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幕・179 辺境伯
× × ×
「お、お待ちください、ミランダさま…!」
「淑女が、そんな、全力疾走など…っ」
数人の侍女たちが、息を喘がせ、先頭を駆ける娘を追いかけている。
彼女たちの言葉など聴こえないとばかりに、輝く白金の髪をなびかせ、娘は王城の中庭を駆け抜けた。
元気いっぱいの小鹿のように素早い。ドレスを着ているとは思えなかった。
瞬く間に、侍女たちの声も姿も小さくなる。
ここは、オリエス帝国北部、ガードナー辺境伯の城内。
北部の要と呼ばれるこの建造物は、ひたすら堅牢な作りだ。
回廊など、どんな巨人が通るのかと思うほど、頑丈で、天井が高い。
柱の影には成人男性が優に五人は隠れられそうなほど、横幅がある。
光をふんだんに取り入れる工夫は凝らされているものの、雪の多い北の大地だ、城内が薄暗いのは仕方がない。
一方で、城内の気温変化を最小限にとどめ、ぬくもりを逃がさない仕組みになっている。
優雅さや華美ではないものの、彼女はこの城が好きだった。主のガードナー一族の気質を感じさせるからだ。
どこまでも寡黙だが、誠実で温かで、いざというときはどこまでも勇猛。
立ち並ぶ柱を最短距離で駆け抜けながら、娘は厳しい表情に一抹の不安を過らせる。
「おかしいわよ」
真剣に呟く。
オリエス帝国内では珍しい、紫の目に、怒りに似た輝きがきらめいた。
「ただの魔獣討伐が、大々的な魔獣狩りになりました、だなんて…っ」
彼女は、ミランダ・ギーツェン。
ガードナー家において、客人待遇を受け、王城の離れに住む令嬢だ。御年、十八。
雪国出身者らしく、きめ細やかな白皙の肌に、白金の髪。
全体的に色素が薄い。
華やかというよりは清楚で、所作も淑やかであるため、大人しそうに見られがちだ。
しかし、城内を全力疾走するくらいには、お転婆だった。
ミランダが向かうのは、城の前庭。
そこには今、魔獣討伐に出ていた騎士たちが戻っているはずだ。
聞いた話では、はじめは民の訴えがあったらしい。
食物が少なくなるこの季節、共食いでもしたか、魔獣の死体が村はずれに複数雪に埋もれているので、どうにかして頂けないだろうか―――――。
辺境伯の騎士が動いたのは、魔獣の死体の回収作業と、調査のためだった。
それほど近くに死体があるのなら、魔獣の巣もあるのではないか。
人里近くに巣があれば、駆除しなければならない。
魔獣の死体の始末依頼とは、結局のところ、魔獣の巣が近くにあるのではないかという調査依頼である。
魔獣のちょっとした掃討戦になる可能性がある、そんな出立は、北部ではよくあることだった。
ゆえに今回も、むろん『その程度』となめてかかることはないが、いつもの仕事だと騎士たちを見送った。それが。
「連絡があった村落は既に全滅、そこに魔獣の巣ができて、ばかりか、一帯が魔獣の巣窟になっていただなんて」
ミランダは、歯噛みしながら呟く。
向かった者たちが生きて帰っただけでも奇跡だ。
早期発見できただけ良かったのかもしれないが、なぜだろう、この成り行きには…妙な作為を感じる。
魔獣討伐には基本的に、レオン・ガードナーが指揮を執っていた。
後継者の安全を考えればない話だが、この北部ではそれこそが、ガードナーの後継者の務めと皆が当たり前のように考えている節がある。
今は病床に伏しているガードナー辺境伯も、若い頃は率先して騎士たちの先頭に立っていたそうだ。
慣例に従っているこの状況を知っている誰かが、と考えてしまうのは。
「…穿ちすぎ、かしら」
呟くと同時に、ミランダの顔に光が落ちた。
城内を抜け、前庭に出たのだ。
駆ける足を緩め、急く気持ちを抑えながら帰還組の騎士たちの姿を求め、顔を巡らせる。
「あ、ミランダ令嬢?」
厩舎の担当者が、どうしてこんなところに、と面食らったように声をかけてくるのに、顔を向ければ。
つい、ミランダの顔色が悪くなる。
「…死者が出たの?」
馬を壁へ寄せている彼の、ずっと向こう。
城で医療を担当する者たちが、ちょうど、地面に横たえた小柄な身体に白い布をかけるところだった。
垣間見えた遺体には、…気のせいでなければ。
思わず、ミランダは眉根を寄せた。
「どうして、頭を矢で射抜かれているの? 戦争じゃない、魔獣討伐だったんでしょ?」
―――――不穏だ。
声を上げるより、思わず潜めたミランダに、尋ねられた厩舎の者たちが顔を見合わせる。
彼らも、事情をよく知らないのだ。察したミランダが言葉に詰まった時、
「ミランダ?」
後ろから不意に声がかかった。聞き慣れた声に、気が抜けたような安堵した心地になって、
「レオン」
パッと笑顔になって振り向けば。
その明るい表情が、愕然とした表情を浮かべた。思わずと言った風情で駆け寄る。
「…それは、魔獣の血?」
乱戦を思わせる、赤黒い血が、強固な城壁を思わせる頑健なレオンの体躯をまだらに染めている。精悍な頬にまで、血が飛んでいた。
案じる表情で身を寄せるミランダの前に、パッと手を立て、レオンは押しとどめる。
「汚れる」
「汚れは洗えば落ちる」
「…ここは、ご令嬢が来るような場所ではない」
「わたくしとて北部に住む者、慣れているわ」
ミランダが胸を張ると同時に、城内から遅れてやってきた侍女が悲鳴を上げた。
魔獣との戦いの後の空気に怯え、そのまま昏倒。その後ろに続いた侍女が慌てて抱き留める。
レオンとミランダは揃ってそちらへ顔を向け、間の抜けた会話を交わした。
「…慣れて、いらっしゃるのか」
「すくなくともわたくしは」
こんな時にもう! と内心舌打ちしながらミランダが視線を泳がすのに、気のせいか、レオンの唇にわずかな笑みが浮かんだようだ。
ミランダが目を瞠り、レオンを見上げると同時に、
「…あぁ、しまったな」
何を気にしたか、ふと空を見上げたレオンが、低く呟き、ミランダを庇うように立った。
「少し、風が起こるが、魔獣の攻撃などではないから安心しろ」
レオンの言葉が聴こえるか否かのタイミングで。
―――――ゴッと前庭に風が巻いた。同時に、大地に巨大な影が落ちる。
ミランダは悲鳴など上げはしないが、さすがに怯んだ。
目の前にある不動のレオンの背が頼もしい。
そこに隠れながら、スカートと髪を抑え、そっと前を覗き込めば。
城壁の上。
巨大な生き物が、ふわり、降りてくる光景が見えた。
左右に打ち広がる巨大な翼。
漆黒の鱗が、陽光を弾いて輝く。
掴みかかればおそろしく強そうな鉤爪が、そっと城壁を掴みしめた。
壊すことを恐れるような動きは、ひたすら優しい。
次いで、しなやかな翼を品よく畳んだその姿に、ミランダは瞠目。
「―――――…魔竜…?」
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