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第1話

 石の人  運命の本に出会ったのは、イーサンが十三歳の時だ。学校の帰り道にある本屋に立ち寄るのがイーサンの楽しみだった。店主のおじいさんは、子供が立ち読みしても咎めたりはしなかったし、少年の好奇心を満たせるだけの新刊がいつも揃っていた。  イーサンは学童図書の棚から、灰色のハードカバーを手に取った。ずっしりと重たい本だ。 『石の人』――金色の題名を指でなぞる。 「それは新しい本だよ。旅をする話さ」店主が穏やかに薦めてきた。 「おじいちゃんはもう読んだんですか」 「ああ、読んだ。この店全ての本を読んだとも。その本は君にぴったりだと思うがね」 「へえ」  イーサンは本を開いた。そっけない灰色のカバーからは想像もつかないほど鮮やかな中表紙が現れた。透けるすみれ色の紙に、金の模様が箔押ししてある。 「これ、少し読んでみてもいいですか」 「構わないよ。そこに腰かけて読むといい」  店主はしわしわの長い手で、カウンターの隣にある丸い椅子を指した。イーサンは丁寧にお辞儀をしてから椅子に座った。  石の人――石は何百年も前から、そこにあった。ある時、石の前に真っ白い別の石が転がってきた。それは白い石ではなくて、人間のしゃれこうべ、要するに頭蓋骨だった。  しゃれこうべは石に話した。自分が生きていた時のことを。しゃれこうべは世界中を旅していた人間だった。世界には石の知らない、見たこともない、色々な喜びや、悲しみがあるという。  しゃれこうべは満足するまで話した後「ああ、人間に戻れたらな」と言い残して、しゃべらなくなった。  石は、人間とはそんなに良いものだろうかと考えた。石はうまれてからずっと石である。どうせ石であるなら、一度は世界を旅し、しゃれこうべが見たものと同じ景色を見てみたい。石は毎日人間になりたいと願い続けた。  ある日、石は職人に切り出されて、人の形の彫刻になった。神様が願いを聞き届けたのか、石は動けるようになった。石は世界を見るために、冒険の旅に出る――このようなあらすじだ。  なんて不思議な話だろう。  イーサンは学校が終わるたびに本屋を訪れ、続きを夢中で読みふけった。石はある時には人間を助け、ある時には悪者を懲らしめるために戦った。石は山の頂から絶景を見、また大きな穴を転げ落ちた地底で財宝を見つけたりもした。海の魚たちと戯れ、妖精の楽園を訪れた。  道行く先々で出会う生き物たちに、石は感情の何たるかを学んでいく。イーサンはその一つ一つに、胸を躍らせた。 「おじいちゃん、この本」 「ずいぶん夢中になって読んでいたね。どうだい、面白いだろう」 「はい、とっても」  店主はうんうんと、うなずきながら微笑んだ。 「でも僕、今お金を持っていません。必ず持ってきますから、この本を売らないでくれますか」 「ああ、いいとも。好きな時に来て、好きなだけ読むといい」  イーサンは顔をぱっと輝かせて、踊りながら家に帰った。 「お父さん、欲しい本があるんです」  飛びついてきた息子に、イーサンの父親はあからさまに溜息をついた。 「だめだ。先月は試魔石セット、今月は妖獣大図鑑を買ってやったばかりじゃないか。お前のおこづかいを貯めて買いなさい」 「学童図書ですよ。とっても面白いし、ためになる本なんです。ねえお母さん、お小遣いじゃ足りないんです。お願いです。勉強を頑張りますから」 「お父さんがだめと言ったらだめですよ」  母親に甘えてみても無駄とわかったので、イーサンはおこづかいを諦め、友達と遊びに河原へ走って行った。  次の日、本屋に行くと本がなくなっていた。 「おじいちゃん、あの本は」 「ああ、君か。あの本はどうしてもという人が来て、買われていってしまったよ。だけどねえ」 「そんな……売らないって言ったのに、酷いです」  イーサンははじめて、この世の全てに裏切られたような気になった。店主が何か言っていたが、聞きたくなくて店を飛び出した。両親はおこづかいをくれないし、本は売られてしまったのだ。  繊細になった少年は、学校のかばんがいつもより重く感じた。近所で飼われているかわいい犬に会っても、お母さんがケーキを焼いてくれても、友達が誘いに来ても、ちっとも嬉しくなかった。