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第3話

   *   *   *  寮住まいの許可が降りる者はそう多くない。まず実家が県外であること。そして日々の通勤が限りなく困難な者であること。試験時に一定の点数を超えられた者。品行に問題がない者。ごく一部を切り取っても多数の条件をクリアしなければならない。マンモス校として母数が大きのだから当然だろう。しかし、そもそもベッドタウンに建てられた学校なので、大抵の学生は近くのマンションに家族と暮らしている。寮など必要あるはずもない。条件を付けずとも入寮を希望する者はさして多くないのでは、と今では思う。それなりに歴史の長い学校であるから、もちろん今とは事情もことなるのだけれど。  そして因幡陽太朗もまた、壬生と同郷であることからも窺える通り、それら尽くの条件をクリアして入寮した者のひとりであった。とくにやりたいことも将来の夢もまだない因幡は、なんとなく親元を離れて自由気ままに暮らしてみたかったのもあったし、寮というのも面白そうだという安易な理由で壬生とおなじ高校を受験したのだったが、これは正解だったと今では確信している。壬生はおもしろい。常に不器用の最前線を踏破していく様を見るのは、微笑ましく、そして危なっかしく、自分が面倒を見てやらないとという妙な庇護欲すら抱かされた。  後付けで建てられた寮は、古めかしい巨大校舎とは打って変わり妙に近代的だ。そのアンバランスさは一種異様な雰囲気を醸し出している。深い黒色の結晶ガラスで誂えた外壁は常にうっすらと湿って見える。夜に沈めば、外観の輪郭すら闇に溶けてしまう。  因幡はどんよりと落ち窪む寮を見上げ、緊張と高揚に身震いした。奇しくも歪に肥えた月が空の天面にさしかかったところで、熟れた黄身のような月が建物に覆い被さろうとしていた。  今夜は重大な任務がある。  伊勢捕物劇だ。因幡の胸中は、もちろん友への純粋な厚意で満たされている。しかし、頼もしく啖呵を切ったものの、夜が濃く、影が重なっていくにつれどんどん意欲は沈み、暗澹たる恐怖がじわりと胸を染めていった。あまりにも親友が悲痛な表情をするものだから、つい調子の良いことを口走ってしまった。〝後悔”と言っても差し支えないほどの、うしろ昏いきもち。  因幡はひとつ、壬生にウソをついている。  伊勢と因幡、両者のあいだで壬生の話が出たことがないというのは、間違いだ。一度だけ、伊勢と壬生について話をしたことがある。部活中に駄弁るような、間を繋ぐためだけの声の連なり。同室の奴はどんな感じなんだと、ただそれだけの会話だった。入学したての初夏の頃だった。そのときはまだ、壬生と伊勢が同室なのだとは知らなかった。  伊勢は因幡の上辺だけの話題に、ヘーゼル色の虹彩に溌剌と芽吹く夏の新緑を映しながら、 「かまい倒して嫌われたくなるほどかわいい人なんだよ」  と、恋する表情でうっとりと瞳を細めたのだった。  その時は「どういうことなんだよ」なんて茶化して笑いながら肩を叩いたものだが、同室の者が親友だと知ってしまったとき、因幡は先の伊勢の瞳を思い出し、血の気が引いていくのをはっきりと感じた。  あの時の伊勢のうっとりと、多分に甘い吐息を孕んだ声音。あれは一種まがまがしいもののように思えてならなかった。  親友が、なにか得体の知れないおどろおどろしいものに籠絡されるかもしれない。薄寒いものをきちんと感取しながらも、因幡は瞳を閉じ、耳を塞いだ。  きっと、そんな凄惨な未来はやってこない。  やってきたのだとしても、いざとなれば助けてやればいい。  因幡は人が怖い。期待されるのが怖くて仕方がない。期待に報いることができなかったときの失望が怖い。一気に引いていく人の波が怖い。だから因幡は肝心なところでいつも事なかれ主義を貫く。それが爛漫に人々の間を渡り歩く彼のなかに眠る、最大にして最低の悪癖だった。 (壬生、助けてやりたいよ……)  因幡は何度もそうしてきたように、瞼を下ろして漆黒のカーテンをかけた。  親友を助けてやりたい。  だれか、救済してくれ。  因幡は頭を垂れて黒い闇に祈りを捧げた。    *   *   *  今夜は、熱帯夜かと思うほどに暑い夜だった。壬生は汗ですべる眼鏡を何度もかけ直し、そのたびに時計へと目を走らせた。  むせ返るほどに香る花々。頭がおかしくなりそうなほどに湾曲する虫の大合唱。羽虫が無遠慮に激突しては墜死していく窓格子の向こう側、巨顔の満月が悠々と夜に横たわっている。錆色の光暈がぬめる夜気にぼんやりと浮かんでいた。  光、風、虫、月、夜を構成するそれらすべてが常軌を逸した夜だった。壬生は着ていた長袖のシャツを脱ぎ捨て、半袖に着替える。冬布団が汗で少し湿っている。  因幡の計画はこういうことらしい。  伊勢が何かしらの行動を取った時点で、壬生は因幡へメッセージアプリからヘルプを送る。そして扉の向こうで待機していた因幡が部屋へ踏み込み、伊勢は敢えなく御用というわけだ。