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幕・215 欲しくなった

なにより、ヒューゴが知るリヒトという人物は―――――単に恩人だから、という理由で、誰かを信じたりはしない。それほど甘くはなかった。 ヒューゴの表情に、彼を見下ろしていたリヒトは冷静に言う。 「格好つけた言い方では、だめか?」 つい、ヒューゴは半眼になった。 …そんな言い方をしたということは、つまり。 恩人だから、信じる。その言葉はつまり、完全に嘘ではないが、本音ではないということ。 隠すつもりはないと言いながら、何かを誤魔化したいのか。それともやはり、言いたくないのか。 「なんで格好つける必要があるの?」 ヒューゴは首を傾げる。 「幻滅されたくないからだ」 幻滅? 「まさか、悪魔にモラルを求めるのか?」 リヒトは虚を突かれた顔をした。ヒューゴはつい、唇をへの字にする。 「だからなんだか、食い違ってるっていうか、しっくりこなかったんだな」 「食い違っている?」 首を傾げたリヒトは、ヒューゴの首筋のラインに目を止め、そこに手を伸ばす。 ヒューゴは今、騎士服お上着を脱ぎ、シャツだけだ。 ひたりとヒューゴの首筋に掌を当て、リヒトはゆっくりと撫でおろすように、シャツの襟を広げる。 もう一方の手は、ヒューゴの胸板の上にあった。そちらも、輪郭を楽しんでいるのか、舐めるように指先が這う。 「つまり僕の言葉と僕のイメージが、ヒューゴの中で違っていたということか」 黄金の目でヒューゴを射抜き、リヒトは真面目に呟いた。 「ヒューゴの中の、僕のイメージをいつか聞いてみたいものだな」 「知ってるくせに」 つい唇を尖らせ、拗ねた口調で返す。 「俺はバカだから、わかりやすく本音で言ってほしい。聞きたい」 言いながら、ヒューゴは悪戯に、リヒトの下で、腰を跳ねさせた。 「…んっ」 的確に弱点を責められたのだろう、リヒトの背が、緊張したように微かに撓る。 思わず、といった動きで、リヒトは足の間をヒューゴのそこへ押し付け返しながら、こすりつけた。 淫猥に腰を動かしながら、リヒトはうっとり目を細める。 気持ちがいいと隠さない吐息をこぼし、 「はぁ…っ、ならば、はっきり…言うが」 上の空で前置きし、いきなり、 「僕はあのとき、ヒューゴを信じたわけではない」 ―――――前言を翻した。「ああそう」と普通に頷いた後、ヒューゴは半眼になる。 「さっき言ったことと、さっそく違うじゃないか」 抗議すれば、また、リヒトは言葉を翻した。 「だが、信じなかったわけでもない」 ヒューゴは難しい顔になる。 リヒトは、からかっている表情ではない。では、何が言いたいのか。ヒューゴは白旗を振った。 「ごめん、ちょっと難しい」 もっとわかりやすく、と訴えれば、リヒトは微妙な表情になった。 そこでようやく気付く。 リヒトは、ヒューゴの興味が嬉しいとしても、正直に告げることにはいささか抵抗があるらしい。 やはり、ヒューゴは、無理に言わせようとしているのではないのか。 思ったヒューゴが、無理しなくていいよ、と言葉を引っ込めようとするなり。 リヒトは真顔で冷静に言葉を紡ぐ。 「一目で、気に入ったのだ」 「何を?」 「…この場合に、ヒューゴ以外に何がある?」 「俺?」 確認せずにいられなかったヒューゴに、果たして、リヒトは頷いた。 「欲しくなった」 「…うん??」 ―――――悪魔を? 「だから一緒にいたかった」 面食らったヒューゴは、絶句した。 確かに人間は、悪魔に対して、己の欲望をむき出しにしてみせる。 だが、かつて、悪魔相手に、当の悪魔を望む、とこれほど欲望をむき出しに行動した人間がいただろうか。 しかも、一緒にいたいだけ、などと―――――前代未聞である。 「だから連れて帰ろうと思った」 リヒトがすぐ素直に答えられなかった理由は、つまり、答えが欲望そのものだったから、単に言いにくかったようだ。 「それだけだ」 それにしたって。 ヒューゴは、再会したばかりのリヒトに対する自身の言動を思い出してみた。 確か、地獄に落とされ、弱り切っていた子供に、試すようなことを言った。 怪我をして眠れないんだ、なおしてくれたら、一緒に出口を探してやってもいい―――――確か、そんなことを言ったはずだ。 いまさらながら、猛烈な反省がヒューゴを襲った。 眠れずイライラしていたとはいえ、よくない大人の見本である。 しかも、本来、悪魔に睡眠は必要ない。魔竜にとって、睡眠は単に趣味だ。 そんな悪魔の子供っぽい要求に、リヒトはきちんと応えた。 自分が弱っていたにもかかわらず、ヒューゴの傷をなおしてくれた。 そんな自分勝手な悪魔の、どこがそんなに気に入ったのか、理解に苦しむ。 ひとまず、リヒトの言葉を、ヒューゴなりに解釈するなら。 「…つまり、信じる・信じないの次元じゃなかったってこと?」 だから、信じたわけでもないし、信じなかったわけでもなかったのだ。 問題は、そこではなかったのだから。 「そうなるな」 欲しかったから連れ帰った、など。 (魔竜をそこらの犬猫みたいに…) ヒューゴは呆れたが、応えるリヒトは、堂々としている。開き直った態度だ。 なんだか、ヒューゴは笑ってしまった。 なるほど、これがリヒト・オリエスだ。これで、納得がいった。けれど。 「危険だとは思わなかったのか?」 リヒトの選択は、命を張った賭けだ。 過去、人間の身近に置かれた悪魔の中で、ヒューゴほど自由を許された存在はなかっただろう。 当たり前だ、悪魔と一緒に生活したいなどと思う人間などこれまで一人もいなかったのだから。 ヒューゴの知らないところではいたかもしれないが、少なくとも公にやり遂げたのは歴史上リヒトが初めてだろう。 「こんな風に、悪魔をそばに置くなんて…いつ殺されるかわからないのに」 「僕は」 実際、ヒューゴをリヒトが神聖力で縛っているとはいえ、二人の間にある均衡は危うい。 双方の努力と信頼なしには、共にいることも難しいだろう。 今この瞬間にも、どちらかが命を落とすかもしれない、その危険は常について回っている。 十年以上共に生活をして、当たり前のように交わってさえいるのに、ヒューゴは未だにこんなことをうだうだと考えてしまっていた。 そんなヒューゴの思考を、 「僕はヒューゴになら、いつ殺されても構わない」 リヒトの一言が、真正面からぶん殴ってきた。ヒューゴは言葉を失う。

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