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第4話
* * *
「おはよう、壬生」
ホームルームが終わると同時に、因幡がいつものようにしゃべりかけてきた。
「あれからどうだった? 伊勢は」
「んー? ……うん」
壬生はぼんやりと頬杖を突いてだるそうに因幡を仰ぐ。その薄い下まぶたには痛々しい隈が出来ていた。充血した瞼縁は赤く腫れており、憔悴をありありと浮かばせている。
「なぁおい、大丈夫かぁ? 昨日はなにもなかったんじゃないのか? なぁ、どうなんだよぉ」
壬生は声を発するもの億劫なのか、ただうつろに視線をさまよわせた。どんよりとした眼球は、まるで死に体の魚のようだった。びくんと因幡の華奢な体が強ばる。
「どうしたんだよぉ、みぶー」
これはただごとではないと悟った因幡は、阿るように壬生の腕を揺すって泣きそうな声を出す。みぶ、みぶみぶみぶと無意味になまえを連呼する。こうすると大抵、壬生は煩わしそうに相手をしてくれるのだ。そしてその道化で鬱屈とした壬生の精神を現世に引き寄せることこそが己に与えられた役割なのだと、因幡は信じている。
「何もないよ。ただ、いつも通りだ。伊勢も、いつも通りだった」
因幡の予想通り根負けした壬生は、ようやく重い口を開いた。鼻声のそれはひどく弱々しい。
「それって……、やっぱりまた覗かれたってこと?」
因幡が眉根を寄せる。痛ましげな面持ちを向けられ、むしろしゃんとした。底抜けに明るくて弾けるように笑う友人の笑顔を憂惧なんぞで曇らせてはならない。
壬生は霞がかる頭を振る。しゃんとしなければ。怯えて呆けている場合ではない。
「……ああ。知らないうちにスマホの中身も見られていた。昨日の作戦も、ばれていた」
「えっ!?」
因幡は溢れ落ちそうなほど目を見開き、唇を震わせて絶句した。壬生の腕を揺すっていた手が、今度は縋るように服の袖を硬く掴む。
「な、なあ壬生、ちょっとそれ、ヤバくないか? どうする、もうさ、先生でも寮長にでも言おうよ。証拠がなくたってさ、言おうよ。こんなの普通じゃないって。俺たちの手に負える問題じゃないよ」
必死に言い募る因幡の熱弁を煽るように、開け放たれた窓から吹き込む春の嵐とともにカーテンが舞踊った。彼のことばの深刻さと裏腹にたゆたう布の優雅なこと。
(布。白い布。……白い布を越えたら……)
頭の中でどんどん布が増殖していく。それらは午後の日差しをたっぷり吸い込んだようにまっしろに光り輝き、点滅し、時にはひるがえって踊り狂う。急に頭のなかがクリアになる。白飛びする。光が。白い光。きらきらと。布。布が――――。
あ。
まっしろい布が、眼前にまで迫ってきて。
布の塊は。布が。
壬生に覆い被さる。
壬生はふいに爽やかな気分になり、さてなあ、と困ったふうを装った。
「なあ、ところであいつは……」
「ん?」
「あいつは、弓は上手いのか?」
一瞬、因幡の表情が強張った。この事態になって突然なにを言い出すのか、因幡の困惑はなまぬるい春の風とともに壬生へと伝達する。
「どうしたの、突然……」
「そういえば、おれ伊勢のこと何も知らないんだよなあって。おれのことは全部あいつに筒抜けなのに、それってずるいよな」
因幡は唾を飲み込む。知らずに一歩、後ずさっていた。
しっかりと対面しているはずなのに、因幡は壬生と視線があわなかった。それがとにかく恐ろしくて、見ていたくないのに視線を剥がすこともできなかった。視界から外してしまえば、監視をしていなければ、見張っていなければ、目の前の友人が得も知れぬ不気味な怪物として具現してしまいそうな気がしたのだ。
「おれは伊勢の誕生日も知らない。伊勢のパスワードを解くヒントを、ひとつも持ち合わせていないんだよなあ。知ってることなんて、顔と名前くらいだぜ、おかしいよ。どうしておれのことは筒抜けなのに、同じ部屋なのに、カーテンが閉まっているのに、一方的なんだ。おれが覗いたっていいよなあ。おればかり覗かれて、おれは、おれはなあ……。伊勢は卑怯だ。おればかり伊勢に怯えて、おかしいよなあ、そんで――――、」
うらやましい。そう言って壬生は陽気に綻ぶ花のように笑った。
表情だけは今までに見たことのないほど清々しく晴れ渡っているのに、すべてを諦めたような、どこか正気が爛れ腐ってしまったかのようなか細い笑い声。その瞳に暗い闇が渦巻いているのを見止め、因幡は差し伸べかけた手を引っ込める。
これはもう、きっと、たぶん、手遅れだ。
昏く、穏やかに笑む友人の姿をした何かを見つめ、因幡は木乃伊取りの逸話を思い出していた。
* * *
「伊勢、少しいいか」
消灯時間ぎりぎりの暗い寮内で、因幡は寄りかかっていた壁から身を離し伊勢を引き止めた。
「どうしたの」
