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番外十五 呪いを解く

 呪いを解く  イーサンは作業机の前で、香木を削っていた。  寝る前に焚く浄化の香を調合する。それは物心ついた頃から続けて来た、魔狩人としての日課だ。体調に合わせ、繊細で微妙な配分を行う技術は、薬師である母から教わった。  ナイフが木を削る、ひそかな音だけが部屋に響いた。  特別な香を特別な人のために。あまりにも静かで、自分以外の気配を忘れそうになる。 「クラウチさん」イーサンは手を止め、ベッドの上に投げ出された恋人の脚を見た。  引き締まったふくらはぎは、黒いレース編みのストッキングに覆われている。寝る前の彼は、いつも下着に近い恰好だ。腰から大きくスリットの入った薄着をまとい、こちらに顔を向けて横たわっている。  意識しなければ気配を感じない。ランプに照らされた白い肌の持ち主、ベルベットのような濃い髪をしたかの人は、生命を持たなかった。ずっと昔に死んでいるのだった。  死人は痩せた指先で、口元に注意深く触れた。小さな薄い唇は、今にも花弁のようにこぼれ落ちそうだった。  実際、唇からは赤い花弁がひらりとこぼれ落ちた。チャールズは花瓶に挿してあった薔薇を一輪取り、空腹を紛らわせるために噛んでいた。 「香を焚くのはよしましょうか」 「ちっともかまわないよ」  生きてる人とおんなじに発した言葉は、優しいが物悲しく、あたかも会話を禁じられた修道者が、禁を破って発したささやきにも似ている。 「それなら、今日こそは血を飲んでくれますね」  チャールズは鼻でうんと唸った。「仕方がない」という返事の代わりに。 「俺はクラウチさんに、毎日ちゃんとした食事を摂ってほしいんですよ。忘れないでくださいね」 「忘れちゃいないさ」  ちゃんとした食事。それは吸血鬼に己の生き血を与えることだった。イーサンは魔を狩る立場に産まれながら、この狂おしいほど愛しい魔物に血を与えて、偽りの生命を永らえさせているのだ。  イーサンは作業机にナイフを置き、大きな犬が赤ん坊を怯えさせまいとゆったり歩くように、音を立てずベッドへ上がった。 「さあ」  襟元を開く。日に焼けた厚い頸を晒し、噛みつきやすいように顔を傾ける。  チャールズはシーツの擦れる音を立てながら上半身を起こした。イーサンがその腰をすかさず抱き寄せ、胸に添わせる形で首を口元に持ってくると、観念したチャールズは頸動脈から外れた位置を探って、浅く噛んだ。 「はあ……」  吐息を洩らしたのはイーサンのほうだった。抱きとめる腕は熱を持って汗ばみ、吸われた首からは、痛みよりも甘い疼きが延髄まで痺れを呼んだ。  たった数滴の血を絞ってから、チャールズは虫に刺されたような二つの傷口を舐めて止血した。 「済んだよ」 「もうおしまいですか」 「ほんのちょっとでいいんだ」 「いつも本当にちょっとなんですね」  終わっても、イーサンはチャールズを抱きしめたままだった。 「こっちにもキスしてくれませんか」 「血なまぐさいぞ」 「かまいませんから」  チャールズの口は血に濡れていなかった。イーサンはほのかに鉄の臭いがする唇にしゃぶりついた。  尖った犬歯を探り、力を込めて舌の表面を押し付ける。血の味が新たに広がった。親鳥が雛に餌を与えるように、イーサンは血まみれの唾液を送り込んだ。  シャツの背中を破れんばかりにぎゅっと捉まれる。それでもチャールズがしっかり飲んでしまうまで、イーサンは食らいついた口を離さなかった。  赤濡れた粘液が糸を引く。チャールズはイーサンの豊かな胸を押しのけ、手の甲で口元を乱暴に拭った。 「あんた、後悔するよ。明日っから少なくとも一週間は、熱い麦粥を食うたび舌に染みて、飛び上がるだろうさ」 「毎日たっぷりキスしてくれたら、早く治ります」 「妙なことしなきゃ、いくらでもしてやるよ。キスくらい」  イーサンはチャールズをベッドに横たえて、乱れた前髪を後ろに撫でつけてやった。額に一つ、口づけを落とす。 「このまま一緒に寝てくれますか」 「裸でギルドの部屋へ戻れってんならそうするけど、今から寒空に放り出すつもりじゃないんだろ」 「まさか」  毛布を手繰り寄せてチャールズの体にかけ、上からぎゅっと抱きしめる。 「香を焚いてきますね」 「いいよ」  香木片と、予め砕いたり擦ったりしておいた樹脂だとかの香原料を混ぜ合わせ、熱した炭の上にはら、と乗せる。  一筋の白い煙が立ち、イーサンの雑然とした部屋は次第に、古い寺院で嗅ぐような、どこか甘ったるく懐かしい、清浄な香りで満たされていった。  チャールズはすうっと息を吸って、喉骨から胸にかけてを撫でおろした。夜着がはだけ、肩口を露わにする。その仕草は妖艶というより、厳かに沐浴する聖者のようだった。 「あんたの作る匂い、好きだよ」 「気分が悪くなりませんか」 「ちっとも。かえって良い気持ちさ」 「血を飲むのが嫌いで、魔除けの香が好きだなんて、クラウチさんは変わってますよね」  剥き出しになった肩を元通りしまってやり、イーサンはチャールズの髪にキスをした。 「行ったことはないが、遠い国じゃ香は死人への捧げ物というじゃないか。