あの本がないだけで、あの本を最後まで読めなかったので、イーサンは風邪をひいて寝込んだ時よりもずっと沈んだ気分になった。 「イーサン、ご飯ですよ」夕方になって、お母さんが呼びに来た。 「欲しくありません」 「どうしたのです。朝はあんなに元気だったじゃないの。今日はあなたの好きなハンバーグですよ。おやつのケーキもとってあるし、お父さんも話があるとおっしゃってますから、降りてらっしゃい」  イーサンは余程ふて寝してしまおうと努力したが、ハンバーグには勝てなかったし、父親に怒られるのも嫌だったので、渋々降りて行った。 「やっと降りて来たのか、イーサン」父親は何故かにこにこしていた。イーサンはおこづかいをくれなかったくせに機嫌の良い父親を見て、無性に腹が立ち、口を尖らせた。 「……いただきます」  ハンバーグはいつもの大好きな味でおいしかった。母親も優しく微笑んでいた。 「なあイーサン、お前が昨日欲しがっていた本があるだろう」 「あれはもういいんです。僕がわがままでした」 「お前のわがままは、昨日今日に始まったことじゃないから知っとる。食べてからでいい。開けてみなさい」  父親は食卓の隅に置いてあった四角い紙袋をイーサンの前に押しやった。母親は静かにスープを飲んでいる。  イーサンは紙袋を凝視した。丁度、本が一冊収まるような厚みをしている。もしかすると。ハンバーグを食べる手を止めて、紙袋を丁寧に開く。 「お父さん、お母さん、この本」 「親が子供に本を買ってやらないわけにはいかんだろう」 「お父さん反対してらしたけど、昨日あなたが遊びに出かけてからすぐ本屋さんにね」 「母さんも買ってやれとうるさかったじゃないか」  イーサンは石の人を抱きしめ、感激でボロボロと涙をこぼした。 「ありがとうございます。でも、本屋のおじいちゃん……」  何か言いかけていたのは、このことだったのか。明日、店主にも謝っておこうと、イーサンは本を抱えなおした。 「お前がいつもあの本屋に立ち寄っとるから、伝えるように言ってあったんだが、何も聞いてなかったのか」 「それでご機嫌が悪かったのねえ」  両親は顔を見合わせ、笑い合った。  食事の後、イーサンは本を開いて続きを読んだ。  石は世界中を旅している間、人の心が理解できないことを嘆いた。ある国に来た時、悪魔が石をほんとうの人間にしてやろうと誘惑した。この国の人々の魂を奪うことができたら、石は人間になれるのだという。  悪魔は災害を起こし、大雨を降らせた。「お前の石の魔法を使えば、山を崩し、人を滅ぼすことなど容易いぞ」  しかし、崩壊した城壁を見て、このままでは溢れた川の水が流れてしまうことを知り、石は自分の体を使って穴を埋めるよう、街の人に頼んだ。  悪魔は雨が止むと同時に、人の魂が奪えなかったので失望して去って行った。  石は人間にはなれなかったが、誰かのために命を懸けることこそ、真実の愛だと知った。神様はただの石であったはずのそれを石の人として、命の書に刻んだ――  イーサンは余韻に浸りながら、最後の頁をめくった。あとがきはなかったが、控えめに著者近影が載っている。 「チャールズ、クラウチ……さん」  魔法写真は色鮮やかだったが、人物は砂のように陰気な顔色をしていた。名前は男性のものでも、お兄さんでもおじさんでもないように見えるし、若いようにも、歳寄りにも見えた。  よくよく観察すれば、ブルネットの髪は肌の白さを引き立て、一つの染みも傷もなく透き通っているのだし、目鼻は絶妙な塩梅に収まり、薄く小さめの唇は品良く閉じていた。清潔で高級そうな服を着て、黒い手袋をはめた手を腰の前で揃えている。  イーサンはがっかりした。この人が、著者だなんて。埃をかぶった昔の肖像画を見ているよう。心躍る冒険と、壮大な愛で締めくくっておきながら、何てつまらない、悲しい、諦めた顔をしているのだろう。  まるで命の無い、石の彫像だった。  イーサン少年はチャールズ・クラウチを憐れに感じた。自分が愛を与え、命を与えるべきなのはきっと、この人なのだと思い込んだ。 「いつかきっと、会いに行こう」イーサンは写真の白い肌を指先でなぞった。

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