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幕・167 牙が、疼く

意味が分からない。ヒューゴはしばし悩んだ。 要するに、リヒトが今からヒューゴが取る行動に満足したら、願いを叶えてくれると言っているのだろうか。 実のところ、ヒューゴにとって、もう願い云々はどうでもよかった。 単純に、リヒトの怒りが解ければいい。 (いや最初から、あの『お願い』自体、ほんとはどうだって良かったんだけど) あの場から逃げ出すために、必要だっただけで。 なんとなく、口元をこすろうと手を上げかけ、寸前でヒューゴは堪えた。 ―――――牙が、疼くのだ。 これを、リヒトに知られたくない。 皇都で逃げ回っているときはおさまっていたのに、…リヒトを前にするなり、また。 歯茎がむず痒くなり、無性に悪魔の本性がざわめき出す。 リヒトを真っ直ぐ見つめれば、瞬く間に喉が焦げ付くように渇いた。 あの。 きめ細やかで、すべらかな肌に、―――――牙を立てたい。 血を啜り、肉を食いちぎり、咀嚼して。 これは悪魔としては当たり前の衝動だった。にもかかわらず。 ―――――ヒューゴはぐっとこらえた。今まで通りに。 だが今回の衝動は、今までのものがかわいく思えるほど強烈だった。 思わず、真剣に、自分の牙を折りたくなる。 リヒトは人間だ。 悪魔ではない。 悪魔同士なら、悩むことはない。気軽に、食らい合おうぜ、と殺し合える。 そんなもんなのだ。 しかし、人間相手に、これは。 分かっている、リヒトは美味しそうだ。実際、美味しい。 それが、たとえ美味そうなものを目の前にした獣の本能だとしても。 人間相手に、よろしくない。 ヒューゴが少し変わったからと言って、こんなところまで都合よく変わってはくれないようだ。 こんなこと、リヒト本人には言えない。 こんなところまで知っていて、それでもなお好きだなどと言えるのだろうか? …なんだか泣きたくなった。が。泣いたところで、リヒトは許してくれない。 気を取り直すべく、ヒューゴは小さく息を吐く。 とにかく、脱げというなら、脱がねばならない。脱ぐ程度なら何ともない。 男らしく制服の上着に手をかけ、――――ヒューゴははたと動きを止める。いや待て。 リヒトは今、脱いだ結果次第と言った。 彼が何を求めているのか分からないが、要するに楽しませろということだろうか。 しかし困った。 服を脱ぐ程度のことで、どう楽しませろというのか。 歓楽街には、ストリッパー…ストリップダンサーがいる。結構繁盛している舞台だ。 見たことはあるが、「自分がやるなら?」という研究意識をもって見てはいない。 だいたい、裸を見るなら、リヒトがいい。いやもちろん、舞台に上がった彼らに魅力がないわけではない。それはともかく、 (ああいうのってマニュアルとかないかな、ないよなあぁ…) なんにしたって、今更だ。 既に、これからがヒューゴの本番である。 そんな本番が巡ってくるなんて考えてもいなかったが。 ふぅ、ヒューゴは息を吐きだした。 まずもって、自分の気分を盛り上げる必要を感じる。 盛り上げる―――――なら音楽はどうだろう? 試しに、脳内で無理やり音楽を流してみた。できるだけ、ムードのある音楽を。しかしそれもすぐ、音がよじれて消滅する。 当然、気分が乗らない。困った。 弱り切った視線を、うろ、と室内に彷徨わせたヒューゴは、 (―――――…ぁ) 最終的に、リヒトと、目が合った。 毎日見ている、黄金の目だ。それが、怖いくらいの熱を孕んでいる。 その、眼差し一つで。 ヒューゴの中で、いっきにスイッチが入った。なにせ。 リヒトはいっしんに―――――ヒューゴを求めていた。 ヒューゴの身体の芯に、わずかだが、熱が灯る。 (これ、…イけるかも) そうだ、今、ヒューゴは見られている。リヒトに。 道化じみた気分は抜けない。 ただ、他ならダメだが、リヒトの前でなら。 リヒトの視線があれば、いやでも気分が盛り上がる。 (誘えばいいんだよな、シてるときみたいにさ) 思うなり、ふわっと自然に、ヒューゴは微笑んだ。 