伊勢はまるで呼び止められる心当たりがないと言わんばかりに、白々しく首を傾げた。かしげる角度に合わせて、白い頬の上で切りそろえられた黒髪が流れた。青みがかった黒髪は、弓道着の上衣がよく似合う。
同じ部活動に所属しているとはいえ、弓道部は強豪で在籍人数も他の部より多かった。自然と顔を合わせない部員も多くなる。伊勢をこうして真正面から見据えるのも、おもえば初めてかもしれない。
伊勢は比較的彫りの深い顔立ちをしているが、異様に白すぎる肌が相貌や鍛えられた体躯から受ける快活さをおぼろにぼやけさせていて、妙な違和感が残る。整った顔立ちや髪と肌の対比、それらは鮮烈なのに、不思議なほどに記憶に残りにくい。そんな印象を受けた。
因幡は一度だけ強く瞬きをして、口火を切る覚悟を決めた。
「壬生のことだけど」
反応はない。唇を舐めて続ける。
「あいつ、完全に参っちゃってるんよ。アンタのことで」
声の震えをどうにか押し殺して言うも、伊勢は傾げた首をそのままに瞳だけで因幡を捉えている。感情がまったく読めない。
「……だから、部屋替えの申請が通るまで、俺の相部屋の多崎ってやつが208号室に泊まるから」
208号室とは、伊勢と壬生に振り分けられた部屋番号だ。部屋替えの申請はまだしていないが、明日にも付き添って壬生に手続きをさせるつもりだった。
これが臆病な因幡にできる、唯一の方法だった。
自分の力ではどうすることもできないと自覚しているから、とにかく伊勢から壬生を隔離する。浅薄は男子高校生にはそれしか考え付かなかった。
伊勢は因幡の内情を見抜いてか、底抜けに白い相貌の赤い唇だけで笑みをこぼした。明らかな嘲笑だった。
「別に、いいけど」
――――どうでも。
カッと頭に血が昇った。
「お前なぁ!」
両手で襟首を掴み上げるが、身長差のせいで伊勢の体は微動だにしない。その事実がまた因幡の怒りに油を注ぐ形となり、衝動のままに燃える頭を伊勢の細い顎に思い切り叩きつけた。
「イッ、でぇ……ッ!」
ガチンという音が廊下に響いた。さすがに伊勢は涼しい顔を取り繕えず低くうめき、よろよろとたたらを踏んだ。
「……クソッ! お前が、おまえが壬生にひどいことさえしなけりゃ、こんな……」
灼熱の焼石でも飲み込んだかと思うほどにみぞおちが熱い。行き場のないアドレナリンにぐらぐらと視界が揺れる。激情は涙となって瞳から溢れた。もはや己の浅慮に苛ついているのか、飄々とした態度を貫く伊勢に憤っているのか判別がつかない。
ただ、ただ壬生の顔だけが浮かんで、怒りの裏には地面が崩れ落ちていくような虚脱感が存在していた。
「……ってて。あー、一瞬あたま真っ白になったぞ」
伊勢は眉根を寄せ、顎を押さえたまま何度かかぶりを振った。脳震盪、後遺症、という考えがふとよぎり、先までの激情はどこへやら、因幡はさっと血の気が引いていくのを明確に感じた。
「あ……」
「おれは」
透明な声。ハッと顔を上げる。
いつか見た伊勢のヘーゼル色の瞳が、煌めく新緑ではなく青褪めた因幡の顔を呪いのように映していた。
「おれは別に壬生なんてどうでもいいよ。どうせあいつはもう、手遅れなんだし」
「手遅れ……?」
ぎくりとする。心当たりがあるどころか、因幡ですらたしかに今日、感じていたのだ。
壬生はもう……。
「そう、手遅れ。すごいよな、人間って。たかが布一枚に囚われてさ」
「そんな、他人事みたいに言うなよ! 壬生はおまえのせいで……」
「おれのせいじゃないよ」
曖昧に首を回していた伊勢が、はっきりとした口調で鋭い声を飛ばした。肩が跳ねた。
「おれのせいじゃない。布がおかしくさせるんだ。壬生も、おれも。ぜんぶ、あの布のせいだよ。あんな曖昧な境界を敷いたから……」
伊勢はそう言うと、話は終わりだというように曖昧に笑い、立ち尽くす因幡と袖同士が触れそうなほどの近くを通り過ぎた。残り香の石鹸がむなしい心にいやに沁みていく。
(布が……)
教室で、濃い隈を拵えた壬生がどんよりとした魚の瞳でまっしろいカーテンがたなびくさまを見つめていた光景を思い出す。慌てて瞳を閉じて薄気味の悪いビジョンを打ち消した。
しんと静まり返る暗い廊下で、非常口を示す緑色のライトだけが煌々と息づいている。
己の浅慮に苛立っているのか、それとも伊勢の飄々とした態度に憤っているのか、もはや己自身でも判別はつかない上に、この気持ちに整理がつく日が来ることがないことを心のどこかで理解していた。
ただひとつ、四方を暗闇に取り囲まれては白布に翻弄され続ける寮内で、伊勢だけは正気の目をしていた。
因幡はしばらく深々と照る非常灯を見つめていたが、やがて諦めたように歩き出し、そして二度と振り返ることはなかった。
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