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第2話
石の人 二
十五歳の少年、イーサンには大好きな本がある。二年前、両親に買ってもらった『石の人』という純文学だ。イーサンはもう何度も『石の人』を読み返している。雨が降って、外で友達と遊べない日などは『石の人』を開くのが習慣になっていたし、夜は枕元に置いて寝るくらい夢中だった。
十二月の第三日曜日。イーサンは教会で勉強があるので、両親は先にミサから帰っていった。イーサンは勉強よりも、クリスマスプレゼントのことで頭がいっぱいだった。イーサンに限らず、子供たちはみな、プレゼントに何を貰えるのかが気になって仕方なかった。普段は親に反抗している子ですら、クリスマスプレゼントは絶対にもらえると信じて疑わない。
「なあ、イーサン。何がもらえると思う。俺はこれがいいな」友達の少年は弦を弾く真似をして見せた。
今流行っているバイオリン型の魔導具で、一つの音だけではなく、様々な音色が出る。学校ではもう三人のクラスメートが持っていた。
「ふうん、いいんじゃないですか。舞踏会でジーナス・アグレコラの新曲を弾いてみたら大人気間違いなしですよ」
「そんならお前に歌わせてやるよ。最後は派手にやらないと」
少年たちは卒業を控えているのだ。クリスマスと学校の冬期休暇は、慌ただしい進学前の楽しみだった。
「で、お前は何が欲しいの」
「うーん、チケットですね」
「わかった、ジーナスのチケットだろ。オペラの指定席なんて小遣いじゃとても無理だもんな」
「まあね」
友達の追及を適当にごまかしていると、神父様が来て咳払いをした。おしゃべりに沸いた教室は、凪のように静まり返った。
実のところ、イーサンが欲しい物は馬車のチケットだった。『石の人』が十月にベストセラー入りし、来年サイン会が開かれることになったのだ。イーサンはどうしてもサイン会に行きたかった。『石の人』の作者、チャールズ・クラウチに会いたかった。
クリスマスの朝、イーサンはモミの木の下に置かれたプレゼントの包みを開けた。毎年、両親や祖父母からプレゼントをもらえるのだ。
お母さんの編んだクリスマスカラーのセーターを着て、一日中プレゼントのどれで遊ぼうかと吟味する。挨拶に来た親戚や知人たちは、イーサンが子供らしく楽しむのを見て温かい表情を浮かべるし、イーサンも彼らに愛嬌を振りまくのが得意だった。
「おばあちゃんのプティングが世界一です」
「まーま、イーサンちゃんはほんとに上手なんだから。だからって、プティングの当たりが誰に入ってるかは神様のみぞ知るんだよ」
ココアを啜るおばあちゃんの横で、三角の帽子をかぶったお父さんが、プティングのお守りが当たっていたので得意気な顔をした。
「ほらねえ。一度もプティングを褒めたことがない人にも、平等に当たるんだよ」
お父さんは得意顔をやめて、神妙に呟いた。
「母さんのプティングはおいしいよ」
イーサンはクリスマスをそれなりに楽しんでいた。おじいちゃんからは組み立てると魔法で実際に動く、古代鳥の模型キットをもらったし、お母さんは毎年新しいセーターを編んでくれる。今年のセーターはケーキがダイナミックに飛び出した力作だ。おばあちゃんはもちろん、手作りのラッキープティング。お父さんは、イーサンがしつこくせがんでいたヴィオラをついにくれた。
でも、イーサンが一番欲しかったのは馬車のチケットだった。サイン会は来年に入ってすぐなのに、貯めたおこづかいでもあと少しが足りない。仕方がないので、イーサンは訪れた親戚たちの肩を叩いたり、新聞を運んだり、お茶を出したりして、何とか往復分のチケット代を工面してもらうことに成功した。
年が明けて、イーサンは朝からお母さんに十回以上も「気を付けなさいね」と言われながら駅に向かった。お父さんは「何かあると困るから」と、少しだけおこづかいをくれた。
温かいコートを着て、お弁当とお茶を持った。日帰りとはいえ、一人で街の外に出るのは初めてだった。
乗合馬車の御者にチケットを見せて、乗り込んだ。八人乗りの馬車には、お客がイーサンと商人風のおじさん、老夫人、帽子をかぶった小さな男の子と両親が乗っていた。
馬車の窓を流れる景色は、整備された道と平原ばかりだったが、イーサンにとっては木の一本、雲一つさえも新鮮だった。
お昼になったので、馬車は三十分ほど休憩し、馬は草と水をもらっていた。イーサンも他の客と話をしながら、お母さんの作ったお弁当を食べた。商人がお土産を買わないかと見せて来たので、イーサンはお母さんのために安物のブローチを買った。安いとはいえ、お父さんがくれたおこづかいをそれで使ってしまったので「しまった」と思ったが、既に馬車が去ってしまった後だった。