鹿爪らしく“計画”と言うにはあまりにも稚拙で単純すぎる思いつきだが、現行で伊勢の奇行を証明できるならこの上ない。因幡が妙にやる気なのは面白くないが、この際だ。どうせ小心者の壬生ひとりではなにもできない。すこしでも何かが変わるなら、それでいいと慎ましく思っていた。  じめっとした布団で身を固くしながら、壬生は瞳孔ごと瞳をかっと拡げ、カーテンの向こうの気配を探った。  そのまま数十分が静かに過ぎた。相変わらずじわじわと蝕んでくるような虫の絶叫と、不気味に大きな満月の架る窓の下、壬生は息を殺し続けていた。  カーテンの向こうの息遣いを、耳をそば立てて聴き取ろうと躍起になる。いっそ、覗いてしまおうか。カーテンをちらりとめくり、彼の領域を覗いてしまおうか。    ――――、それでは伊勢と同じになってしまう。    覗かれているようで、その実はこちらの方が覗いているのだ。なにかの哲学書にそういった類の名言が記されていた。本末転倒だ。べつに、伊勢を監視したいわけではない。冷静になれ、と深呼吸をする。  そしてまた更に数十分、今夜は不発だとでも思ったのだろう、因幡は諦めて自室に帰ることにしたようだ。消灯時間を過ぎた寮内をいつまでもうろうろとしているわけにもいくまい。『そろそろ部屋に戻るわ』というメッセージに、すまんとだけ返してスマホを枕元に投げた。  うとうとと、あいまいな眠気が襲ってくる。今夜は珍しく、混乱のない静かな夜だった。どうしてか、残念な気持ちになる。 (残念……?)  ――――なぜそこで残念がってしまうのか。今の気持ちは確実に、伊勢の奇行を暴けなかった残念さではなかった。ただ純粋に、彼がこちらを蔑ろにしたような、置いてけぼりを食らったようなそんな喪失感だった。一度自覚してしまえば、坂を転がる雪玉のように肥え膨れていく。残念だ、とたしかに明確に、こころが鳴いた。  動揺し、重く閉じていた瞳を開く。ふと部屋の中央をまたぐカーテンに目をやり、壬生はぎょっとした。    伊勢が、見ている。   「うわっ、お、お前……!」  バクバクと心臓が暴れる。反射的に飛び起きると、急激な筋肉負荷に脚が攣りかけた。一切の感情を感じさせない無表情の伊勢は、怯える壬生に淡々とした低い声を吹きかける。 「因幡くんは帰ったみたいだね。足音がしたよ」  聞き間違いかと思った。瞠目する。どうして伊勢が、今夜決行する筈だった計画を知っている? 「壬生が風呂に入ってる間に、スマホ見ちゃった。パスワードに誕生日を設定するの、やめたほうがいいと思うよ」 「は……っ、なん、どういう……」  は、は、と短く息を吐きながら、ろくに意味をなさない声をこぼした。一方的に齎された情報と恐怖に、頭の中がぐちゃぐちゃに絡まり全身が総毛だつ。大きく左右に瞳を揺らして必死に言葉を紡ごうと喘ぐ壬生に、しかし伊勢は何も言わない。ただ無表情に、ぼうっと暗闇にいるだけだ。 「え、どうし、なんで? ……なんで?」  不気味な沈黙を補うように、意味をなさぬ疑問をまくし立てるが、不安が何乗にも倍増していくだけだ。  伊勢は、壬生がいないときにカーテンを越えてこちらに侵入していた。  不可侵であったはずのカーテンは、もはやただの布へと退化してしまった。静謐の皮を剥がされてしまった。堕ちたのだ。ただの布だと思えば、不落の城壁がごとく頼もしく見えていた布も、異様に粗末なものに見えた。そもそも、いつからただの布を絶対防衛の境界線だと信頼してしまったのか。  おそらくは、決して伊勢がカーテンを越えてこちら側へと侵入してこないからだろう。  目に見える『境界線』を、伊勢によってすっかり刷り込まれてしまっていた。いつだって伊勢はカーテンの向こうからこちらへ言葉を投げかける。越える素振りもない。それが当たり前だった。騙されていた。洗脳されていた。きっと自分が不在の時だって、伊勢はカーテンを越えないはずだ。己が部屋に存在しようとしなかろうと、不可侵は不可侵のまま機能していると思っていた。いや、思わされていた? 完璧なる刷り込み。言葉もなく感化されてしまっていた。マインドコントロール。これは伊勢の計画だ。  ――――ならば、それならば、  たとえば壬生が眠り込んでしまった時。  伊勢は、カーテンを越えたか? 「い、嫌だ。伊勢、伊勢!」  シャッ。カーテンが閉まる。伊勢は暗がりへと消えた失せた。また置き去りにされた。同じ空間にいるのに、酸素と二酸化炭素を共有しているのに、こんなにも通じ合えない。理解ができない。させてもくれない。  暗闇にぼんやりと浮かび上がるボロ布が、今度は分厚い鉄板に見えた。こころのありようで、こうも変わるのか。 「いやだ、もう嫌だ……」  いつの間にか巨顔の月は通り過ぎていた。  深、と静まる夜に、壬生のすすり泣く声がしとしとと降る。  横たわる闇夜は部屋いっぱいに増殖し、そして根を張り続ける。呼吸が尽きるそのときまで。  

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