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第5話【終】

      *   *   *        浸食されている。  絶対不可侵の領域など、この部屋の中にはない。  少し欠けてしまった月は相変わらずの巨顔で夜空に寝ていたし、じわりとまとわりつく不快な春夜も壬生のこころを濡らすように侵していた。しかし、それが心地よく感じるのはどうしてだろう。ひたひたとした暗闇、寮の上にひたひたと降り注ぐ夜。夜は液体だ。どこまでも侵入しては隙間を埋めていく。こころも、建物も、肺も、どんな間隙すらもぴったりと塞いでしまって、なにかもかもを殺してしまう。希望ですらも。恐怖ですらも。    窮鼠は獅子奮迅し、大猫を呑む。恐れなどない。    伊勢との間に境界を設けてからはじめての平穏。覗かれる側から、覗く側へのシフト。一方的な蹂躙からの解放に、壬生は濁った瞳を細めて笑んだ。 「伊勢ぇ……」  真夜中をこっこと刻む秒針に交じり、低く甘い声がこだまする。  一切の反応を示さぬ伊勢の領域を睨み、壬生はカーテンに手をかける。緩慢な動作で指が布のひだを掴む。引く。暴いていく。領域を突き破り、伊勢の内部へと足を踏み入れる。  こちらの気などつゆ知らず、素知らぬ素振りで小さなベッドライトを頼りに、うつ伏せに寝転んで小説のページを繰る伊勢の姿があった。はっとしたように振り仰ぐ表情には、珍しく年相応の狼狽が見て取れた。 「壬生……?」  ゆらり、彼が上半身を持ち上げる。ぬるりと動くさまは猫か、はたまた蛇のようであった。 「呑気に読書か。どうして今夜は監視をしてこないんだ?」 「あ? ……珍しいな。お前のほうから話しかけてくるなんて。いつ以来だろうな」  気だるく髪をかく伊勢の上に跨り、壬生はおのれの眼鏡をそっと外した。安価なスプリングが引き攣るような悲鳴を上げた。  視力補正のないぼやけた視界でも、伊勢の不可解そうな表情が視える。飄々とした薄ら笑いの中にも、ほんのわずかに困惑の色が滲んでいることに気付き、大声で笑いたくなった。愉快だ。こういう気持ちを伊勢は一人で噛み締めて遊んでいたのか。  ひとを脅かす気分は、こんなにも愉快なのか。 「見られたくなかったら、おれがずぅっと近くで、もっともっと近くで、お前を見ていればいいんだな」 「……?」 「近すぎるものは、見えないからなあ」  唇が触れそうなほどに顔と顔を近付ければ、ようやく伊勢が眉根を寄せて身じろいだ。不快を露わにすがめられた瞳は、同時に侮蔑と諦観を孕んでいた。ふう、と小さく漏らされたため息が唇を甘くくすぐる。ぶる、と背筋が震えた。  「壬生は、……俺の傍に居たい? ずっと俺の目の届く範囲に、居たい? 居られる?」  伊勢が口を動かすと、わずかに唇同士が触れ合った。かさかさした唇の表皮。決してキスと表されるものではない。ただ、唇の表面が小さく擦れあっている。枕元に突いた壬生の手首に、伊勢が触れる。死体のように冷たく、妙に物質めいた手だった。 「伊勢。伊勢、逆だよ、おれの視界にずっと伊勢を入れ続けるんだよ。お前が主体じゃない」 「……俺からしてみれば、同じことだよ」  ふっと、見下げた先の伊勢が笑う。 「違うよ。ぜんぜん違うよ。伊勢ぇ、だってこの世界はおれが視てるんだもん、主体はおれだよ。おれが主体だよ。だからもう、いらないよね? カーテン、必要ないだろ? 俺たちはコソコソ覗かなくたっていいんだよ、もういいんだよ伊勢」 「……いい加減、退いてくれないか」  苛立ったように、手首を掴む指に力が込められた。伊勢の握力によって血流がわずかに滞ることすら愛おしい。 「カーテン、仕舞おう。布団もくっつけようか。スマホも共有しよう。風呂も一緒に入るし、入室も退室も絶対絶対、絶対に一緒にしよう。