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幕・176 蠢く悪意

× × × 「あれが」 雪原一帯を見渡せる崖の上。 馬上、双眼鏡を覗き込んでいた青年は、身を前へ乗り出した。 「魔竜」 感嘆の息と共に、その言葉は上の空で呟かれる。 すぐそばで馬にまたがっていた、神官服を着た学者然とした男も、束の間、息を呑んで雪原に見えた光景を瞠った目に映した。 わざわざ双眼鏡を覗き込まずとも、その生き物の威容はくっきりと見える。 薄青い影を落とす純白の雪原の上。漆黒の鱗を輝かせる神秘の獣―――――魔竜。 『ソレ』は歌っていた。 喉が放つ妙なる調べは、遠いその場所にも届く。なんとも心地よい波動だ。 あまりにも圧倒的だった。 存在感。力。姿。周囲に放つ、いっさいが。 そのくせ、この上もなく幻想的。 「もう、皇帝の軍がこの近くに来ているとはね」 呆然と見入る馬上の二人の頭上から、老成した口調の幼い声が落ちてきた。直後。 周囲の空気がひび割れた感覚が起きる。 居合わせた全員が、ハッと顔を上げた。 たった今、かき鳴らされたモノの正体なら、はっきりしている。 いつの間にか現れた、魔竜の頭上に輝く球体、その中に見えるもの。 魔笛。 「…あの生き物に」 双眼鏡を覗き込む、くすんだ金髪の青年はうわごとのように言った。 「できないことはないのか?」 「欲しい?」 その言葉に、青年は頭上を見上げる。 視線の先には、張り出した、冬枯れの木の枝があった。 そこに座っていたのは。 「でも残念だね」 小さな子供が一人。十歳ほどだろうか。 明るい金髪に、碧眼、愛くるしい面差し。 略式の神官服を身につけている。 御使いと言われても不思議はないほど、将来有望な容姿の持ち主だ。 しかし今、ふっくらした頬に浮かぶのは、カミソリじみた皮肉な笑みだ。 「アレは既にオリエス皇帝のモノだよ」 だから他の誰のものにもならない、と言っているようで。 ―――――既に誰かのものであるのなら、他の誰かが出にすることも容易だと唆し、煽っているようでもある。 「手に入れる方法は、ないものでしょうか」 皇帝のモノを奪おうと言っているも同然の台詞を、平気で口にしたのは、神官服を着た、学者然とした男だ。 彼の明るい茶色の目が、少年を見上げた。色は明るいが、宿るのは暗い光だ。 「おいおいおい」 双眼鏡から目を離し、青年が振り向いた。 「横取りする気か? 手に入れられるなら、俺がもらう」 その双眸は、この辺りでは珍しい―――――深い紫だ。 「二人とも、能天気だなあ。いいの?」 少年の子供の指が、すっと指さしたのは、魔獣がコバエのようにたかる雪原だ。 「当初の目的を忘れてない?」 目的。 その言葉に、一度、神官はどうでもよさそうに雪原を一瞥した。 「…そう簡単に始末できる方ではありませんよ。レオン・ガードナーさまは」 「はっ」 学者然とした神官の、他人事のような態度に、紫の瞳の青年は鼻で笑う。 「どうだかな。魔竜が現れなけりゃ、あのいけ好かない面が見る影もなく魔獣の牙に引き裂かれていただろうよ」 見られなくて残念だ、と、整ってはいるが、見るからに酷薄そうな顔が、残忍さを浮き彫りにして笑う。 「ルークの野郎は残念だろうが、俺はどっちだっていい。で」 青年は、樹上の少年に顎をしゃくった。 「魔竜を手に入れる方法はあるのか?」 「あれは都合のいい玩具にはならないよ。大体、…もう忘れたの?」 少年は呆れたように雪原を見遣る。 「三年前、君の叔父が数多の犠牲と引き換えに、呼び出した地獄の軍勢を丁寧に根絶やしにしたのが、魔竜だよ」 「そりゃ、叔父貴が間抜けだったってだけだろ」 鼻で笑い、すぐさま、青年は物騒な声を放った。 「おい、さっきから話をそらしてばっかじゃねえか。さては、てめえにも分からないか?」 不機嫌そうな表情が、すぐ、面白がる色を浮かべる。 「散々偉そうにしておいて、悪魔一匹捕まえる方法も分からねえのか」 少年は面倒そうに肩を竦め、 「―――――精霊王を使えばいいよ」 そんなことを言った。ああ、と神官が頷く。 「精霊王の力を拘束として利用するのですね」 青年は目を瞠った。すぐ、面白そうな色を双眸に浮かべる。 「そんなの可能なのか? アレはもう狂ってんだろうに」 「御すのは簡単ですよ。…やってみますか?」 神官の、それこそ実験でもするような物言いに、 「よせ」 青年は面倒そうに片手を振った。 「実験台にするなら、俺じゃなくあのイカれた魔法使いにしろ」 「彼は色々混ざり過ぎています」 渋面になる神官。 「ならさ」 ふと、思いついた、と言わんばかりに少年が提案。 「聖女を使う?」 その表情は、子供が浮かべるには不相応なほどの悪意に満ちていた。 「それはありがたいですが…よろしいのですか」 「何が」 「あなたが使うおつもりだったのでは」 「ああ、そうだねえ」 なにをするつもりか定かではないが、と青年は目を細める。 どちらにせよ、双方ともに人間に対する態度ではない。 コレらに比べれば、自分などまだ可愛い方だ、と青年が他人事のように考えた時。 ―――――ブオオオオオオォォォォォッ!! 角笛の音が、雪原を渡る。 全員が、遥かにそちらを見遣れば。 「チッ」 青年は舌打ちした。馬首を巡らせ、崖を後にする。 「皇帝のご到着、だ。運が良かったな、レオン・ガードナー」 離れて待機していた幾人かの騎士が、去っていくその背に従った。 彼が去っていくに任せ、雪原を見遣った神官は、知らず、感嘆の息をこぼす。 「なるほど、なるほど…、昔見た時より、これは遥かに…」 視線の先には、目を吸われるような輝きが臨在している。 神官だからこそ、余計そのひかりを感じ取るのだろう。 「神の末裔と言われるだけはありますね。いえ、まるで…」 興奮に早口で言いさした神官は、不意に樹上を見上げた。 少年が、仇でも見るような表情で、雪原にいる相手を睨んでいる。 「神そのもの、ですね?」 少年は鼻を鳴らし、蔑むように神官を見遣った。 「戻るぞ」 言って、ひょいと神官の馬の背に飛び乗る。 それだけの動きをしたにもかかわらず。 木の枝は揺れなかった。馬も背に乗る相手が増えたことを認識した様子はまるでない。 少年には、体重がないかのようだ。 神官は肩を竦め、馬首を巡らせた。ゆっくりと、前進。 その背に揺られながら、少年は一度雪原を振り向く。 魔獣は、順調に平らげられていた。 その先頭に立つのは。 ―――――聖なる悪魔。魔竜。 どれだけ距離があろうとも、少年の目には、その姿がはっきり映った。 ぎらぎらと目を輝かせ、魔獣を、魔獣よりももっと獣のごとき野蛮さで、次々と屠っていく姿は、まさしく悪魔だ。そのくせ。 決して、その刃を人間には向けない。 そうするのは、味方が傷つけられるときだけだ。なによりも。 ―――――皇帝のために、魔竜は動く。 気に食わないと言いたげな表情で碧眼を細め、少年は乾いた声で呟いた。 「いずれにせよ、邪魔だな。あの悪魔」

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