あんたは俺に供物を捧げてるってわけ」 「クラウチさんが喜ぶなら、なんでもしたいのは本当ですよ」 「あんたは誰より献身的で、誰よりも欲張りだなあ。死人を棺桶から引っ張り出して、自分のベッドに固く繋いぢまうんだから」 「そして誰よりも幸せなんです、クラウチさん」 「ああ、知ってるよイーサン。俺だって幸せだもの」  夜着の上から探るが、チャールズの体に高ぶりの兆しはなかった。下着に手を入れ、股の間に指を這わせても、そこには何もない。石のように強張った、冷たい肌があるだけだ。  イーサンはあるべきものを惜しむように、なめらかな表面を何度かさすった。人間に産まれたなら、生殖器はどちらにせよ脚の付け根に備わっているはずだが、今のチャールズにはどちらも無い。  以前は男性器がついていた。精神的な性別はともかく、チャールズは人間の頃、男性として生を受けた。十五歳で精通を迎え、華奢ながらも骨格や筋肉が発達し、成人すると体毛もわずかながら濃くなった。  しかし、彼は二十三歳で死んだ。体毛は薄くなり、筋肉は丸みを帯び、次第に勃起も射精もできなくなった。チャールズは人でなくなった時、性をも失くした。しまいにはイーサンが、本人もそれと気づかぬうちに性器の名残を食べてしまった。  性を失くしたチャールズだが、性の快楽を感じることはできた。イーサンから愛され、その愛を受け止めることが至上の快楽だった。イーサンが絶頂を迎えて達すれば、チャールズもまた、溢れるほどの幸福に満たされた。  チャールズは人間の頃、誰からも愛されることなく死んだ。イーサンから与えられた愛は、今まで経験したことも無いどんな情念よりも熱かった。愛は凍り付いた石の心臓にふたたび血潮を注ぎこみ、イーサンのためだけの肉体を作り上げた。  イーサンとチャールズは延々と続く洞窟の奥深くへ潜り込むように、互いの体をぴったりとくっつけて体温を交換していた。  チャールズの骨まで冷え切った体は、イーサンの体温に当てられてぬるくなり、動物的な臭いを失った皮膚は、イーサンの汗や体液に幾度となく濡らされた。  吸血鬼にとって、体液の吸収は食事に等しい。  この死人は完全に、執着的な愛のみで生かされ、人の形を保っている。  明け方、イーサンは目を覚まして、隣の恋人が腕に収まっているかを確認した。呼吸もなければ体温もなく、鼓動もない、寝息一つたてないビスクドールのようなひとがたが転がっているのだが、ひび割れて灰に変わっていないのなら、イーサンにとっては生きているのとまるきり同じことだった。  この世のものは全て借り物であって、理の中においては親も子もなく、兄弟もなく、伴侶もない。魂は成長するため、一つの形に留まってはおけない。吸血鬼のように魂の成長を妨げる偽りの生は、本人の救いにならないと、魔狩人であるイーサンは良くわかっていた。  それでも、歪な恋人が生物の真似事をしてくれるなら、自らが世界の理から追放されたとしても、いつまでもどんなことをしてでも愛し生かし続けたいのだった。  チャールズを起こさないようにベッドから這い出て、流しで顔を洗う。髪を櫛削り、髭を剃って、階下の台所へ向かった。  ほんの少し前まで、イーサンは雑貨屋を兼ねた住まいであるこの家で、タリア・オーハラなる、大変にお年を召した女性の世話をしながら暮らしていた。  家は元々、タリアおばあさんの持ち物だったが、寿命で亡くなった後、身寄りが誰もいなかったので譲り受けた。おばあさんは世話になった孫同然のイーサンに、ただ一つの財産を任せると遺言をしたためたのだ。  雑貨屋はレンガで作られた、年季の入ったあばら家だった。周囲の家もみな風通しの良いぼろ家ばかりで、中でも一番古びた威厳のある建物は、隣の冒険者ギルドだった。  彼の住む通りは都市の外れにあって、冒険者になるべくやって来た外国人や、田舎から出て来た貧乏人が多かったのであまり手入れをされていなかった。  少なくとも、イーサンが街にやって来た頃は、通りを入って抜けるまで、垢じみて煤けた漆喰やレンガの壁が建ち並んでいたのである。  イーサンはあばら家の二階に住みつき、周囲の不動産を買い取った。雑貨屋を改築して大きくし、隙間風の入る家を立派なお屋敷に変えてしまった。  冒険者たちは隣の店を指して、オーハラ屋敷と呼んでいた。雑貨屋の主人であるタリアおばあさんは亡くなったが、雑貨屋の名前は彼女の苗字を残してそのままオーハラ商店というのだった。  新しい家は清潔で、何でもそろっていた。生活に必要な設備のみならず、錬金術の研究室や、薬草を栽培する温室はどうしても必要だった。  恋人の部屋も用意していたが、チャールズは綺麗な寝心地の良い部屋に衣装を山積みにし、慣れ親しんだギルドの薄汚く狭い部屋に帰るのを好んだ。 「あんたの家にいる時は、一緒に寝るから部屋を分ける必要ないだろ」というのが、チャールズの言い訳だ。  そんな理由で、イーサンは隣に家を持ちながら、ギルドの中にも一部屋借りているのだった。どこで寝るかはその日の気分による。主にチャールズの気が向くままにしていた。  オーハラ屋敷の台所で、イーサンは小鍋をかき混ぜていた。イーサンは自分で何でも作るのが好きで、料理に関しても祖父や祖母、母親譲りの腕前を持っていた。  