彼にそんな気はなかったが、おそらくその微笑だけで大半の人間が堕ちるだろう、たらし込むような微笑だった。 リヒトと目を合わせたまま、ゆっくりと上着を肩から落とす。見せつけるように、腕から引き抜いた。 脱いだそれを、指先に引っかけるように、して。 ひょいとリヒトの膝へ投げ出す。 ふ、とリヒトの視線が上着を見下ろした隙に―――――ヒューゴは大股一歩で距離を詰めた。 リヒトが座るソファに左膝を乗せる。 リヒトの両膝を跨ぐ格好で、伸しかかった。 唇に笑みを刻んだまま、片手で背もたれを掴む。 そんな、姿勢になると。 ヒューゴの胸元に、リヒトの鼻先がくる形になる。 ヒューゴから、リヒトの表情は見えない。 だが見られているのは分かる。何も言わないが、視線が、穿つように強い。 ヒューゴは身に染みて知っている。リヒトは、ヒューゴの容姿が好みだ。 ならば最初から、勝った勝負である。リヒトの耳元で、ヒューゴは勝ち誇った声で囁いた。 「ほぉら、リヒト。…どうだ?」 そうだ、リヒトなら絶対、ヒューゴを馬鹿にしない。笑わない。だったら、いい。 確信をもって、ヒューゴはリヒトの前でボタンを外す。 ひとつ。 また、ひとつ。 ―――――見せつけながら。肌を晒す。ゆっくりと。 褐色の肌が、あらわになっていく。 その先を、リヒトの視線が執拗に追った。 自ら脱がそうとするような勢いで。 ヒューゴは笑みを深めた。 リヒトの視線の強さが、怯むどころか、心地よい。 「好きだよな、俺の胸」 もちろん、ただの冗談だ。 なにせ、ヒューゴの胸だ。女のようにたわわなふくらみが、実っているわけでもない。 なだらかな輪郭ではあっても、それなりに分厚い胸板がそこにどんっと自己主張しているだけだ。 軽い気持ちで言いながら、ヒューゴはさらにソファに乗り上げた。 気怠げな動きで、リヒトにのしかかるようだった身を起こす。 とうとう、腹まで裸になった上半身を、リヒトに見せつけるようにしてその肩に手をかければ。 …ごくり、とリヒトの喉が鳴った。ヒューゴは笑顔で一瞬固まる。 (聴かなかった、聴こえなかった、俺は何も知らない) 呪文のように心の中で早口に唱え、ヒューゴはシャツを肩から落とした。 腕からシャツを抜くなり。 ヒューゴの身体が硬直した。突如、動きが止まる。間髪入れず、 「―――――…っ?」 びくんっ、とヒューゴの身体が仰け反った。 濃紺の目が見開かれる。 露になった上半身に、ぎちり、何かが縦横無尽に食い込んだ。 「…はっ」 息が苦しくなったのは、喉もぎちぎちと締め上げられているからだ。 床に倒れ込む寸前、リヒトに腕を引かれた。 ヒューゴの背中を受け止めたスプリングのきいた感触に、ソファに押し倒された、と認識したのが最後。 「ぐ、あああああああぁっ!!」 ヒューゴは、喉をかきむしるようにして叫んだ。苦痛に。 ―――――全身に巻き付いた神聖力の鎖が、音を立ててヒューゴの全身に食い込む。皮膚が破れ、血が流れた。 そんなことができるのは、 「…はぁ…」 興奮に、熱い息を吐きながら、うっとりとヒューゴの腰に跨ってきた皇帝―――――リヒト・オリエスただ一人だ。 このように伸しかかられては、いくら苦しくとも身体を跳ねさせるわけにはいかない。 リヒトに怪我をさせてしまう。 どういうつもりで、鎖を締め上げるのか。 どういうつもりで、跨ったのか。 聞こうにも、すぐ、悲鳴すら出せなくなる。 「…ぅ、」 かろうじで息はできる、そんな状態のヒューゴの、仰け反った首筋に口付けながら、リヒトはヒューゴの腹筋に、屹立した足の間のモノを淫猥な動きで擦り付けてきた。 こんなとき、ヒューゴはこう考える。 リヒトは本当は、ヒューゴを嫌っているんじゃないか? 好きな相手に、こんなことができるものだろうか。 この仕打ちは、嫌うというより、憎悪のレベルだ。 そのくせ、憎悪を感じる分と同じだけ、好意と愛を感じてしまう。

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