馬車はサイン会の行われる都市でイーサンを下ろした。時計塔のある図書館が有名な街だった。出版社の建物がサイン会場だ。イーサンは地図を見たり、人に尋ねたりしながら、なんとか出版社までたどり着いた。
サイン会に並んでいる人々は、大抵が親子連れだった。学童図書に指定された本なので、当然だろう。幼年学校の子供もいれば、イーサンくらいの子供もいた。サインを喜んでいる子供もいれば、ベストセラーだからもらっておこうという親の意図が見え透いてる親子もいた。
列の半ばが過ぎた頃、母親に連れられた女の子が、本を人に渡すのが嫌なのか泣きだしてしまった。まだ幼年学校の子供らしく、作者からサインをもらうなんて事情はわかっていないのだろう。
「すみません、順番は守りますから、ちょっと失礼」
イーサンは列から離れて、大泣きする女の子と母親の隣に立った。
「浮遊薬の材料なーんだ」
「わかんないよう」
母親は娘の頭を撫でながら、チャールズ・クラウチに謝っている。
「じゃあヒントですよ。空色のたねと、バブリージュースと、バロバロ鳥の」
「たまご……」
「だーいせーいかーい。やあやあ、あそこにいるのがバロバロ鳥だ。ずんぐりむっくり、まんまるなのに、ふわふわ飛んでる変な鳥」
イーサンの仕草が面白かったのか、泣いていた女の子は涙で顔を濡らしながらも、笑い出した。
「君もその本が大好きでしょ。この人は面白い本を書いた先生なんです。サインをくれるんですよ」
女の子はまだ戸惑いつつ、本を渡してサインしてもらい、母親に連れられて帰った。イーサンは女の子に手を振りながら、列の最後尾に並び直した。先ほどイーサンの後ろに並んでいたおばさんが「お兄ちゃん、こっちに並んだら」と勧めてくれたが、イーサンは一度抜けたからと首を振った。
窓を見ると、日が暮れはじめていた。イーサンは順番が来るまでじっと辛抱した。
待ちくたびれるほど待って、やっとイーサンの番がきた。後ろには誰も並んでいなかった。
チャールズ・クラウチは著者近影の魔法写真通りの姿をしていた。右目に金色のモノクルを嵌め込み、上品な燕尾服を着ている。黒い革手袋の指が、インクの瓶にペン先を浸した。
イーサンは写真の人が実際に動いているのを暫くぼんやりと見ていた。
「君の番だ。どうした、本を出して」チャールズ・クラウチはここに本を出せとばかりに、指先でテーブルを叩いて催促した。
「バロバロ鳥って本当にいるんですか」
イーサンはチャールズの薄い唇が形を変えるのを見逃さないよう、意識を集中させた。
「正確に言えば、そんな学名の鳥はいない。バロ・ウィッカールという、魔人バロの眷属だった鳥を地底に住むノームがバロバロと呼び、卵が浮遊薬の材料になるのは事実だ」チャールズ・クラウチは、流れるように抑揚のない声で説明した。
「バロ・ウィッカールは妖獣大図鑑で見ました。浮遊石を食べるんですよね」
「そうだな、だがバロバロ鳥の雄は浮遊石を食べないんだ。雌だけが食べる。どうしてだと思う」
イーサンはしばらく口元に手を当てて唸った。
「卵のためですか」
「そう」チャールズ・クラウチは顔の横で人差し指を立てた。正解、という意味らしかった。「でもどうして、バロバロ鳥の雌は卵のために浮遊石を食べなければならないのか。その図鑑に乗っていた鳥の姿を君は覚えているか」
「固い嘴を持った、重たそうな、岩みたいな鳥でした」
イーサンが両手でまるい円を描くように鳥の形を表すと、チャールズ・クラウチは「そうだな」と頷いた。
「実際にこの鳥は地底で生活しているために翼が退化して、鳥類学者が調べるところによると、自力で飛ぶことはできないんだ。しかし外敵から身を守るためには、地底であっても、時には飛ばなければならない場合があるだろう。だから雌が浮遊石を食べて、卵に取り込むことで、孵る雛は浮遊石で浮き上がる力を持って生まれてくるんだ。わかったかな」
「良くわかりました」イーサンは空色の瞳を輝かせた。「先生は地質学者なのに、鳥のことにも詳しいんですね」
「詳しいよ、浮遊石にはね」チャールズは初めて微笑んで見せた。古い絵画の、唇の線だけ子供にらくがきされてしまったような、ひきつった笑みだった。
イーサンはもう少し、チャールズ・クラウチの話を聞きたかった。しかし、チャールズはイーサンの持っていた『石の人』を取り上げ、さっさと中表紙にサインをしてしまった。
「他に何か書こうか。君が最後だからな」
「ええと、じゃあ……浮遊石の絵を」
「だめだめ」チャールズ・クラウチはひらひらと手を振った。「正確な絵を描くには、ここに浮遊石の標本がなくちゃあ。俺は学者なんだ、いい加減な絵は描けんよ」
「バロバロ鳥は」
「バロバロ鳥もだめ。名前にするが、構わんだろ。これに書いて」
「はーい」差し出された紙に、イーサンは名前の綴りを走り書きした。