台所の磨かれた石台には、空のワインボトル二本と、グラスがそのままにしてあった。昨晩、チャールズが殆ど一人で飲み干したものだ。  薬缶は湯気を立て、鍋の中には白い麦粥が温まっている。  炒って荒砕いた麦にミルクを加え、はちみつとひとつまみの塩で味を調える。シナモンで香りづけした焼きりんごと紅茶をそろえれば、朝食の完成だ。 「よし、できました」  お盆に紅茶と朝食を乗せて、イーサンは二階の部屋に向かった。 「クラウチさん、起きてますか」  遮光用の分厚いカーテンは開かれていた。チャールズは柔らかく朝日の入るベッドの上で横になり、卵のように丸い裸の尻を剥き出しにして背を向けていた。 「起きてるよ」 「おはようございます、お茶を持ってきましたよ」お盆を枕元のテーブルに置き、イーサンはベッド脇のスツールに座った。 「おはよ」寝たまま体を返して、チャールズは頬杖をついた。一糸まとわぬ姿に、シーツが絡みついている。  イーサンはポットから紅茶を注いで、チャールズに差し出した。 「温かいうちにどうぞ。今日は薔薇と蜂蜜みたいな香りがするお茶ですよ」 「うん、ありがと」  色味の無い指が白磁のカップを取る。長い爪ばかりが、血で染めたように赤い。チャールズは紅茶を口に含み、嚥下して、ふうと唇を開いた。 「温かくて、いい香りだな」 「そうでしょう。時期物ですからね。昨日、お店にも並べました」 「値段は見ないことにする」 「大丈夫。庶民が買える値段ですから」イーサンは自分のお茶に角砂糖を一つ落とした。「主よ、今朝この糧に感謝いたします。ここで食べてもいいですか」 「お祈りした人間からめしを取り上げるほど、悪い吸血鬼じゃないさ」 「ふふっ。では、いただきます」  とろみのある麦粥をひと混ぜし、すくって食べる。じくっとした嫌らしい痛みが舌を突ついた。 「んー」 「ほらみろ。お粥がべろに染みるんだろう。かわいそうだなあ、坊や」  イーサンは二口、三口食べて顔をしかめ、またもぐもぐやっては眉を寄せ、がんばってすっかり食べてしまうと、ナプキンで口を拭い、紅茶を流し込んだ。  チャールズはイーサンが食べ終わるまで、目を細めながら見守っていた。 「ごちそうさまでした」 「よしよし」  逆光になっているため、チャールズの後ろから光が漏れているように見えた。自然と、イーサンは広げられた腕の中に吸い寄せられていった。薄い裸の胸に頬を擦りつけ、ひんやりした肌の感触を楽しむ。  チャールズはイーサンの整えられた髪を乱さないよう、毛の流れにそって撫でた。 「今日は何する」 「そうですね。ギルドに行ってみませんか。依頼を出しに行く用事もありますし」 「ああ、店の依頼か。俺が受けてやってもいいけど」 「一つ星向けですから。もっと割がいいのを二人で受けましょう」 「ん。初心者の仕事を横取りしちゃいけないよな」ぽんぽぽぽん、とイーサンの背中で太鼓を打ち、チャールズはベッドから起きて、ぬるくなった紅茶を一気に飲み干した。 「さーて、着替えるか。俺のパンツどこだい」 「持ってきますよ」  イーサンが物置部屋へ向かうのを目で追い、チャールズは猫のようにうんと伸びをした。  ギルドは遅めの朝食を摂る冒険者たちで混雑していた。イーサンは受付で依頼を出す手続きをし、掲示板に磁石で何枚かの紙を留めていく。その間、チャールズは仕事を探しながら、暇そうに前髪をいじっていた。 「オーハラ屋敷の依頼じゃないか」 「今日は何だい」  食事を終えた冒険者たちが掲示板の前に集まってくる。 「おはようございます」イーサンは新しい顔ぶれも混じる集団に、笑顔で声をかけた。「いつもの収集の依頼と、護衛もありますよ」 「あ、そのチリンソウの収集。あたしらが受けるよ」 「じゃあ僕たちはジールまでの護衛を」 「レッドスライムの核は俺たちが引き受けた」  冒険者たちは掲示板から我先にと張り紙を奪い取って、慌ただしく受付へ駆けて行ったり、仲間と相談しはじめた。 「あーやれやれ」群衆にもみくちゃにされかけたチャールズは、掲示板の端っこで身を縮めていた。「大人気だな」 「掃除やおつかいよりも割りは良いほうですからね」イーサンは金色の髭を撫でつけた。 「腹が減ったグリフォンの群れみたいにむしり取られちゃ、まともな仕事が残ってるか怪しいもんだ」 「大丈夫。今の人たちは、新しい顔ぶればかりです。装備も安価な物の割りに新しかったですし。なによりほら、オーク退治が残ってますよ。銀貨700枚。なかなか良い仕事でしょうに」 「中堅でも嫌だろうよ、オークは」チャールズは鼻をつまんで吐く真似をした。オークの棲家は悪臭に満ちていると、一度経験した者なら誰もが知っていた。 「他に何かないのかい。できれば臭くないやつ」 「ふうむ」イーサンは顎下の変なところで剃り残した髭を爪で引っこ抜こうとし、無意識の悪癖に気付いて、ただ顎を撫でた。「中堅でも出来る仕事ばかりですね」 「国家規模の危機がそう何度もあっちゃ、世の終わりだろうよ。あ~あ、ジールへの護衛くらい俺がやっても良かったんだけどなあ」 「暇ですよ、とっても。ホイザーからイルパナ間の山賊や魔物は、この前騎士団に一掃されましたし、残党がいるという話も聞きません。イルパナからジールへも然りです。