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幕・177 長官と団長

× × × ヒューゴ・グラムスは馬に乗れない。 無論、やろうと思えば、彼は乗馬など難なくこなすだろう。 が、彼が悪魔、それも上位の悪魔たる魔竜であることが、単純に問題だった。 馬が、彼を恐れるのだ。 もちろん、馬のみならず、小鳥、猫、犬、ネズミに至るまで、あらゆる生命体がヒューゴを畏怖した。 子猫や子犬を物陰から、可愛い、と目を輝かせ、眺めているヒューゴの姿を、幾人もの騎士が目撃している。 小さくなって極力気配を消して小動物を観察している魔竜を見れば、いじらしいやら気の毒やらで、大半の者はかわいそう、と同情心を持ってしまうようだ。 これが皇帝リヒト・オリエスであれば、似たようなものとはいえ、事情が少し異なる。 いずれにせよこの二人がいる場所では、ゴ〇ブリも姿を消すとかなんとか…酔ってそんな軽口を叩いた使用人は翌日姿を消していた。 おそらくは、その言葉に影で涙を拭っていた魔竜を、皇帝が見てしまったのだろう。 そんな事情もあってか。 北部への移動は、今回、ヒューゴはずっと竜体で空を飛んでついてきていた。 馬がかわいそうだし。 というのが、彼の言葉であるが、将軍リカルドは苦笑してこう言った。 ―――――ヒューゴは陛下と宰相閣下相手に賭けをしたのだよ。ある勝負をして、彼が勝ったら願いを叶えてくれと。 どうやら、北部への移動を竜体でしたい、とヒューゴは願い出たらしい。 皇帝のことだ、おそらく即座に却下しただろう。 だいたい、だからこそ今までは、ヒューゴはずっとその足で軍の最後尾か先頭を走っていたわけだ。 …そう、走っていた。 それが当たり前の光景になっていたことに気付いた騎士たちは、少し愕然としたものだ。 もちろん、歩兵の方が多いが、全速力の馬と、平然と横並びで走る奴隷。 あんな光景、普通じゃない。 今回、ヒューゴは竜体となって軍に同行した。 皇帝と宰相との賭けに、魔竜が勝った、そういうことだろう。 それでも、皇帝がそれを許可したことが、意外に思う者も多かった。 そう言った形での同行を、魔竜が勝負をしてまで強く望んだことも。 飛翔する魔竜は、先へ行きすぎたり、遅れたり。 消えた、と思えば、瞬く間に現れたり。 それこそ、ヒューゴ自身が、悪戯好きの小動物に似た気質を持っているようだ。 飛翔の感覚は、ヒューゴにとって、格別のものなのだと、いつだったか聞いたことがある。 ゆえに結構、ご機嫌だったのだろう。 ―――――ヒューゴは、ずっと歌っていた。 正直言えば、魔竜の歌を数日間聞いていたなんて、飽きるどころか、贅沢な時間だったな、と思ってしまう。 最初は緊張していた馬たちだったが、一定距離を置いて魔竜が近付かないと分かれば、慣れたようで、むしろ魔獣やら盗賊やらに出くわすこともなく、皇帝の軍は平穏に北部まで移動したと言っていい。 馬たちを、案内された厩舎に連れて行きながら、第五騎士団団長のウォルター・ヴァナヘイムはなんとなく、この数日で癖になった仕草で、北部の蒼穹を見上げる。 (あ、もういねえな) 移動中、ずっと頭上に魔竜の影があったのだ。 たった数日の間だったが、慣れてしまったらしい。 何もない空を、少し物足りないと思ってしまう。 付け加えて言うなら、あれがヒューゴであり、軍からつかず離れずの距離で飛翔しているのを見るのは、絶対者に見守られているという妙な信頼と安心感があった。 ヒューゴは、休憩のたび、空から舞い降りてきて皇帝の傍に控えていたが、聞いた話によれば、十年くらい飛び続けていたってへっちゃらだそうだ。 詳しく聞けば、竜の飛翔には、自力というより魔素の働きや精霊、自然界からの諸々の助けが多大に影響しているらしい。 