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第1話
伊勢はいたって普通の男だ。
彼の印象を誰に問うても、きっと同じ言葉が返ってくるであろう。〝可もなく不可もない”。友達も多いほうではないが、それなりにいる。特別目立つわけでもないが、影が薄いわけでもない。日本中の男子高校生を平均化したら伊勢のような人物像が出来上がるだろうという想像すら容易い、普遍的で健全で通俗的な高校二年生。発展途上の若い胸に小さなにきびが芽吹いている、ありきたりな学生だ。
しかし、そんな伊勢はただ一人に特別嫌われている。伊勢を剣呑な瞳で遠巻きに見詰める彼は壬 生 尚樹といい、伊勢の隣のクラスの生徒で、そして寮で同室に振り分けられている。
校内で二人が話している姿を見かけた者は、ほぼいない。伊勢は弓道部であったし、壬生は将棋部であった。クラスどころか部活動さえ違えば会話の種すらありはしない。そもそも、彼らの通う私立S高校は関東屈指のマンモス校なのだ。同室でなければ、互いに名前すら知らずに卒業していた可能性だって十分にありえた。
伊勢と壬生、どちらも目立たない生徒という点では類似していたが、人間性の本質はまるっきり対極に属していた。
伊勢は外見からも想像できる通り柔和な性格だが、壬生の気性はその瞳の鋭さで推して測るべく、反発心に富んでいる。自由を押さえ付けられることを何より嫌い、その旨を己の態度や語気できちんと表わす、反抗期真っただ中の、これもまた健全な男子高校生だ。
議題、『壬生は伊勢を特別嫌っているのか。』
はたから見れば厭悪しているように映る、伊勢を見据える壬生の視線。しかしその実、壬生は伊勢に怯えていた。神経質そうなメタルフレームに縁取られたレンズの奥の切れ長の瞳で、伊勢の行動を見守る。注視する。悪霊でも見ているのかと問いたくなるほどの緊張を、じっとりとした畏れとともに全身から放出させている。瞬きすら少ない頑なな視線に後頭部を焼かれた伊勢が振り返ると、一転して壬生は怯えたようにしてうつむいてしまう。白い頬はすっかり青ざめて生気すら感じられない。汗が一粒、痙攣するまぶたの上を流れた。
解答、『壬生は、伊勢に怯えている。』
ぎ、とベッドのスプリングが軋む音が、午前二時の狭い部屋の中で震えた。あまりにも小さな音。ひた、と汗ばんだ素足を踏み出す音。なんてことのない、ただの生活音に怯えるのは壬生そのひとだ。灯りを落とし、スタンドライトのか細い光で本を読んでいた壬生は物音に誘発されるようにして大げさに体を震わせ、部屋の中央に引かれた間仕切りの分厚いカーテンを睨んだ。
「まだ、起きていたんだね」
細く開けられたカーテンからじろりとこちらを覗くのは、もちろん伊勢だ。ほの暗い空気に浮かぶ相貌がにまりと笑ったような気がした。
「……読み始めてから二時間も経つのに、まだ十ページしか進んでないね。考え事でもしていた? それとも心配事?」
え、と小さく声が漏れる。いったいなにを言っているんだと口に出しかけ、やめた。どんな答えが返ってきてもこちらの気分が悪くなるだけだ。
寝たふりをして、いちいち紙擦れの音を聴いていたのか。二時間も、カーテンの向こうの暗がりで。息を殺し、観察を気取られないように。くらりと眩暈がした。困惑し続ける壬生の心境や寒気などまったくお構いなしに、伊勢は爛々とギラつく瞳を仄暗い闇の中で湿らせていた。
春になったばかりの、花薫る夜にどうしてこんな思いをしなければならないんだ。壬生はずれた眼鏡を直しながら、短い前髪ごとおおきく頭を掻いた。露わになっている額にべたりとした汗が浮かんでいるのを見止め、はあとため息を漏らす。魂ごと抜け落ちてしまいそうな、そんなため息だった。
「なあ、頼むよ。本当に気持ち悪いから、いちいち干渉しないでくれないか」
「干渉? してないよ。心外な言い方をするんだね」
「……きもちわるい」
小さく口の中で吐き捨てる。気持ちが悪い。伊勢は気持ちが悪い。じっとりと絡みつくような熱っぽい視線でこちらを嬲るように見つめてくるのに、昼間にはその気配が微塵も無くなってしまう。この異常としか言い表しようのない気味の悪さは、朝日が登るのと同時に溶けてしまうのだ。それこそ魔法が解けてしまうように。さながら魔女の呪いか。呪いが溶け落ちた伊勢は、ただのそこそこ明るくて、そこそこ爽やかな好青年に変貌してしまう。それなのに夜の彼はどうして。どうして夜になると毎夜毎夜、夜毎夜毎、部屋の中央にたなびくカーテンという絶対不可侵の境界線の間から、こちらを覗くのだ。気味の悪い視線で、頭に逆立つ毛先から爪先の先端に至るまでを嬲るのだ。
背筋をいつまでも駆け続ける悪寒に、壬生は己の肩を掻き抱く。
言い逃れのできない執着と偏執を言葉に乗せつつも、伊勢はけっしてカーテンを越えて壬生の領域に侵入してはこない。ただ、覗いている。それが却って気味の悪さに拍車をかけている。
「おやすみ」
「……」
「おやすみ、壬生」
「うるせえよ、早くあっちに行ってくれ」
枕に勢いよく顔を埋めて拒絶を示す。それ以上伊勢はなにも言わず、しゃ、とカーテンを閉めた。――――いったい、なんだったんだ。
無意識の内に止めていた息を吐き出し、過呼吸ぎみな息をそのままにライトを消した。いったい、なんだったんだ。毎晩毎晩、いったいなんなのだ。
心地のよい、ふわふわとした生ぬるい春夜に、どうして。
己の存在そのものを消したくて、伊勢の前から消えてしまいたくて頭から毛布をかぶった。おそろおそる目だけを毛布の闇から覗かせると、しんと静まり返った部屋ばかりが暗く沈んでいた。気配はない。寝息ひとつ、衣擦れひとつ聞こえない。それなのに、このカーテンの向こうで布団に横たわり、じっと息を潜める伊勢の姿を幻視してしまう。伊勢の吐いた二酸化炭素を吸い込むことすら許されない気がした。それと同時に、己の吐く息すら伊勢に明け渡したくない。逃れられない呪縛を植え付けられそうだった。怖くて怖くて、慌てて毛布をかぶり直してその夜はそれっきり一度も、指先すらこの部屋の空気に触れさせなかった。皮膚の一ミリですら空気を共有したくなどない。腐食してしまいそうだ。
なんとなく、姿は見えないけれど、暗闇の中で伊勢が目をめいいっぱい拡げて、こちらを観察しているような気がした。
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