ですが、見渡す限りの荒野を馬車で揺られているだけの平和な依頼がお望みなら……」 「ああ、わかった。俺が悪かったよ」チャールズは悲しそうに首を振り、有り余った暇な時間を嘆く。アメジストの耳飾りと片眼鏡の鎖がぶつかり、ちらちらと軽い音を鳴らした。 「お二人とも、随分とお悩みのようですね」  受付のカウンター内から、トミーが声をかけてきた。いつも人好きのする微笑みで、皺のないシャツとベストを清潔に着こなす彼は、ギルドの従業員だ。 「なあ、トミー。暇を持て余した俺たちに必要なのは、夢と、ロマンの、大冒険だ。豚倉の掃除じゃあない。そうだろう」チャールズは芝居じみた抑揚をつけ、大げさに腕を広げた。 「ううん、残念ですね。つい三日前なら、秘境の村を調査すると古跡調査団から護衛の依頼が来ていたのですが」 「誰だよ、そんなに面白そうな依頼を受けたやつは」 「マグリヤさんとビアスさんですね。ええと、ホゥロンさんとバシリカさん、ワータさんもいましたっけ」 「ああ、なんて薄情な友を持ったんだろうな。あいつらは今頃、俺たちを差し置いて遺跡の中で楽しいピクニックとしゃれこんでるに違いない」  額に手を当て、うなだれるチャールズを見て、トミーは「あはは……」と苦笑した。 「三日前といえば、俺とクラウチさんはまだイエール村にいましたよね。賞金首の捕縛で」 「うん。あれは充実した仕事だったよ。賞金はたっぷりもらえたし、なかなか手に負えない大物だったからな」 「呪術師カルミドゥーの捕縛でしたね。チャールズさんとイーサンさんが動かなければ、イエール村だけでなく、どれだけの被害が出ていたことか」トミーの優しい眼差しは、この世を代表して感謝を述べる司祭の趣があった。  実際、迷える冒険者を労り、うまい具合になだめてくれるトミーの存在は、ギルドにおける司祭の役割があるのかもしれない。  なんだかんだで覇気を削がれたチャールズは、眠そうに長い欠伸をしながらギルドを出た。 「ふあ~~~~~~ぁあ」 「クラウチさぁん」着いて出たイーサンは、燕尾服の背へ向けて慰めるように笑いかける。 「要するにだ、俺たちは休暇を持て余さなきゃならない。退屈は吸血鬼を殺すだろう。太陽の光なんかより確実に灰にするだろうさ」 「部屋の掃除でもしますか」 「ハンッ」すかさずチャールズは鼻息であしらう。「空を見ろよ。雲一つなくどこまでも広がる青、小鳥は歌い、風は柔らかで清々しい。そんな日に掃除をして何になる、言いたまえよ坊ちゃん」 「綺麗になると気持ちがいいですよ。カビが生えることもなければ、虫がわきませんし、ネズミも出ません。爽やかな風を清潔な部屋いっぱいにできますよ」 「模範的な回答をありがとう、優等生。けど俺は掃除したくない。どんなに時間があって、暇だとしてもだ。死人は自分の墓穴を整理整頓なんてしやしない。豚倉よりましなら、どこでだって安らかに寝られるんだ」 「はいはい。では、掃除はまたの機会にしましょう」 「永遠に訪れない機会だといいね」  チャールズはイーサンの頬をするりと撫で、髭を散々指で掻き回した後、引っ張って離した。 「俺はちっとも退屈しないですよ」もしゃもしゃになった髭を撫でて整えるイーサン。 「なんだい、オーハラ屋敷の旦那様は商売繁盛でお忙しいってか」 「クラウチさんと一緒にいると、楽しくて、退屈しないんです」 「へえ。朝から随分と口説いてくるじゃないか」にや、と歪めた口元から小さな牙が覗く。「今からベッドに戻るってのも、悪くないかもしれないな」 「クラウチさんがお望みなら、それでもかまいませんけど」 「まあ、あんたを日が高いうちから暗闇に閉じ込めておくってのは、そんなに趣味じゃないし。人間らしく、健康的に散歩でもしようぜ」  チャールズはイーサンの手を取った。イーサンの手は大きく、全部の指を握り切れないので、人差し指と中指だけ握った。 「散歩ですか。たまにはいいですね」 「ん。あと、やることが特にないのは事実だが、あんたといて退屈するわけじゃない。気を悪くしないでくれ」 「ええ、知ってますよ。二人で何かしたかったんですよね」 「そうさ」イーサンの腕を両手で抱きこみながら、チャールズは歩くように急かす。  挑発的で、皮肉屋で、自堕落で、それでいて密教の修行者然とした厳かな面のあるチャールズを見ていると、微塵も退屈しない。そばにいるだけで胸がいっぱいに満たされた。  路地は行き交う人々や荷を運ぶ馬車などでごちゃごちゃして、チャールズがいうほど清々しい空気ではなかったが、目的もなく歩くのは案外新鮮なものだった。  通りを抜け、中心部に出てきた。都市の象徴である時計塔や大聖堂が見え、広場には色とりどりの天布を張った市が、ずらりと並んでいる。  道沿いの喫茶店は表にテーブルと座席を並べ、新聞を読んだりする客がまばらに座っていた。朝食時の繁忙期を終え、従業員ものんびりとテーブルを拭いている。  二人は自然と、市場のほうへ足を向けた。果物、野菜、肉や魚。市場の品はどれも新鮮だ。中には食料品だけでなく、古びた蹄鉄だったり、品質の定かでない武具だったり、遥かなる異国からやって来た、何に使うのかよくわからない物を売る店もあった。  チャールズは生花店の前で立ち止まった。ピンク色の薔薇を中心に作られた、かわいらしい寄せ花へ釘づけになったのだ。 