ならもしかすると、ずっと飛び続けていたって問題はないんじゃないか。 そう思ったウォルターがなぜ十年なのかと尋ねれば。 ―――――さすがに、お腹がすくからね。 その言葉には、皆が納得した。 逆を言えば、十年は何も食べなくっても平気なのか、と驚きもするが。 「団長、こっちです」 厩舎近くで手を振る部下を見れば、その隣に、騎士ではない人物がいた。 「スレイド長官? どうしてこちらに」 いたのは、ジョシュア・スレイド。あの宰相閣下の側近の一人である。 齢三十だが、宰相リュクスが主導する行政改革の下、てんやわんやの行政部の長官を務めていた。 どう厳しく見たって、ヤリ手だ。 今、皇宮では、彼の部下が半泣きで、デキる上司の仕事を分担管理しているはずだ。 黒目黒髪、常に冷静沈着。 皇都から北部への旅の中でも、その立ち姿には一筋の乱れすらなかった。 さすがに、雪原では几帳面に撫でつけられた黒髪に乱れが見られたが、今は一部の隙もない。 ガードナー家を辺境伯と呼ぶなら、スレイド家は宮中伯とでも呼ぶべきか。 ジョシュアの今の身分は子爵だが、実家が伯爵でありその後継たる嫡男なのだから、それで問題はないだろう。 だが、なぜだろう。 特に何かをされた覚えもないのに、どうしてもジョシュアを前にすると、腹に一物ありそうな雰囲気を感じてしまう。 反射で警戒心を抱くのは、皆同じだろう。というのに。 「雪原で、戦闘があったでしょう」 眼鏡を押し上げ、ジョシュアは淡々と言葉を紡ぐ。 「負傷者が出たとか。負傷者の名簿確認や症状、また消耗品の情報の共有に来ました」 態度は至極丁寧で真面目なため、話しているとうっかり最初の警戒が抜けてしまう、奇妙な相手だ。 行動が迅速で頭の回転が速く、机上の空論しか知らない頭でっかちの官僚とは明らかに出来が違った。 なにより、偉ぶらない。 年下で、かつ下級貴族のウォルターに対しても、ジョシュアは敬語を崩さなかった。 馬を部下に任せたウォルターと、事務的な用件が済むと、ジョシュアは一つ頷く。 「なるほど、よく分かりました」 それは、ジョシュアの呑み込みが早いからだろう。 ウォルターはお世辞にも説明が巧いとは言えない。 「言葉だけでは心もとないので、のちほど、改めて書面で提出します」 「助かります。ですが、さきほどわたしがよく分かった、というのは、ヴァナヘイム卿、あなたのことです」 「オレですか」 言った後で、思う。 あ、『私』と言うべきだったな、と。 だがここまでくると、もう開き直りだ。 しばらく一緒に行動するのなら、慣れてもらった方がいい。 幸い、ジョシュアはそういう言葉遣いを気にする人間ではないようだ。 ジョシュアは生真面目に言葉を紡ぐ。 「第五騎士団は、三年前、ヴァレシュ神国との最後の戦いでも、この地で皇帝と共に戦ったと聞いています」 ウォルターは目を細めた。そうだ、もう三年も経ったのだ。 今は滅亡した雪の大国、ヴァレシュ神国。 三年前、オリエス帝国との戦争のさなか、神国の国王は崩御した。 王の死を悼む間を置かず、玉座についたのは、親王レアンドロ。 ただし彼は、欲深かったが慎重な分穏やかだった先王に比べ、とにかく周囲に血だまりが絶えない人物だった。 今日は機嫌が悪いから殺し、口答えしたから殺し、果ては声が耳障りだと日頃寵愛していた召使を窓から庭へ放り捨てた。 戦争のさなか、慌ただしく、王の座を継ぐ儀式を行う間がなかったゆえに、亡くなった後も親王としか呼ばれていないが、実情は、彼を王にすることに、臣下の大半が反対したからという噂もある。 そして彼は反対したものを全員殺したため、儀式を行えるものがいなかった、というお粗末な結果となった。 ―――――あくまで噂だ。

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