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幕・163 暴れろ

要するに、女一人に、大勢が翻弄されている。 しかも振り回されている大勢は、異種族のみならず幼子の売買を堂々と行うような、最後の一線を平気で跨ぎ越す連中ときた。 彼らを一網打尽にするために、一か所に集めてくれと持ち掛けたのはレスターの方だが。 現実となったことに、ばかげていると怒るべきか呆れるべきか感心すべきかまだ態度を決めかねている。 女がこうも派手に応じたということは、彼女の目的とレスターの目的が同じだったということだろうが。 頭に血が上っているにしても、お粗末な結果だ。 (それだけやり方が巧かったのか…どうやったんだ?) ふっと好奇心がわきおこる。とたん、愕然とした。 方法をどうにかして『知りたい』と思う―――――その感情自体が、件の女に彼自身が振り回されている証拠だと感じたからだ。 冷静になるべく、煙草の煙を肺一杯に吸い込んだ。 何にしたって、いい機会だ。 一線を越えた組織は一丸となり、躍起になって女を追っている。 「見せしめが三人なんて、足りねえ」 ぼそり、レスターは呟いた。そばにいた男も同意する。 「まとめて、粛清しないとな」 「レスターさま」 不意に、無機質だが、愛らしい少女の声がすとん、と落ちた。 レスターは足元を見遣る。その目に、小柄な体が影のように地面の上で畏まっているのが見えた。 気付けば、騒動の音は、近くなっている。 小柄な少女が、顔を上げ、冷静に告げた。 「来ます」 直後。 真正面にある、スラム街の寂れた建物、その角を回り込んだ人影がある。 女だ。 薄暗い中、微かに視認できるシルエットからレスターはそう判断した、が。 シルエットを認識するなり、レスターは呆気にとられる。なにせ、 「こんなときに、ドレスかよ!」 思わず、叫んだ。 当然のツッコミだろう。 そう、女は、ドレス姿だ。長いスカートの裾を捌く姿は、こんな場合にも、優雅極まる。 余裕に満ちた動きは、見ていてはらはらするが、あろうことか、女の後ろから現れた全員、誰も追いつけない。 しかも、全力疾走しながらあそこまで優雅ということは、それだけ、女は心に余裕があるということだ。 感じるだけで憑り殺されそうな殺意に追い立てられながら、大した度胸である。 …すごい状況だ。 確かに、そうしてほしいと勝手に頼みこんだのはレスターである。 しかし、いざ現実となって目の前に叩きつけられると…。 ぽろり、レスターの唇の端から、火のついたタバコが落ちた。しかも。 優雅な疾走をする彼女が、待ち伏せし、横から飛びつこうとした相手を、悠然と避けつつ、襟首を引っ掴んだのが見える。 勢いもそのままに、自分の前方へ投げ飛ばした。怪力である。 その上で、ヒールで、うつ伏せに倒れた首筋を踏みつけにして進む。 それで完全に気絶したか、後ろから、女を追う男たちの障害物になった。 そこで何に気付いたか、 「…しかも、ハイヒールで危なげなく走っている…」 レスターの隣の男が、呻いた。とんでもない。 追い付けないなら、と投げつけられる暗器に女は目もくれない。 舞でも舞うようにすべて躱し―――――その姿は美しいが、まるでおちょくっているようでもあった。 つかまえてごらんなさい、と高笑いをして挑発されているような。 なるほど、これでは、追いかける側に、頭に血が上るのも無理はない。 が、見惚れている場合ではなかった。 「頃合いだな」 ごほん、咳払いしたレスターは足元に落ちていた煙草を踏みつける。 火が消えた。隣にいた男は我に返った様子で頷く。 「そうだな。―――――では」 廃屋前の広場で、二人は揃って片手を挙げた。 「反撃だ」 二人の首領の合図を待ち構えていたかのように。 そこここから、大勢の人影が現れる。 野蛮、粗野、そういった印象の男女が、手に手に武器を持ち、赤い旗を振られた闘牛のように突進してくる集団の方を見遣った。 赤い旗―――――それは間違いなくあの女だ。 外套を目深に被って、顔は全く分からないが、どう説明すべきか、…尋常ではない雰囲気がある。 わずかに覗く唇はぽったりとして色気が滲み、常に微笑を湛えていた。 その、微笑が。 こちらに動きがあるなり、わずかに変化した。…ひどく楽し気、と感じるのは、気のせいだろうか。 レスターは気を取り直し、声を張った。 「敵は誰か分かっているな」 確認すれば、レスターの足元に控えていた小柄な少女も立ち上がる。 好戦的な空気が高まり、皆の唇に不敵な笑みが刷かれた。 余計な言葉は必要ない。 やるべきことははっきりしていた。 自分たちの町に、追い出すべき害虫がいる。 駆除せねばならない。 「それさえ、分かっていればいい。そら、―――――暴れろ」 猛獣に対して餌でも投げるような態度で、レスターは適当に腕を振り下ろす。直後。 空気が、動いた。 聞くに堪えない怒号と罵声が、レスターがいる暗い路地裏前の通りで激突する。 レスターたちにとっては、馴染みの音だ。 この真ん中にいた女はどうだろうか? 先に、警告はしていた。 ここまで連中を連れてくれば、こちらも全力で掃討すると。 釘もさした。 この街の問題は、この街の人間で、この街の中で始末をつける、と。 想像以上に上手に、女は囮の役目を果たした。恐ろしく肝が据わっている。これならば。 無事、離脱しただろうが。 正直、女の安全までレスターたちは考えていない。 「…向こうの頭を捕らえる必要があるな。こちらは出るぞ」 その話は最初からついていた。 一番大きな獲物は、そちらに譲ると。 焦る様子もなく、レスターはひらりと手を振った。相手は無言で姿を消す。入れ違いに。 「レスターさま、こちらに例の」 レスターの足元に、あの少女が戻ってきた。 珍しく焦った声を上げた少女へ、目を瞬かせたレスターが顔を向けた時。 「…やはり、いらっしゃいましたわね」 背後から、すぅっと耳にしみわたるような、声が響く。 だが。 少女を見下ろしたまま、レスターは振り向けない。 見下ろした少女も、硬直して動けなくなっていた。 その細い首筋に、鋭い刃を突き付けられているからだ。 ―――――そうしているのは。 黒づくめの衣服で身を包んだ娘。能面のような無表情だ。ただその顔には、見覚えがある。 レスターは彼女に、軽蔑の目を向けた。 「…皇宮の犬が」 ただし、吐き捨てたレスターも、下手な動きはできない状況だ。 その喉仏の真上に、鋼糸が巻き付いていた。 下手を打てば、一瞬でレスターの首が落ちる。 このような武器を持つ人間にも、心当たりがあった。 ―――――目の前で、レスターの部下である少女の首に刃を突き付けている娘の、双子の片割れ。彼も同じ無表情に違いなかった。 彼らは皇宮の諜報機関に所属している。では。 (今回の揉め事に、皇宮も関与しているのか?)

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