「綺麗だなあ」 「色んなお花がありますね」 「あの花はなんていうんだい」チャールズは寄せ花の右隣にある、八重咲きの白い花を差した。 「あれはエデンフリルですね。殆ど黄色かオレンジで、八重咲きの白い花は珍しいんですよ」 「ふーん、よく知ってるな」 「実家で母が育てていましたからね。黄色のエデンフリルは根が薬草になるんです」 「へえっ、詳しいねえ、旦那」客の相手をし終わった店主が、エプロンで手を拭きながら顔を向けた。「今年は寒かったから悪くなるかと心配したが、どうだい。良く咲いてるでしょ」 「ええ。ではひと鉢いただけますか。まだ出かけるので、帰りに来ますから」 「良ければせがれに配達させよう。今は学校に行ってるが、なに、夕方には届けるよ」 「では、よろしくお願いします」イーサンは住所を書くと、財布を開き、花の代金と運送賃を手渡す。「配達料はこれくらいですか」 「いや、そんなにいただけねえ。子供のおつかいにゃ銅貨五枚ほどいただければ充分でさあ」  それは小さなパンが一つ買える程度の値段だったので、イーサンは元の通り、花の代金と合わせて銀貨を十枚握らせた。 「わざわざ配達してくださるのですから」 「すまないねえ。じゃあ、これはお連れさんにおまけだ」店主はピンクの薔薇を一本抜いて、慣れた手つきで紙に包んだ。 「あ、ありがとう」壊れ物を扱うようにそっと手を伸ばし、チャールズは花を受け取る。 「かえって気を遣わせてしまいましたね」 「まいど。また来てくれよ、旦那方」  威勢のいい声に送り出され、イーサンはチャールズを伴って花屋を後にした。 「どの花も綺麗だったな」すうっと薔薇の香りを嗅ぐチャールズ。  途端に薔薇はくすんで、萎れてしまった。 「けど、やっぱり俺に花は似合わない」 「そんなことありませんよ。クラウチさんの命になって生き続けるのですから」 「うん、そうだな」チャールズは干からびた花の包みを抱き、寂しそうに微笑むのだった。  市場が途切れると、右手は表門へ続く車道、左手には商店の並ぶ大通りが続いていた。  イーサンはチャールズの背を抱き、大通りのほうへ歩き出した。今朝港や交易路から届いたばかりの荷を積んだ馬車が行き交い、あるいは商店へ品物を下ろしている。  パン屋の前では、街路樹に繋がれた黒い犬が、大人しく座って主人の用を待っていた。イーサンが微笑みかけると、犬は舌を出し、主人でないとわかるや大きな欠伸をして寝そべる。その様子が面白くて、チャールズはくすりと笑った。 「ねえクラウチさん、あの店に入ってみましょうか」 「うん、どこだい」  イーサンが指した方向には、看板が垂れていた。緑のペンキで縁取りされた看板には「マイセル宝飾店」と、これまた品のある字体で書かれている。 「ふうん」チャールズが覗くと、展示窓には半身のトルソーがあって、見事な装飾をされた首飾りや腕輪が飾られていた。 「どうですか」 「綺麗だな。ちょっと冷やかしに行くか」  カランカラン。  扉を開くと涼やかな呼び鈴が店内に鳴り響いた。ほんの少し花のような、柑橘のような、甘い香りがする。 「あ、いらっしゃいませ」 「いらっしゃいませ」  髪を結いあげ、長いワンピースを着た店員と、膝までのスカートとチョッキを着た背の高い店員がにこやかに出迎えた。先ほどまで談笑していたと見える。他に客の姿はなかった。 「少し見せてくださいね。おかまいなく」 「ええ、どうぞご自由に」  イーサンらが店内に入ると、チョッキの店員がはつらつと答えた。  チャールズはイーサンの腕を離れて、飾りテーブルの上を眺めた。金に塗った額の中に、ビーズをあしらった耳飾りが並べてある。それらは色ガラスに、薄く叩いて伸ばした金や銀を巻き込んで作られているのだった。多くは丸いが、四角やハートの形もあった。 「イーサン、これ、海を閉じ込めたみたいだ」 「本当だ、綺麗ですね。こっちは空みたいですよ。夕暮れ時の空です」 「わあ……」チャールズは目を輝かせ、うっとりと感嘆を洩らした。 「良ければお試しくださいな」ワンピースの店員が、少し離れたところから柔らかい声をかけてきた。 「じゃあ、ちょっとだけ」丸い置き鏡の前で、チャールズは金と赤紫の耳飾りを取り、耳にあてがう。  しかし、鏡には背後の壁が映されていた。チャールズはほころんでいた口元を下向きに結んだ。吸血鬼は鏡に映らないのだった。 「こっちを向いて、クラウチさん」 「ん」 「似合ってますよ、ほら。つけてみてください」イーサンは折り畳みの鏡をチャールズに向けた。 「うん、そうかな、へへ」  小さな鏡には金縁の片眼鏡をかけ、栗の渋皮より濃い色の髪を後ろにまとめている、痩せた顔が映っていた。チャールズはまた、緩みかけた頬を強張らせた。 「あんたがいうほど似合っちゃいないよ。こんなにギラギラ目が赤くて、石膏みたいな顔色してさ」  チャールズは鏡から顔を背け、溜息をつきながら店を出た。 「ああ、少し待っていてくださいね」  声をかけたが、すっかり肩を落としたチャールズには聞こえていないようだった。  暫くして、イーサンはポケットに包みを隠しながら出てきた。 「お待たせしました」 「ん、行くか」  裾についた砂を払い、チャールズは立ち上がる。 