反射で元気よく答えたエイダンが、顔を上げた時には。 「では、行ってまいります」 ルシアはきちんと目を合わせ、挨拶をした。 「いってらっしゃいませ」 咄嗟に、エイダンは深く頭を下げる。 やり取りに違和感を覚えたエイダンが、はたと顔を上げた時には。 ルシアの姿は消えていた。幻だったかのように。 今度、ヒューゴに会ったら、ルシアのことを聞かねばならないな、と思うなり。 「…あ、れ?」 思わずエイダンは声を上げていた。 そう言えば、ルシアが最初、階段の上から現れた時、なんと言ったのだったか。 ―――――どうしたのですか、先ほどと同じところで立ち尽くして。 …先ほどと、同じところ。 これはつまり、ルシアが事前に、そこにいるエイダンを見ていたということで。 ここに立つエイダンに事前に会った相手は―――――ヒューゴ・グラムス。 とたん、何かがエイダンの脳裏で閃き、つながった。 「…」 まさかまさか、と信じられない気持ちのまま、エイダンは目を瞬かせる。だが。 そう言えば、ルシアの―――――少年であっても男である以上、そこに目が行くのは仕方がない―――――胸の大きさは。 気やせするヒューゴの、分厚い胸板と同じサイズだった気がする。…目算にすぎないが。 知ってはいけないことを知った気分だったが、おそらく、ヒューゴはこれを隠していない。 その場で座り込みそうな衝撃を受け、エイダンは一人、ふらついた。 直後、心に決める。 ―――――二人は別人。 そうだ、それに決めた。 なにしろ、ヒューゴの身に絡みついているのがそこはかとなく見える神聖力の鎖が、ルシアの身体には見られなかった。 それを謎に思った者が過去、ルシアに尋ねた時、彼女は女の秘密と微笑み、話はそれきりになったという。 握り拳を作り、エイダンは持ち直した。 とにかく、今、彼がすることは―――――厨房へ、ヒューゴの予定を伝えに行くことだ。 自分に言い聞かせ、エイダンは真面目な顔で踵を返した。 そこで出会った執事にヒューゴの一時帰宅を告げたとたん。 ヒューゴが、何を考えたか、皇宮で起こした騒ぎを知り、エイダンは愕然となった。 そうと知っていれば、引きとめたのに。 思ったが、エイダンは無力である。知っていても、何をできたかは分からない。 そもそも、使用人たちもヒューゴが帰ったら知らせるようにと言われてはいたが、命じた方も命じられた方も、まさか、屋敷にヒューゴが戻るとは思っていなかった。それに。 屋敷の主人はヒューゴである。 ヒューゴが望むことに、使用人たる彼らは逆らえない。 エイダンも含め、彼に従うことこそが仕事であった。 落ち込む彼を、使用人たちはそれぞれに慰めてくれた。 むしろ知らなかった方がよかったよ、と。 板挟みにならずに済んだエイダンは、とりあえず前向きに考えることにした。 気を取り直した使用人たち一同は、今日の仕事をこなす傍ら、明日の夕食にむけての準備を始め、過ぎたことはきっぱり忘れた。 こうして、色々な衝撃からはじまったグラムス邸は、この数十年後。 ドワーフが手を入れ、魔竜が住んだ屋敷として、天文学的金額がついた。 結果、国が購入し、長く来賓用として管理されることとなる。

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