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第2話
* * *
「伊勢かあ、そんな奴には見えないけどなあ」
と、購買のパンをむぎぎと齧りながら曰うのは因幡の弁。とっつきにくい外見や言葉足らずな口調のせいで友達ができない壬生の、唯一の親友だ。
「むしろストーカーっぽくなりそうなのは、壬生のほうじゃね? 顔、怖いし」
「うるさいな。生まれつきこういう顔なんだからしかたないだろう」
壬生がいつも眼鏡の奥で瞳を眇めているのは、レンズの度が合わなくなってきたせいだ。彼の眉間にはいつだって皺が刻まれている。
一方、因幡は苗字から連想されるイメージの通り小動物然とした外見をしている上に、さっぱりとした明るい性格ゆえに交友関係も広い。校外の友人や県外の友人、果てはSNSで繋がった友人が世界にいるのだというのだから、壬生の理解が追いつくことは一生ないだろう。羨ましくもあり、そしてそのフットワークの軽さを不安にも思う。もしかしたら自分は、因幡の宇宙に転がる、ただ外周を通り過ぎるだけの砂粒なのではないのかと。
壬生は連日の伊勢の行動を、毎日因幡に相談していた。交友期間が長く、また壬生のまじめで冗談すら言わない人間性を信用しているのは因幡以外にはいない。ほかの人間に相談したところで、きっと伊勢の人当たりの良さとを天秤にかけて一蹴してしまうだろう。
「伊勢、めちゃくちゃ普通じゃん。むしろいい奴だしまったく想像できないんだよなあ」
「ほかの奴もきっとそう言う。でも、本当なんだよ。あいつは一体なんなんだ?」
「なんなんだ? って言われてもなあ。部活中も、別に普通だよ。というか、伊勢とお前が喋っているところ、見たことないんだけど」
伊勢と同じ弓道部に所属している因幡は、部活中もよく伊勢と言葉を交わすようだ。取り立てて彼がおかしな言動を取ったところも、ましてや彼の口から壬生の名を聞くこともないようで、毎度壬生が伊勢の奇行を報告するたびに怪訝そうに首を傾げる。
「だから、昼間は普通なんだって。おれだって、校内で喋りかけられたことはないよ。でも夜になって部屋に戻ると、いつもおれをじとーっと見るんだよ。変な目で」
「変な目ってなあ、伊勢はホモなのか? ありえないだろ。地味に女子にモテてるらしいじゃん。オーケーもらった子だって今までいるんだろ?」
「知ってるよ。だから気持ち悪いんだって、意味わかんなすぎて」
そこがまた壬生を悩ませているのだ。たしかに、伊勢は壬生に偏執する傍らで女子と交際していた時期もあった。どれも数日から数週間のうちに破局していたようだが、それが却って壬生を混乱させている。おのれで分析するのも気が引けるが、どうせなら恋愛感情を原因とした執着だと仮定したほうがまだ理解ができる。
「寮の部屋には、中央にカーテンがあるだろ? その隙間から、こう、覗くんだよ。で、気味の悪いことを喋りかけてくるんだ。何時間前から読書が進んでないだとか、何回ため息を吐いただの、ずっと監視しているみたいなんだよ」
「うーん」
パンのかけらを口に放り込み、因幡は唸る。
「でもさあ、伊勢と同室になってからもうさあ、二年ちょっと経つじゃん。なんで今更?」
そうなのだ。入学と同時に壬生は寮に入り、伊勢と初めて顔を合わせた。
はじめは、付き合いやすそうな奴だと思った。同室の奴が“普通”の奴でよかったと、ひそかに胸をなでおろしたことも覚えている。
「最初は良かったんだって。部屋に花を飾るような奴だったんだぜ? 今時、しかも男でそんなことするやつ、かなり珍しいだろ。やさしい奴なんだなって思ってたよ」
そこで区切り、壬生は唇を舐めた。こんなに饒舌に語るのははじめてのことかもしれない。
「でも、結局ほとんど会話しなかったんだよ、おれたち。正確には、できなかったっていうのが正しいのかも。あいつ趣味とかもなさそうだしさ。話しかけようにもとっかかりがなさすぎて、ぜんぜん」
「はぁ、そうなの?」
初耳だ、と因幡は目を見張る。