そしたらもう覗かないくていいし、ね? 覗かないだろ? だよね? あ、でももう覗かれてもいいのか。おれが伊勢を見てるし、それなら、覗きにはならないか、おれ、だってずっと伊勢のこと見張ってるし」  べらべら、舌がよく回る。あれこれいろんな事が浮かんできて、はやくそれを伊勢に伝えなければと力むほど、どんどん取り止めのない言葉があふれ出る。あれも伝えなければ、これも伝えなければ、細切れの情報が錯綜し、伊勢の顔面に降り注ぐ。相槌すらいらぬ。呼吸もいらぬ。ただ喋る。舌を回す。息継ぎすら忘れるものだから、ただ喋っているだけなのに壬生は大きく息を荒げ、はぁはぁと痛々しく眉根を寄せていた。伊勢の表情がどんどん苛立ちに支配されて歪んでいってもなおことばを連ね続ける。 「おれっ、将棋部も辞めるよ、辞められるよ。あぁそうだ、いっそ弓道部に入ろうか。そしたらずっと見られるもんね。ね。おまえのこと、ずっと見ていられるよね!」 「……………………」 「おれっ、おれはね伊勢、おれ、おれは……っ!」  ぜえぜえと喘ぐ壬生の肩に手を置き、伊勢は無感動にぐいと押しやる。 「もう、いい」 「え?」 「そういうの、いいから。俺を受け入れる壬生なんて、俺の好きな壬生じゃない」  眩暈がした。 「好き、じゃない……?」  ぐらりと傾ぐ身体を、伊勢は支えてもくれない。ただ冷めた目で、弛緩しきって覆いかぶさる壬生の肩を押しよる。なんで、と顔だけを伊勢に向けると、そこにはひたすらに冷たい視線があった。はっきりとした、絶対的な拒絶。お前にはひとひらの価値もないのだというような、そんな目。 「い、せ……」  壬生はそろそろと力の入らぬ体を起こし、首をこてんと傾げる。目を泳がせ、何かを必死に思案している。やがて困ったようにへらりと笑い、うそだよね、といやに明るい声を出した。 「伊勢が、そんなこと言うわけない。だって伊勢はおれに執着して、今まで覗いてたんだもんな。はは、な、なんで急にそんなことを言うのかな、はは。だ、だってさ、だって毎日覗いてきたじゃない、見てきたくせに。毎晩見てくるくせに、おれを見るくせに」  こめかみがキュウと痛んだ。手のひらで押さえてもまったく治らない。  いたい、痛い、痛いよ伊勢。  「……うそだよね」  最後の虚勢。最後の笑顔。伊勢はもう壬生のことなんてまったく見ていなかった。痛い。あたまが、痛い。 「俺の好きだった壬生は、こんなのじゃない。もういらない。もう壬生はいらない」 「……、うそ、だよね」  今までさんざん窮追してきたくせに。  今までさんざん暴いてきたくせに。  今までさんざん瞳で嬲ってきたくせに。 「うそだよね」  見てきたくせに。観てきたくせに。視てきたくせに。こころまで、思考まで、見てきたくせに。  殺さなきゃ。  おれを見てくれない伊勢なんて殺さなきゃ。  痛い思いをさせれば、強烈な痛い思いをさせれば忘れられなくなるかもしれない。必要のない瞳なんてむしりとってやろうか。いっそ体内にでも飲み込んでしまえば、もう見るだの見ないのだので気を揉む必要もなくなるだろうか。ハサミ、そういえば机にハサミが、あった、きが、する。  なにか薄暗いものに背中を押され、伊勢にありったけのどろどろとしたマグマめいた殺意を向けた。ぎらんと、こぼれ落ちそうなほどに見開かれた壬生の瞳が光を帯びた。 「あ……」  しかし、壬生は立ち上がることができなかった。  心の底から憐憫。それが伊勢の瞳から一身に放たれていたのだ。憐れみの視線で射抜きながら、壬生の頬を撫でる手つきは穏やかだ。。穏やかだからこそ、もう繋ぎ止めるものは何もないのだなと理解することができた。  瞬きを忘れた瞳から流れる涙の粒が、顎から滴って墜死する。 