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幕・180 皇帝と魔竜
三年前。
戦争のさなか、たった一度現れたその姿。
だが一度でも見た者は、決して忘れないだろう。
一番印象的なのは、その瞳だ。
鮮やかな濃紺が前庭を睥睨し―――――穏やかに見守る表情を浮かべている。
城壁にとまった身体にしなやかな尻尾をまきつかせ、寛いだ態度だ。
守護者という呼び名に相応しい、包容力に溢れた慈悲深い姿。
ミランダは自然と両手を組んでいた。彼女が魔竜に抱く感情は、信仰、に近い。
「帰ったか」
魅入られたように、場の全員が魔竜を見上げた刹那、ミランダの背から静かな声が響いた。
沈黙の中、やたらよく響いたその声の主は、レオンとミランダの隣を通り過ぎていく。
そこではじめて、見た目に反して気丈なミランダの身が、竦んだ。
横顔を垣間見たのは、一瞬だが、間違いない。あれは。
―――――オリエス皇帝、リヒト・オリエス。
レオンと合流したという話は聞いていたが、もう到着したのか。
(北部なんて、嫌いな癖に)
知らず、奥歯を噛み締める。
いや、皇帝が嫌いなのは、北部ではない。
北部に隣接する…元ヴァレシュ国土だ。ゆえに。
ヴァレシュの王族に向けられる彼の目には、一片のぬくもりもない。
なぜ声がするまで、その存在に気付かなかったのだろう。
心の底から謎だ。つい身を縮めてしまうくらい強烈な存在感なのに。
なぜか、一人だ。
立場上、うるさいくらい護衛を連れていても不思議はないのに。
ミランダが記憶を振り返っても、そういえば昔から、彼はあまり周囲に人を侍らせていない。彼が一緒にいるのはいつも、ただ一人だけだった。
きっと、今も。
レオンの背後に隠れたままでいたい気持ちを堪え、ミランダは彼の斜め後ろに楚々と立つ。
どうにか、平静を保ったまま、リヒトの背を見送った。
そんな勇気を持てたのは、魔竜がこの場を見守っているという安心感からだろう。
あの濃紺の瞳に映し出された光景の中で、残酷なことはきっと起こらない。
確信を抱きながら、何をするつもりかと皇帝と魔竜を見比べれば。
「触れているのに、城壁が腐敗していないな」
皇帝はどうやら、城壁を掴んだ魔竜の鉤爪あたりを見ているようだ。
皇帝の前方にいた者たちが、一斉にそちらを見遣った。
魔竜もきょとんと自分の足を見下ろす。身体が大きく威厳があるのに、所作が小動物だ。
「今回の移動の最中思ったのだが」
皇帝が静かに魔竜へ語り掛けた。
「肉体から、毒が消えているようだな。…悪魔だというのに」
思い付きのように、皇帝がそんなことを言う。
その言葉に、ミランダは伝承を思い出す。
―――――悪魔の身体は毒そのもの。
ミランダは魔竜をまじまじ見上げる。
言われてみれば、三年前の戦いでは、魔竜が触れた地面は毒沼と化したはずだ。それが。
今、魔竜に摑まれている城壁が腐り落ちる気配はまるでない。
魔竜が、ぱちぱち、瞬き。次いで。
大きな瞳が、うるっと潤んだ、気がした。とたん。
―――――ぼちゃん。
大きな水の雫が、城壁の内側に落ちる。
「…??」
全員が、何事か、とそちらを見遣れば、城壁の下に、大きな水たまりができていた。
そこにまた、ぼちゃ、ぽちゃん、と上から雫が落ちてくる。
「あ」
まさか、と魔竜を見上げたミランダはつい声を上げた。
「泣かせた」
皇帝の言葉のどこに傷ついたか分からないが、魔竜が泣いている。
しくしくと。
その姿からは、威厳やら何やらが掻き消え、…だからといって湧き上がるのは、落胆などではなく。
―――――かわいそう。
ちょっと、皇帝を責める気持ちになったミランダは。
「…!」
皇帝が彼女を一瞥したのに、息が詰まって、慌ててレオンの背中に隠れそうになる。
ぎりぎりで堪えた。
あの冷たい黄金色の目は間違いない、オリエス皇帝その人だ。
すぐ、視線はそらされたが。
…厳格な威圧の権化たる彼に一瞬でも睨まれるのは、息が詰まる。
ミランダが心臓を宥めながら深呼吸していると、
「…悪かった」
ため息交じりに、皇帝は一言。
ミランダは今度こそ、息が止まるかと思う。謝った。あの、皇帝が?
ミランダだけではない、居合わせた全員が、聞いてはならないものを聞いたという態度で視線をそれぞれ明後日の方向へ向けている。
―――――とっとと逃げておけばよかった。皆、そんな表情だ。
「分かったから―――――おいで」
底抜けに甘い、優しい声がミランダの耳に届き、彼女は一瞬、不思議に思う。
今のは誰の声なのだろう。とたん、皇帝が言ったのだと気付き、さらに愕然とした。同時に。
魔竜がわずかに身を乗り出す。
ちょっと鼻をすすった。と見えた時には。
城壁から足を離す。巨体が落ちてきた―――――と見るなり。
「…うわ…」
レオンの斜め後ろからそれを見ていたミランダは、思わず声を上げた。
落下の最中、見る間に魔竜の姿が縮んだのだ。
高い位置から落ちたにもかかわらず、平然と前庭へ降り立った時には。
―――――褐色の肌の、青年に変わっている。
黒髪。
そして―――――印象深い、濃紺の瞳。
かつて、彼が奴隷の首輪をしていたことを、ミランダは遠めに見たことがある。今は、近衛騎士の制服を着ていた。
…相変わらず、びっくりするくらいの男前である。にもかかわらず。
まるで幼い子供のような仕草で、目元をこすった。泣いていたことを隠しもしない。
「こするな」
目元をこする魔竜の拳にそっと触れ、皇帝が厳しく命じる。
しぶしぶ動きを止めた魔竜が、心もとなさげな声で、ぽつり。
「俺…どこまで変わるんだろ」
何があったか、小さくなって呟いた。
どんな事情があるかまでは分からないが、落ち込みだけは、しっかりと伝わってくる。
他人ながら心配になるほど。
だが、切り捨てるように、皇帝は平坦な声で応じる。
「何が変わろうと、何になろうと、ヒューゴはヒューゴだ」
何の気負いもない言葉。
ただ、太陽が東から西へ進む、と言っているように。
にもかかわらず、大胆な告白を聞いたような気にもなるのはなぜだろうか。
行くぞ、と踵を返した。
皇帝の言葉がどんな慰めになったか、魔竜は下を向いていた目を前へ向ける。
皇帝の後ろに続いた。
相変わらず、二人揃うと息詰まるような、気圧されるほどの感覚があるが、むしろ、彼らの場合は揃っていない方が、というか、単体でいる方が安心できない。
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