「いや、はじめて相談した時に言っただろうが。全然親しくないのに執着してきてヘンだって」
そうだっけ、と無責任な相槌が返され、壬生は因幡の肩を軽く小突いた。
こんなくだけたやり取りができるのも、因幡だけだ。
仲良くできるかも、と前向きに思っていた伊勢への第一印象も、入学してはじめての桜が散るころには消え失せていた。そもそも根本的に、壬生は人と打ち解けることができないのだ。それこそ因幡とは小学校から続く唯一の友人であったからこそ、こうして惰性的につるめてはいるが、高校へ上がって周囲の学友たちの精神構造が大人び、かつ狡猾になっていくのを感じ取ってからは、より一層友達作りにネガティブになっていった。
単に、壬生が周囲に対して勝手な隔たりを感じていただけかもしれない。それなりに思春期や反抗期もあるけれど、壬生の精神構造は常に一貫していた。その日その日の気分、感情でつるんだりつるまなかったり、嫌ったり好いたりといった周囲の流れについていけなかったのだ。十代のあやうい年頃にしては、あまりにも愚直すぎた。
壬生は、向こうからぐいぐい踏み込んでくる人間でなければ、素直に心を開くことができない。どう相手のこころに飛び込んでいいのか本当にわからないのだ。遠慮しすぎるきらいもある。因幡はその点、実に相性が良い。
そして伊勢は、飛び込んできてくれるタイプではなかった。どちらかと言えば壬生と同じ受け身の性質であったし、明らかに上辺だけの会話をしているのが手に取るように分かった。こころの機微の流行には鈍感なくせに、そういったことには敏感なおのれが恨めしかった。ひとの感情はむつかしい。一度失敗してしまえば、二度めはない。さよならされる。だれかと深くこころを通わせることが苦手なくせに、だれよりも繋がりを渇望している。難儀だった。
とにかく、出逢ってからしばらくの二人はよそよそしく、言うなれば“レベル1”の関係を続けていた。
そんな調子で秋を迎え、その頃にはついに壬生たちの間には分厚いカーテンが引かれるようになった。
買ってきたのは壬生の方で、カーテンを取り付ける旨を伝えたところ、伊勢は人のいい笑顔を見せながら、
「そうだね、それがいいかもね」
なんて、人の良さそうな顔で笑ったのだ。
そのとき、少しだけ壬生の胸に罪悪感が生まれたことをなぜだか今でも覚えている。
二人部屋で間仕切りをするのは誰もがやっていることであったし、実際はじめから部屋にはレールが設えてあったのだ。何も悪いことをしているわけではない、やましくはない、だけど、どうして罪悪感が芽生えたのか―――――。
そしてその日の夜からだ。
伊勢が昏い瞳で、カーテンの隙間から、壬生の領域を覗き始めたのは。
* * *
ふう、と重く長いため息を吐く壬生に、因幡は再度唸る。
いつの間にかすっかりパンを平らげてしまった彼は、ごみを片付けながら勝手に総括を始めた。壬生は素直に耳を傾けた。
「こう言っちゃあなんだけど、俺には伊勢がそんな奴だとは、やっぱり思えないんだよなあ。想像ができん。かといって、壬生が理由もなく人を貶すようなウソを吐くなんてありえないだろ。そうだなぁ、こう、なにかすれ違いになるようなきっかけがあったんじゃないのか? それがないならやっぱり……」
妄想じゃないのか?
茶化しているふうでもなく、真剣なまなざしで因幡はそう言い放った。
「な、なんだよ、それ……」
「落ち着けって。何度も言うけど、俺は壬生がウソをついているとは思えない。おまえが正常で、妄想を見てるとも思えない」
何度めかになる明言。唯一信頼している友人からの否定に気色ばんでいた壬生もひとまず溜飲を下げ、殊勝にうなずいた。不安げに瞳をゆらしてことばを待ち続ける壬生に、因幡はニカっと太陽のような笑顔を向ける。
「だから、今夜その変態行為の証拠を掴もうじゃないか」
心なしか楽しそうに見えるのは、気のせいだろうか。
ふわり、真っ白のカーテンが揺れる。桜が舞う薫りとはためく布に、悩ましい夜を思った。
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