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幕・181 王の娘

顔を上げた魔竜の目が、泣いたせいか、少し充血しているのが分かった。 皇帝とこのまま一緒に行かせていいものだろうか? 案じる心地で見守っていれば。ふと、魔竜の目が、周りを見渡した。 もう、そこに悲しそうな様子はない。 どちらかと言えば、無邪気な光を宿した双眸が、 「あれ」 レオンに向いた。 同時に、ミランダに気付く。 ―――――やはり、レオンの背後に隠れたい。それをぐっと堪え、歓迎の意味を込めて、ミランダは精一杯、微笑んだ。ぎこちなかったろう。 なにせ、どう頑張っても緊張が勝る。 頬は引き攣っていたはずだ。きれいな微笑とは言えない。落ち込む。なのに。 とたん、魔竜が笑った。ぱあああっと光が溢れ出るような、笑顔だ。眩しすぎる。 よろめきそうになり、踏ん張った。思わずぎゅっと目を閉じる。 にもかかわらず。 「こんにちは、ひさしぶり」 気さくに駆け寄ってきた魔竜は、にこにことミランダの顔を覗き込んできた。 そして、―――――厳格な声で囁く。 「王の娘」 間近に見えたうつくしい瞳に、目を開けたミランダは血の気が引いた。 正確には、…違う。 ミランダは、王の娘ではない。 王族ではあるが、王の血を引く母は、臣に降嫁し、ギーツェンの姓を名乗った。その上で。 母は滅びゆく祖国に背を向け亡命した。 祖国の情報を売ることで、生活の保障を受けて。 即ち、王であったのは、ミランダの祖父。 彼はヴァレシュ神国の王だった。 魔竜の向こうで、皇帝がミランダを見ている。その瞳は、どこまでも冷酷。 オリエス皇帝が、ヴァレシュ王室に容赦ないのは、過去、言葉より行動で明確に示されている。 その王室の血を引く、しかも、ミランダは裏切り者の血を引く娘。 皇帝が好意的になる理由はない。むしろ。 レオンが、ミランダを庇うような動きを見せる。 そのタイミングを外すように一歩踏み出し、ミランダはスカートの端を摘まんだ。丁重に頭を下げる。 「…お久しぶりです、オリエス帝国皇帝陛下、ならびに守護者たる魔竜殿」 平然と、隙なく挨拶できたろうか。 皇帝も魔竜も小娘のミランダにとっては恐ろしいばかりだが、臆してばかりではいられなかった。 それでもせいぜい、張れるのは虚勢だけだ。 目の前にある魔竜の濃紺の瞳には、何もかも見透かされているようで落ち着けない。 ―――――ひさしぶり、と魔竜は言った。ということは。覚えているのだ、この悪魔は。 ミランダのことを。 それは当然のことだ。 しかし、ミランダは自身があまりにちっぽけで、魔竜という巨大な存在にとって、取るに足りないという意識しか持てない。 ゆえに彼女が魔竜の記憶に残るなど、意表外のことだった。 魔竜、それから皇帝の注目に、息が詰まる。手足が冷たくなった。 血の気が引きそうになりながら、意地でも踏ん張った、その時。 「ありがとう」 不意に、魔竜が言った。 挨拶のために頭を下げたまま、ミランダは瞬きする。 ありがとう? いきなり、なんのことだか分からない。 おそるおそる顔を上げれば、魔竜の、童子のような満面の笑みがそこにあった。 目が合うなり放たれたのは、 「生きていてくれてありがとう。成長した君が見られて嬉しい」 まったく、衒いのない、―――――本心からの言葉。 ミランダの瞳が、不意に潤んで閉じられた。強く。 三年前。 母と共に捨てた、祖国が荒廃していく様に、腐りゆく大地の上で、彼女は血を吐くような思いで叫んだ。 ―――――たすけて、たすけて、これ以上の滅びをこの地にもたらさないで、わたくしの命ならいくらだって使ってくれていいから! 地獄の軍団と引き換えに、犠牲にされた大地、人、―――――国。 末路など、決まっていた。 この地は滅ぶ。 再興の希望など一切なく、闇の中へ、消える。 呼び出された地獄の軍団に、真っ先に踏みつけにされ、猛毒に侵され、生命という生命は悪魔たちの嘲弄と哄笑の中に消えていった。 それを、―――――王が、為したのだ。 ミランダにとっては、母の弟、叔父にあたる、親王レアンドロ。 ミランダの、肉親。 それと同じ血が流れるこの身体が、どれほどおぞましいか。 あの時は、絶望しかなかった。 誰も助けられない。 方法など、ない。 目の前が真っ暗になった。そんな、ミランダに。 ―――――なら、取引をしよう。 地獄の軍勢を蹂躙した後、魔竜が言った。 ―――――いらない命なら俺がもらう、ただし――――― 密やかに、悪魔らしく、魔竜はミランダに取引を持ち掛けた。そして。 ミランダは、頷いた。受け入れた。悪魔との取引を。 この時の、魔竜との取引は、誰にも口外してはならない。そう約束した。 とはいえ。 いかなる魔竜でも、地獄の軍勢を滅ぼしつくすのは、大変だったはずだ。なのに。 その上で、魔竜はヴァレシュ神国の荒廃を食い止めた。 ―――――どうやったかと言えば。 竜の肉体が、無尽蔵に生み出すとされる魔素。 それを、魔竜は枯れゆく大地に惜しげなく振り撒いたのだ。 …と言えば、水をまいた、というような感じだが、実際に見た感じから言えば、叩き込んだような印象が強い。 殴るように、えぐりこむように。 そのくせ、魔竜は無邪気な態度で「えーい」といった様子だったから、ギャップが何とも。 大地の上で転げ回って、どたばたしていた―――――はた目から見れば、遊んでいるような、そんな感じだった。 ただし、当然、そんな印象と違って、魔竜は相当、苦労したはずだ。 実際、翌日の丸一日、立ち上がれないくらい彼は消耗していた。 ゆえに。 彼にそうまでさせたミランダを、皇帝は快く思っていない。 皇帝から感じる刺すような冷たさは、そのせいだろう。ただ。 オリエス皇帝はもとより、ヴァレシュ神国に対して厳しかった。 嫌っている、というのも生易しい、仇にでも対するような態度で、国を滅ぼしにかかった。とはいえ。 皇帝が実行する前に、ヴァレシュ神国は自滅したと言っていい。 「…約束、しましたもの」 「そうだね」 応じる魔竜の態度は、軽い。だが。 約束を違えれば、おそらく彼はミランダに容赦しないだろう。 何事もなかったかのように、すっと魔竜はミランダとレオンから離れた。 「陛下」 ミランダを気遣うように、彼女の隣に立ったレオンが皇帝へ声をかける。 「まずは旅装を解かれてはいかがでしょう。侍従が部屋までご案内いたします」 丁重に告げ、無表情ながら不機嫌丸出しの皇帝が頷くのを待って、レオンは片手を挙げた。 待機していた侍従がやってくる合間に、 「んー…、なあ、レオン」 一度青空を見上げ、魔竜は尋ねた。 「北部は最近、自然災害とか起こってないか?」

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