「何を見ていたんですか」 「ダンゴムシ」尖った顎がしゃくられた。  確かにわざわざ店先のプランターをずらしたあとがある。石畳の上には三匹のダンゴムシが転がったり、のそのそ這いまわったりしていた。 「ああ、三匹も。けっこういるものですねえ」イーサンはプランターをそっと戻した。「次はどこに行きましょう」 「あっちの路地に入ってみようぜ」 「わかりました」  宝飾店の三軒ほど先に、人がやっとすれ違えるほどの狭い路地があった。チャールズはズボンのポケットに手を突っ込みながら、早足で進んでいく。 「クラウチさぁん、ちょっと待ってくださいよ」 「こっちこっち」  路地はなだらかな登り坂だった。建物と建物の間にロープが渡され、洗濯物が旗のようにたなびいている。  ハイヒールなのに歩みの早いチャールズを追いかけ、ようやく捕まえると、チャールズはポケットを片手でもぞもぞやっていた。 「何をしてるんですか、クラウチさん」 「何も持ってないよ」 「じゃあお尻が痒いんでしょう」 「違うよ、すけべ」ポケットに手を入れたまま、チャールズは坂を駆け上っていった。  さすがの吸血鬼、燕尾服の裾が持ち上がり、一本の矢に見えるほどの速度で突風のように吹き抜ける。 「悪いな、猫ちゃん」  すれ違った茶色縞の猫がギャッと飛び退くも、声はもはや遠くにあった。 「クラウチさんたら、待ってください」  イーサンは必死に後を追った。足元は大小の敷き詰められた石がでこぼこして、走るのに向いていない。  やっと坂が終わり、イーサンは深呼吸した。どこからか潮のにおいが漂ってくる。顔を上げると、目の前には海原が広がっていた。港沿いの開けた道路に出たのだった。  港を囲む道は都市より高く作られており、ちょうど防波堤の役割をしている。チャールズは白い石造りのフェンスに体を預けて座り込み、海を眺めるでもなく、フェンスの下側をじっと見つめていた。 「クラウチさん」 「やあ、イーサン。来たか」 「急に走って行っちゃうんですから」  近づいてよく見ると、フェンスの敷石にはダンゴムシが三匹転がっていた。 「あっ、ダンゴムシ持ってきちゃったんですか」 「そうだよ。こいつらにも散歩させてやろうかと思って」 「仕様がない人ですね」笑って、イーサンもしゃがみ込んだ。  フェンスの隙間から、沖の小さな船がゆっくりとこちらへ向かってくるのが見えた。実際は風を受け、すごい速さで波の上を走っているのだろう。少なくとも三本のマストは、ヨットのような小さい船ではなく、最低でも百人は乗れる大型船だというのがわかる。 「ねえクラウチさん。せっかくですから海を見てください。ほら、あそこに三本のマストを立てた船が走っているでしょう。あれは紅茶を運ぶ船ですよ」 「どれ。随分小さな船じゃないか」 「あはは、そうですね。まだ遠くなので小さく見えるんですね。魔工で作られた快速船ですから、帆に受けた風を魔力へと変換し、とても早く走っているのです。ほら、すぐ近づいてきますよ」 「へえ~ あんた、船が好きなんだな。目が輝いてるよ」 「そうかもしれません。俺も技術者の端くれですから、優れた魔工技術を見ると感動してしまうんですよね」  波音と共に船はやって来て、やがて滑るように港へ停泊した。それはダンゴムシの一匹が、チャールズのつま先を横断するほどのわずかな時間でしかなかった。  不意に、イーサンの腹の虫が鳴いた。 「おっと」チャールズは内ポケットから懐中時計を出し、時刻を確認した。「もう一時か。腹減ったろ」 「ええ。実はさっきからお腹が空いていたんです」 「じゃあめしにするか」チャールズはダンゴムシをちょいちょいと摘まみ上げ、風除けに植えられたオリーブの根元にダンゴムシを放してやった。 「じゃあな。プランターの下より眺めはいいぞ」 「そうですね。いつでも海が見られますから」  三匹の友に別れを告げ、イーサンとチャールズはまた腕を組んだ。  暫く港の周りを歩いて行くと、クリーム色をしたまだら模様のパラソルがいくつも並んでいるのが見えた。軽食屋のテラス席は、結構な客数で埋まっているようだ。 「何を出す店かな」 「何でしょう。ああ、紅茶とサンドウィッチを食べてますね。葡萄酒を飲んでいる人もいますよ」 「葡萄酒。俺は赤い葡萄酒が飲みたいよ」 「チキンサンドが食べたいですね」  よくよく近づいて見れば、まだらのパラソルは元々黄色いパラソルなのだろう。長いこと潮風に揉まれるうち、すっかりくすんでしまったものと思われた。  ただし、ガラス窓は良く磨かれて清潔だし、客の食べている料理はどれもうまそうで、店員は忙しく立ち働いている。  この店は「当たり」だ。イーサンはピンときた。 「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」  明るい声に出迎えられて、イーサンとチャールズは日陰のテラス席へついた。従業員はみな一様に、茶色のエプロンと黄色いスカーフをつけていた。  水と品書きを置いて、給仕は一度引っ込んだ。イーサンはメニューをめくって、サンドウィッチのページへ真剣なまなざしを向ける。 「いいですね。チキンサンドがありました。パサパサの冷たいチキンはごめんです。