「イーサン君。今日は、よく来てくれた。勉強が好きなら、一生懸命学校の勉強をして、それから、専門的な論文を読むといい。わかったかい」
チャールズ・クラウチは、たどたどしく小さな声で囁いた。バロバロ鳥の話をしていた時の流暢さとはまるで違う、聞き取り難い口調だった。
「わかりました。それで、最後にお願いがあるんです」
「まだ、何か」
「握手してくれますか」
イーサンが手を差し出すと、チャールズはもう虫が鳴くような小さな声になって、何かを呟きながら手を伸ばしてきた。イーサンには聞こえなかったが、拒否されてはいないようなので握手した。子供の自分よりも細くて小さな手。手袋越しにでも、骨ばった冷たい感触が伝わってくる。力を籠めると、震えているのがわかった。その震えがイーサンにも影響したのか、体全体がぞくぞくした。心臓が強く脈打っている。
イーサンは手袋を脱がせたくなった。直接肌を触ってみたかった。手首のホックに人差し指を掛けようとしたとき、チャールズ・クラウチは手を引っ込めた。
「もう、いいな。忘れず本を持って、気を付けて帰るんだよ」チャールズはゆっくりと、丁寧に言った。それから、ずれてきたモノクルを眼窩にはめ直し、落ちないように顔の筋肉を強張らせた。ひどく不愉快そうに、眉をしかめた表情だった。
「先生、ありがとうございました」イーサンは本を抱え、深くお辞儀した。
顔を上げると、既に社員が来て後片付けをはじめていた。チャールズ・クラウチは椅子から立ち上がり、扉の向こうに消えながら、美しい燕尾服のお尻についた皺を撫でつけた。その背中と指の仕草を見ていると、イーサンは今まで感じたことのない胸騒ぎを覚えた。最後まで観察して、感情の意味を咀嚼したかったのに、片づけの邪魔にならないよう、作業する人々を避けなければならなかった。
乗合馬車に揺られながら、イーサンはサイン入りの『石の人』を抱きしめた。チャールズ・クラウチの手の感触が忘れられないで、まだドキドキしていた。幽霊のように冷たい、頼りない手だった。最後は優しくてぞくぞくする、恐ろしい囁き声だった。妖獣大図鑑に載っていた、歌声で船を沈めるサイレンのよう。幽霊を見たことはないし、サイレンの声を聞いたこともないけれど。
イーサンは少しだけ本を開き、覗き込むようにサインを確認した。
「良く知り、日々学びたまえ。イーサンへ」と書かれていた。イーサンは頬に火がついたみたいに熱くなった。呼吸が激しくなるのを他の乗客に知られないよう、眠くなったふりをして顔を伏せた。
あの人は非の打ち所もなく「先生」だ。お父さんと同じ。神父様と同じ。ひとかけらの妖しさもない、健全たる「大人」。なのにどうして、心を掻き乱されるのだろう。
イーサンは夜遅くなってから、自分の街に帰ってきた。雪交じりの雨が降っている。イーサンは本を濡らさないよう、コートの内側にしまい込んで、大切に抱えた。馬車から降りると、お母さんが傘を持って迎えに来ていた。
「先生に会えたの」
「うん」イーサンは曖昧に返事をした。何故か、お母さんにチャールズ・クラウチのことを話すのは恥ずかしかった。
「疲れたし、お腹が空いたんでしょ。帰ったら、シチューを温めてあげますからね」お母さんは朗らかに笑った。おしゃべりな息子が無口なのは、空腹のせいだと思っている。なので、イーサンもそういうことにした。
「お腹空きました」
「そうねえ」
濡れた石畳は冷たいが、お母さんの笑顔も、街の明かりも温かかった。
「お母さん、お土産があるんです」
「ええ、どうしたの」
イーサンは商人から買ったブローチをお母さんに見せた。
「まあ、綺麗ねイーサン。ありがとう」
「お父さんからもらったおこづかいを使い果たしてしまったんです。お父さんには内緒にして」
「はいはい。でもお父さんね、そんなことじゃ怒りませんよ」お母さんはブローチを胸元につけて、嬉しそうに鼻歌を歌い始めた。ジーナス・アグレコラの『花が降る』だった。
「お父さんにもね、内緒にしてって言われたけど、お父さんとお母さん、さっきあなたを置いてオペラを見に行きました。『春待ちて』をね。イーサンも行きたかったでしょ、ごめんなさい」
デートだから二人でね、とお母さんはウインクした。
「いいですよそんなの」イーサンは何となく頬を染めた。
チャールズ・クラウチには、待っている人がいるのだろうか。おそらくはいるのだろう。何しろベストセラー作家だもの。イーサンはチャールズの、物悲しくぎこちない微笑みを思い出した。イーサンの周りには幸福しかなかったので、チャールズ・クラウチが何故憂いを滲ませているのか、考えたとてわからなかった。
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