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「遥、手を」  禊ぎを終えて水から上がる遥に、隆人が手を差し伸べてくれた。それをしっかり掴む。全身から水が滴りおちる。  十月初頭の早朝の禊ぎは体に堪えた。隆人が肩にかけてくれた白い浴衣に袖を通すと帯を左手に持ち、右手は隆人に握られ、遥は屋敷の出入り口に戻った。  すぐに鳳と凰それぞれの小部屋へ戻り、バスタオルで体をくまなく拭かれる。室内は暖められていたが、肌はまだ粟立ったままだ。 「寒かったー」  本音がぽろりとこぼれた。  俊介が「ありがとうございます」と言った。 「そこはお疲れさまとかじゃないのか?」  基とともに遥の着替えを手伝っている俊介が答えた。 「我らが為に禊ぎをなさってくださったのですから、御礼申し上げるのが妥当かと存じます」  遥は笑った。 「相変わらず硬いな、俊介は」 「恐れ入ります」 「褒めてない!」  笑う遥に、俊介が困ったような表情を見せた。  「捧実(ほうじつ)()」のため、俊介が戻ってきたのは、昨日の早朝だ。  帰ってくるのか来ないのかやきもきしていた遥は、俊介の「遅くなりまして申し訳ございません」という言葉に「遅い」と文句をつけてしまった。 「間に合わないかと思った」 「ご心配をおかけしました」  恐縮する俊介はおもしろいのでついそう言ってしまった。だが遥は俊介が側に戻ってくれて、安堵している。則之たちには悪いが、俊介の落ち着いたようすに、他の世話係にはない頼りがいを覚えるのだ。  東京を発ったのは俊介が戻って約六時間後、昼だった。運転は湊が担当した。弟だからなのだろう、俊介の小言が多かった。 「速度が安定していない」「ブレーキが遅い。そして踏み込みが強すぎる」「ふらつきすぎだ」  運転免許を持っていない遥からしても細かすぎる。 「俊介、うるさすぎ。もう少し湊を信頼しろ」  色白の俊介の顔が赤く染まった。 「遥様を安全に心地よく本邸までお過ごしいただくためと思い、熱くなりました。申し訳ございません」  ちなみに俊介は遥と一緒の時には運転しない。一番の手練れは護衛に専念ということらしい。  無事に本邸につくと、すぐに瑞光院へ挨拶に行かされた。院主の慶浄はにこにこと遥を迎え、墓参りに同行してきた。  ここを歩き慣れている慶浄に比べ、運動不足気味の遥は遅れがちだった。  これはジムでも通えと言われそうだと、遥は思った。  護衛が必要な遥が自由に散歩するよりは、ジム通いを勧められるのはありそうな話だ。  頂に据えられた天然石の巨大で黒い墓石は、威容を誇っていた。  用意された線香に火が点され、遥に渡された。遥はそれを墓石前の線香皿に捧げる。そして、目を閉じて頭を下げ、手を合わせると、明日の儀式の成功を祈った。  祈り終えた遥は、ふと以前から思っていた疑問を慶浄に投げかけた。 「仏教ではないのに、なぜ線香を上げるんですか?」 「何分昔からのことゆえ定かではありませんが、鳳凰様によい香りをお捧げしているのでしょう」 「鳳凰様はここにいるのですか? 考えてみると夏鎮めの儀式もここで行いましたよね。仏教寺院では本尊は本堂にあります。葬式なども本堂でやりますけど」 「さすがは凰様。よく気がつかれました」  慶浄は微笑んでいた。 「鳳凰様はここにおいででございます。仏教で言うところの本尊に当たる鳳凰様のお姿を刻んだ像がこの場所に納められてございます」  慶浄の視線がこの場所から辺りを見渡した。 「この地方は雪も降る寒地であるため鳳凰様がお住まいになる梧桐がうまく育ちません。代わりに梧桐にお姿を写した彫刻を昔の者が作らせまして、この地一帯を守護していただくために、高さのある、見晴らしのよいここにお納めしたと記録にございました」 「雨が降ったら儀式はどうなるんです?」  素朴な疑問を口にすると慶浄がほほっと笑った。 「儀式の種類によっては、本堂で行います。加賀谷様ご本家の儀式ですと、本堂裏のご本家様専用のお部屋を使うことになります」 「そうなんですか」 「ですが、人界の鳳凰様の祈りは、天に届くのございましょう。当日になると雨が止み、雲が切れ、儀式が行えるのですよ」  慶浄の笑みを遥は不思議な気持ちで見つめた。  隆人と朝食を摂りながら、遥は昨日の慶浄の言葉を振り返る。  人界の鳳凰の祈りが天に届く――祈りが足りなければ儀式ができないと慶浄は暗に言っていた気もする。  幸い今日は見事な秋晴れだ。季節柄かもしれないが、遥がほっとしたのは事実だった。 「昨夜は、何もしてやれなくてすまなかったな」  唐突な隆人の言葉に箸を止め、「は?」と返した。隆人はすました顔で「ぐっすり眠っていたから、それを起こして可愛がるのもどうかと思った」  顔も体も羞恥に熱くなった。 「朝っぱらから何言っているんだよ!」 「抱き寄せたら甘えるようにすがってきたので、そのまま寝たがいやだったか?」  言い返すことができなかった。禊ぎのために起こされたとき、隆人の腕の中で驚きつつもうれしかった自分を否定できない。 「いやだったのか?」  しつこい隆人に遥は必死に考えを巡らせ、白状した。 「うれしかったよ。それでいいんだろう?」  隆人が笑った。 「それはよかった」  遥は玉子焼きをがぶりと食べた。隆人の意地の悪さを忘れさせてくれる、ほどよい甘さだ。 「食べ過ぎるなよ。儀式は着物だからな」 「前よりは着付けられるのにも慣れた。それにみんな着付けがうまいから苦しくない」 「そうか、茶道の稽古には着物のことが多くなったという話だったな」 「作法もな」  隆人がため息をつく。 「私に対してはの口調は、本当に変わらないな」 「変わらないよ。むしろ変えない。俺が俺である限り」  隆人が箸を置きながら、もう一度ため息をついた。 「親愛の情だと信じている」  遥はにやっと笑って箸を置いた。

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