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幕・166 脱げ

× × × 「で」 表面は余裕たっぷり。 内心は生まれたての小鹿のようにがくがく足を震わせながら、ヒューゴはリヒトに声をかけた。 「俺のお願い叶えてくれる?」 可愛らしく小首を傾げて。しかし。 リヒトは無言。ヒューゴを見つめる視線が尋常でなく強い。焼け付くようだ。 ―――――…これは。 怒っている。本気と書いて、マジで。 リヒトは一見、無表情で、冷たくすら見えた。 だが、頭蓋骨の中は、きっとぐらぐら煮立っている。 こういう時、リヒトを見つめ続けるのは、拷問だ。視線だけで軽く一回死ねる。 逃げたい。 それができないなら、せめて背中を向けて体育座りをしていいだろうか。 いつものように飄然と微笑む一方で、ヒューゴの顔色は悪かった。 今回は、ヒューゴもちょっとやり過ぎたと思っている。 でも、正直言って、いいだろうか。 実のところ、ヒューゴとてまさか、…逃げ切れるとは思っていなかったのだ。 魔法を禁じ。 転移もできず。 隠形も使えない。 となれば、ヒューゴが、ただ他人の目にとまらないというだけでも、難しい。 特にヒューゴは、肌の色からして帝国民とは違うのだ。 しかも華やかな近衛騎士の制服を着ている。 目立たない方が、難しい。 できるだけ気配を消してはいたものの、やはり、民の目には止まっていた。 証拠に、ヒューゴを追跡する警備隊や『月影』の人員たちは、数多の証言を街中で収集している。 まず、皇宮を出たヒューゴは悩んだ。 さて、どうやって逃げようか? 毎日当然のように使っている手段を使わない、とヒューゴはリヒトに宣言したのだ。 (うん…使えない、なら) と思うなり、いつものヒューゴとは別の視点が生まれた。 何をやったかと言えば、ただ歩いただけだ。 だけ、だが。 この道のここは死角だ、とか。 意外な場所に隠れるのに適した場所がある、とか。 ここの人間はこの時間に真横の通路を使う人間にあまり注意を払わない、とか。 様々な発見をした。 歩いている内に、ヒューゴの目が輝き出したのも、無理はない。 今まで全く気にしたことがなかった盲点を、宝物としてごっそり発見した気分になった。 逃げるよりも、気付けばヒューゴはそれらの情報を調べる方に注力していたわけだ。 冒険は、楽しい。とはいえ、分かっている。たまに、だからいいのだ。 後でまとめて報告書を作成し、『月影』や警備隊の長に配ったら役に立つかもしれない。 思ったものの、ヒューゴはすぐさま、頭を横に振る。 発見が楽しかったとはいえ、自制すべきだ―――――その行動は、単なる嫌味である。 そもそも、警備隊こそ地元の情報に詳しいのだから、余計なお世話だろう。 それに『月影』ならばこれらの当たり前の情報を週単位、月単位、年単位で保存・分析し、それらの情報からあらゆる予測を高確率で当てられるほどになっているはず。 現在、帝国では、滅茶苦茶になっていた戸籍情報が急速にまとめ上げられているのだ。 町の詳細が見えてくれば、また情報力の土台が違ってくる。 ヒューゴ程度の素人視点など、今更なものばかりだろう。 ある程度、町の情報が埋まったことに、ヒューゴが満足した後。 最終的にグラムス邸に戻ったのは、そこで捕まると予測したからだ。 そこで日没前に捕まって終わり―――――これが理想的だった。なのに。 (こんなことになるなんてなあぁ) 結論から言えば、グラムス邸は底抜けに平穏だった。 リュクスたちの息がかかった人員が配置されていたわけでもなく…情報も回っていなかったか、誰もヒューゴを引きとめなかった。 むしろ立ち寄るべきではなかった。 グラムス邸の人間が咎められることがあったらどうしよう。 捕まらなかったのをいいことに、ヒューゴはさらにいくつか、やりたいことを終わらせてから皇宮へ戻ったわけだが。 内心、弱り切っている。 それでも皇宮から出てきたついでに、用事を済ませ、―――――スラム街の組織の人間たちにとってはついでで引っ掻き回されて、溜まったものではなかったろうが―――――最終的に、ヒューゴは『月影』に連行されて、リヒトの執務室までやってきた。 そうすれば、ちょっとは『月影』の面目も立つだろう、と思っての行動だが、それこそ余計なお世話だったかもしれない。 そして、現在。 ここに、『月影』の構成員は不在。今頃はリュクスの元で…まあ説教だけで終わればいいのだが。 ソファに腰掛け、足を組んだリヒトは、冷めきった目にヒューゴを映していた。 「丸一日いなかった挙句、開口一番、それか?」 リヒトの声は、氷柱でヒューゴの胸をぐさぐさ刺してくる。 真顔になったヒューゴはあっさり頭を下げた。 「ごめんなさい」 ヒューゴはどう頑張っても最後まで悪ぶれない。 だいたい、朝から日が落ちるまで、ヒューゴはリヒトを放置したわけだ。 こんなことは、戦時中以外、あり得ない。 会議や食事など外に出ているときや、睡眠中などを省き、…いや下手をすると寝ているときもヒューゴとリヒトは触れあっている。 しかも他人の視線や邪魔が心配のないときは、当たり前のように交わっていた。 よくよく考えれば、いや考え込まなくても、爛れている。…自覚はある。 要するにリヒトの身体は、ヒューゴに触れられるのに慣れすぎていた。中毒しているとも言える。 ヒューゴの指が与える快楽と、これほどの間離れていたとなれば。 顔を上げたヒューゴは、なんとなく上目遣いにリヒトを見つめた。 リヒトは、ごく冷静に見える。冷静に、―――――激怒していた。怖い。 だが、おそらく。 リヒトは、皮膚がざわざわと落ち着かないだろう。 しかも、胸の敏感な場所は疼き、前と後ろは相当…―――――。 考えさし、直後、思考を止めた。 ヒューゴはまず、気ままな自身を反省せねばならない。 もちろん、リヒトのところを飛び出した理由は、ちゃんとある、のだが。 判決を待つ罪人の気分で、ヒューゴはいいわけもせず、リヒトの言葉を待った。 その間に、思い出したことがある。 昔、悪ふざけ半分で、今日と似た行動を取ったことがあった。その時は、確か。 (―――――腿の半ばから両足を切断されたっけなあ!) ヒューゴは笑顔で遠い目になる。 ヒューゴだからまたどうにかくっついたが、力が弱い悪魔ならくっつかない。 とまで考えたところで、いや違う、と記憶違いに気付く。 くっつけたのではなかった。 切断した悪魔の足を、目の前のきれいな男は瞬く間に灰にしたのだ。結果。 (…生やすしか…なかった…) ヒューゴが、自身を本当に悪魔なんだなあと実感した、それは生々しい出来事だった。 中途半端に人間のメンタルが、再度ずたずたになる。 それを知ってか知らずか、 「ヒューゴの願いを叶えるか否か、は」 リヒトは、ソファにゆったりと腰かけた状態で、じっとヒューゴを見上げ、 「脱げ」 ―――――妙なことを言い出した。 「へ」 思わず間抜けな声がこぼれたのも無理はない。 だがリヒトはちらとも笑わなかった。真面目に言葉を続ける。 「その結果次第だな」 結果?

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