焼いたチキンにしましょう」 「良かったなあ」  イーサンは店員を呼び留めて、チャールズの葡萄酒ひと瓶と、前菜の盛り合わせ、スープ、焼いたチキンサンド、二人分の紅茶を頼んだ。  忙しい割りに、注文した料理はほどなくして運ばれてきた。段取りがいいのだろう。 「うん、おいしいです。このチキン柔らかくて、皮を良く炙ってあるんですよ」イーサンは幸せそうにチキンサンドを頬張った。 「腹一杯食えよ」  食いしん坊な恋人が時々、舌の傷を痛がる様子に憐みの目を向けながら、チャールズは半ばまで葡萄酒の入ったグラスを傾けている。イーサンがスープを飲み終わる時点で、瓶の中はほぼ空になっていた。  片やたっぷりの食事をし、片や酒だけ飲んでいる。従業員らは妙な客だと思ったかもしれない。しかし、イーサンとチャールズは慣れていた。  食事を済ませ、二人は防波堤の白い階段を降り、波止場へと向かった。  石で固められた港には、いくつか釣り人の姿があり、まるで決められているかのように間隔を開けて竿を伸ばしている。 「何が釣れるんでしょうね」イーサンは釣り人の邪魔をしないよう、少し離れた場所で波の下を覗きこんでみた。  水はそれほど澄んではいなかったが、濃い青の間にいくつかの小さな魚影が見える。 「クラウチさん、ほら。魚がいます」 「お、いるいる」チャールズも身を乗り出した。  イーサンはチャールズがうっかり落ちないよう、さりげなく腕を伸ばす。 「でも、こいつら小さいんじゃないか」 「ええ。小さいですね。きっと塩漬けにしたり、ソースの具に使うんですよ」頭の中で、様々な料理が浮かぶ。どれもイーサンが研究して作った味ばかりだ。  しかしチャールズは「かわいそうだな、こんなに小さいと」静かに言って、水際から離れた。 「ええ、そうですね」イーサンも同じく。  普段のイーサンなら、釣り人の一人にでも話しかけただろう。今はどんな魚が旬で、何が釣れるか、魚を釣ったらどうやって食べるか。そして、一度話した人間とは友人になる。笑顔で礼を言って別れるだろう。  イーサンはチャールズの横顔を眺めた。チャールズはもう、海を見てはいなかった。片眼鏡越しの視線は遠く、彼方の水平線にあった。ともすれば、イーサンには見えない、知りもしないどこかの果てを見ているのかもしれなかった。  細い手首は力なく垂れている。イーサンはその、風に揺られるオリーブの枝に似た手首を引き寄せ、手の中に収めた。 「もう少し歩きましょうか」 「うん」  港を離れ、当てもなく進むと、やがて倉庫街にやって来た。  日は高いが、人の姿は無い。チャールズは足元の石ころを蹴って、転がしながら歩いた。 「疲れましたか、クラウチさん」 「ううん。あんたは」 「少し疲れました」 「じゃあ、どっか腰を下ろすか」  船を綱で繋いでおく係柱(けいちゅう)に、イーサンは尻を預けた。係柱の先端は丸く斜めになっており、安定性はないが、体重をかけられるだけましだった。 「ふう」 「随分歩いたな」 「そうですね。帰りたいですか」 「あんたが帰りたいなら」チャールズはヒールの踵を鳴らし、くるっと回ってみせた。燕尾服の裾が広がり、円錐型を描く。 「クラウチさんは元気ですね」 「吸血鬼は疲れないんだよ、死んでるからな」  イーサンは立ち上がって、背中を伸ばした。手を差し出すと、チャールズも差し出し返してくる。 「踊ってくれますか」 「疲れてるんだろ」 「もう疲れは取れました」  にや、口元を歪めて、チャールズはイーサンの手を取った。深い眼窩の奥は妖しい光を帯びている。 「知らないぜ、帰れなくなっても」 「あなたと踊りたいんです」 「じゃあ」  踊ろうか――チャールズはつま先でステップを踏んだ。降り始めた雨音のように軽く、質量のない音。イーサンはチャールズの腰に腕を回した。自分が踊るより、チャールズというしなやかな振り子を回すように、動物的な筋肉を使った。  抱きとめては離れ、指先だけを絡めてはまた結び合う。音楽は無かったが、二人の頭の中には同じ曲が流れているに違いなかった。あるいは波と風の音が、二人に与えられた音楽だった。  イーサンは無償に泣きたくなって、チャールズが再び腕に舞い戻って来た時、踊るのをやめた。 「どうした、イーサン。やっぱり疲れたろ」  イーサンは大きく息を吸い込み、静かに吐き出した。膨らみ、しぼむ肺が、胸の中に納まったチャールズの体をも揺り動かす。 「クラウチさん」 「ん」 「愛しています」 「ん、俺もだよ」チャールズはイーサンの肩に額を預けた。「温かい」  イーサンは少しだけ肩を震わせ、そして、瞬かせた睫毛の間から涙が一滴飛び散るのを感じた。涙はチャールズの尖った耳に当たって砕けた。  チャールズは首を逸らせ、我が耳を濡らした雫が何であったか確かめようと、見上げた。イーサンは悲しいとも嬉しいとも言い表せない神妙な顔つきをして、目を開いていた。 落ちた涙はそのひと雫だけだったが、チャールズにはイーサンが感じている気持ちがわかった。 「イーサン」 「はい」 「あんたの目って、何でそんなに綺麗なんだろうな」  イーサンは瞬きをして、微かに濡れた睫毛を振り払った。 「まるで澄んだ青空みたいだ」 「そうでしょうか。