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幕・164 『彼女』という世界

「今回の件に、皇宮は無関係ですわ」 最初に聴こえた女の声が、言いながら正面に回り込んでくるのが分かった。 コツ、コツ、ヒールの音が軽やかに響く。 「…彼らはただ、わたくしを捜し、連れ戻しに来ただけ」 外套を目深に被った女が、後ろから、レスターの真両面に回り込む。 暗がりの中、やはりレスターの目が向いたのは、わずかに覗くその口元。 浮かんでいるのは、自信からくる余裕に満ちた微笑。 レスターはつい、眉を寄せた。 見覚えがある、そう思ったからだ。最初見たときから、気にはなっていた。 だが、どこで見たのだったか―――――思い出せない。 で、あるならば。 レスターは素っ気なく告げた。 「だったらもう、早く帰ってくれ」 レスターから見て、彼女は騒動の種に過ぎない。 何を考えているかもわからなかった。 ならば。 こうして皇宮の手の者と関わりがあるのなら、早々に去ってほしい。 本気でそう思うが、…どうも強く出られない。 どうにか告げたレスターに、構わず女は優しげに告げた。 「わたくしが、用事がありますの」 「…俺に?」 面倒そうに尋ねた、レスターの対応の何が気に食わなかったか。 巻き付いた鋼糸がすこしきつくなった気がする。 わずかにレスターの皮膚が破れ、血が滴った。口を閉ざしたレスターに、女はふっと身を寄せる。 「そう、あなたに。―――――レスター・チェンバレン」 オリエス帝国のグロリア皇后、その生家、チェンバレン公爵家。 レスターはその長男だ。 次期公爵と言われるヴィクターは次男である。 レスターはチェンバレン家のやり方に反発し、十代半ばで出奔、公爵家では死亡扱いされていた。 レスターの目が物騒に細められた。 その足元に控えた少女から、殺気が陽炎のように立ち昇る。 刹那。 女が頭から、外套の縁を後ろへ滑り落とした。顔を晒す。 ―――――たった、それだけで。 彼女が、その場の主人公になった。 居合わせた全員の意識が引きずり込まれる。 『彼女』という世界に。 暗がりの中でも、圧倒的な美貌。 優しいが、強い眼差し。 夜の闇よりなお暗い漆黒の髪をさらりと夜風に流し、彼女は真っ直ぐレスターを見上げた。 この女性の名は。 「―――――レディ・ルシア」 首に絡む鋼糸をものともせず、気付けばレスターは跪いていた。 その時には、鋼糸は彼から外れている。 足元の少女も、息を呑み、レスターよりさらに小さくなって頭を下げた。 オリエス帝国で、しかも、この界隈で、ルシアを知らない者はいない。 いっとき、国の、この暗い裏側を治め、君臨した女帝。 ただし目的が明白だった彼女は、冷酷なほど簡単に引退し、姿を消してしまった。 当時から、今において。 なにも、皆が彼女を盲目的に肯定していたわけではない。 権力を握っていた時からルシアに反感を抱く者は多かった。ただ彼女はそれをじょうずに治めていただけだ。 それでも、そんな敵意に満ちていた連中ですら、ルシアの不在には傷心させられた。 それほどに、彼女は周囲を生き生きとさせる何かがあったのだ。 好意であれ、敵意であれ。 はっきりしていることは、誰に対しても、それだけ印象的な女性で、―――――…目の前にするとどうにも逆らい難い雰囲気がある。 レスターは社交界においては彼女に遠くから憧れ、この世界に入ってからは圧倒的に上位の人間として敬意を抱いていた。…とはいえ。 「わたくしの目的は遂げられましたから、早急に戻らねばなりません」 相変わらず、自分勝手な物言いだ。 なのに、悪感情を抱けないのが悔しくなる。 冷静に見よう、好意的に取り過ぎないようにしよう、そう思っても、…人柄だろうか、憎めないのだ。それでも。 「…目的、ですか」 今は、レスターの方が、この界隈の一部を治める人間である。今回の騒ぎには、苦言を呈する必要があった。 この大騒ぎの果てに―――――雨降って、地固まることになると察してはいても。 せめて、一言。 「このように、騒ぎを起こす前に、相談をされることは考えられなかったのでしょうか」 立場上、レスターは咎めるように言った。しかし―――――分かっていた。 ルシアから見れば、レスターたちなど、まだまだ頼りないのだ。 尻に殻をつけたひよこだろう。 結局、ルシアがこのように行動しなければ、なんのきっかけも得られず、打開策もなく、事態はずるずる泥沼になった可能性が高い。 今日、というタイミングは。 (ぎりぎりの、分水嶺だった―――――可能性が、ある) やり直すことのできる、最後の機会。 うっすらと、レスターの目は、事態をそのように見極めている。 明確な情報があるというわけではない。 長年この街で暮らし、見守って来た者の勘にしか過ぎない。 薄々察していながらも、そこに決定打を打ち込んだのは、レスターではない。ルシアだ。 拗ねた物言いになるのは仕方がない。とたん、ルシアは子供をなだめる表情になり、 「あなたたちを頼りにしているからこそ」 そっと告げた。 「無茶もできるのです」 …その言葉を鵜吞みにするほどレスターは子供ではない。それでも。 ささくれ立った心が、その一言で慰められてしまう。 くすぐったい嬉しさがこみあげてくるのはどうしようもない。 本当に、ずるい女性だった。 レスターはその瞬間、どんな目でルシアを見上げてしまっただろう。彼女はふと、困ったように微笑んだ。 「これから話すことをあなたに伝えるのは、わたくしの独断です」 「…?」 レスターは目を瞬かせた。 ふ、とルシアが真顔になる。 跪いたまま、レスターは思わず姿勢を正した。刹那。 「チェンバレンの者が、再度、禁忌を犯しました」 ルシアが穏やかに言葉を紡ぐ。 ぎくり、レスターの肩が揺れた。 チェンバレン家は昔から、平気な顔で死と破滅をまき散らす。周囲の者に。 代々遡れば、闇に葬られた禁忌は、いったい、どれほどの数に上るだろう。 はじまりは、帝国にその身を捧げた英雄の一族、チェンバレン家―――――それが今や、青い血をその身に宿す怪物となった。

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