ありがとうございます」 「うん」  強く抱きしめすぎないように抑えながら、イーサンはチャールズの体を両腕で包んだ。  チャールズはイーサンの背を手袋越しの冷たい手で撫でる。 「愛してる。イーサン」 「はい」  イーサンはついに瞼を閉じた。溜まっていた熱い涙が溢れ、頬を伝い落ちる。 「クラウチさん、俺は言わなければいけないことがあるんです。いつか、いつか言おうと思って、あなたを……本当は、あなたを生かすために、俺が、あなたを」 「いいんだ、全部知ってる」  チャールズはイーサンに包まれながら首を振った。 「でも、いつ、どうして知ったんです、あなたを……あなたをこんな風に変えたのが、俺だって、どうして」 「何も言うなよ。わかってるから」 「それなら……どうして」 「あんたの全てを許してる。それでいいじゃないか」 「……っ」 「俺は死んでるけどさ、生きてるんだから」  イーサンは喉にこびりついた息の塊を吐き出そうと口を開いた。しかし、激しい叫びを腹の中に飲み込んで、ほんの少しだけ腕に力を込めた。 「ごめんなさい、クラウチさん」 「謝らなくていいんだ。もう苦しまなくていい。あんたのおかげで幸せなんだから」  イーサンはチャールズを抱きしめたまま、膝を崩した。悲嘆をこらえる代わりに、チャールズの後ろ髪に恐る恐る触れ、頬を擦りつけた。  夕方、オーハラ屋敷に戻ると、花屋からエデンフリルの鉢植えが届けられていた。イーサンは鉢植えを日当たりのいいリビングの窓辺へ置き、チャールズに見せた。 「やっぱり綺麗な花だな」チャールズはいくつものレースを重ねたような、八重咲きの白い花を誤って枯らさないよう、遠巻きにして目を細める。 「ええ。それと、クラウチさん、渡したいものがあるんです」 「へ~ なんだい」  イーサンはポケットを探って、小さな包みを取り出した。 「これを」 「開けていいかい」 「どうぞ」  チャールズはそっと包みを開け、中の小箱を開いた。 「あ、これ」  出てきたのは、チャールズが宝飾店で気に入った耳飾りだった。夕暮れの紫色に金箔を巻き込んだビーズで作られ、窓から差し込む本当の夕日に当てられて、煌めくのだった。 「はい。気に入っていただけましたか」 「ありがとう。でも、俺には似合わないぜ。こんな白い顔でも、せめて、この花くらい綺麗だったら良かったんだけどな」  うつむいて苦く笑うチャールズの肩をイーサンは優しく撫でた。 「クラウチさんは、俺にとって一番綺麗です」 「へへ、よせよ。照れるだろ」  イーサンはチャールズの耳朶に耳飾りを付け、魔法の鏡に映した。 「ほら、綺麗ですよ」 「う、うん。そうかな」 「綺麗です、クラウチさん」  頬に口づけられ、鏡の中のチャールズは強張った笑みを自然な柔らかいものに変えた。 「ねえ、お願いです。一つだけ教えてください」 「うん。なんだい」 「いつ俺が、あなたを吸血鬼に変えた犯人だと知ったのか」  チャールズは呼吸もしないのにため息をつく。 「匂いだよ。香の」 「えっ」イーサンはすかさず自分の服を引っ張って嗅いだり、二の腕を顔にくっつけてすんすんと嗅いでみたりした。 「いつ頃か忘れたけど、気づいたんだ。吸血鬼はあんたと同じ匂いがしてた。最初はまさかと思ったさ。過去に行くなんて。でもあの"賢者の石を完成させた"あんただもの、それができるかもしれないって、思うようになったんだ。後は憶測だけ」  イーサンは少しの間表情を失い、そして、物憂げな笑みを浮かべた。 「そうでしたか。ええ、憶測の通りです」 「だけど、全部許してるから、あんたのしたこと。あんたが言ったこと。悪いのは俺だ。あんたには理由があってそうしなきゃならなかった。そうなんだろ」 「ええ。そうです。しなければいけなかったのです。けれど、クラウチさんは悪くありません。誰も悪くなかったのです」  チャールズはただ肩をすくめた。 「それより、俺は本当に綺麗かな。あんたが、怪物みたいに"ことさら醜い"俺のことが好きなら……」  イーサンは眠るように瞼を閉じた。  そして、開く。  チャールズは魔法の鏡を見ながら、耳飾りに触れて満足そうにしていた。 「それより、本当に綺麗かな。俺のこと"そのままで良い"ってあの時言ったけど、いまいち自信が持てないんだよな」 「ええ、クラウチさんは"そのままで良い"のです。俺はどんな小さいものにも興味を持ち、愛情を注ぎ、誰かのために自分を犠牲にできるクラウチさんが大好きなんです」 「そうかな。ありがとう」チャールズは思いのほか、屈託なく微笑んだ。呪いはやっと解けたのだ。 「だからもう、もう諦めないでくれませんか」 「わかってるって。あんたが色んなものを犠牲にしてくれたおかげで、今の俺があるんだもんな」  腕を広げ、一回り。チャールズは嬉しそうに燕尾服を翻し、くるっと踊った。 「ねえ、どうです。食事の後、あなたの家へ行きませんか」 「ああ。俺のピアノとあんたのヴィオラを協奏しようってんだな、いいよ」チャールズは軽やかにステップを踏みながら、イーサンの腕に飛びついた。「はあ、温かい。幸せだ」 「ええ、俺も。幸せです」  それは、星の数ほどの愛に相応しい言葉だった。

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