「壬生の代わりに怯えてくれる人間なんて、たくさんいるんだよ」  と、伊勢は今まで聞いたこともないほどに優しい声音で諭し、そしてそれとは裏腹な、ひどく冷たい動作で壬生の肩を力強く押しのけたのだった。        *   *   *    重苦しい春の曇天からの、卯の花腐し。  花どころか、あらゆる生物を腐らせてしまいそうな生温い雨が硝子窓を伝い流れる。一時期、やたらと酸性雨ということばを聞いたような気がするが、最近はめっきり騒がれなくなってしまった。それよりも危ういのは、こういったこころを腐らせるなまあたたかい春の雨だと人々が気付きはじめたからなのだろうか。とにかく、ただひたすらに気が滅入る。  日直の仕事で提出用紙を片手に奔走していた因幡はようやくの昼休憩に移ることができ、うんと大きく背伸びをした。春の長雨は体すらも蝕む。陰気に丸めていた背中の筋が痛む。腐食してしまったかもしれない。どこにいようが何をしていようが、ザアザアと鬱陶しい雨音が耳を衝く。鉄筋コンクリの校舎に反響し、骨まで伝いくる。  あれから壬生の口から伊勢の奇行を聞くことはなくなった。無感動に、 「ああ、あれね。全部おわったよ」  と、あっけらかんと言い放つ壬生に昏い影は見当たらなかった。それどころか、笑顔すら増えて以前よりも溌剌としているように見えたのだから因幡は内心混乱していた。まさか本当に、異常ともおもえた二人の関係性がすっかり精算されてしまうとは。まさに今までのことはすべて白昼夢だったのではないかと思うほど、呆気ない幕切れであった。すくなくとも、因幡にとっては。  因幡とて一度は伊勢と衝突したのだから気まずく思うことはあったのだが、部活動で顔を合わせても伊勢はまったく意に介していないようで、爽やかに挨拶をしてくるほどだった。最初こそ警戒していたが、いまや因幡は笑顔で手を上げて挨拶に応える。捩れが修正されたようにして、平穏な日常は突然に訪れた。    ただ、もちろん気になることもある。  あまりマメにメッセージなどを確認せず、スマホを充電せずとも五日は乗り切れると豪語していた壬生が、逐一端末を確認しては一喜一憂していることがまずひとつ。因幡がいったい何を見ているのかと問えば、メールだよという曖昧な回答で濁されてしまった。不精な壬生が珍しいなと思い、いや、むしろ不穏な空気を無意識のうちに感じ取ってか、出来心で画面を覗いたことがある。その時ちらりと見えたメール受信箱の一覧、そのどれもがタイトに、“Re”ではなく、“Fw”と付いていたのが少し引っかかったことを覚えている。どこかから転送されてきたメールを熱心に、偏執的に見つめ続ける友人がまだ狂気の檻に囚われているような気がしたのに、因幡はやはり声をかけることができなかった。またもや逃げてしまったのだ。  そして、ついに壬生は将棋部を辞めてしまった。大学に進むため、勉強に打ち込むためだと彼は説明したが、その割にはいつまでも放課後になると弓道場の周りをうろついている姿を目撃した。フェンス越しに、どろどろと燃えたぎる夕焼けを背負う壬生は、さながら亡霊のようだった。その呪いともいえる視線を浴び続けてか、伊勢も後を追うようにして弓道部を退部してしまった。エースを失った部活は穴を埋めるように因幡が活躍できたけれど、落日を止めることはできなかった。      昨日はオムライスを食べたから、今日は唐揚げ定食にしようか。食堂へと向かう道すがらに空想の献立を吟味していると、前方に壬生の猫背が見えた。壬生はこのあいだ、鯖煮と鶏の照り煮で迷い果てたすえに鯖を選択していたから、鶏を注文して彼に分けてやってもいい。因幡はそんなことを考えながら、楽しげに壬生の後ろ姿を追う。  ここ最近はまともに壬生とゆっくり喋る暇もなかった。部活動が忙しくなったこともあるし、ただ単純に因幡が気まずさを感じていたのもある。亡霊のように校内を徘徊する友人に、こころのどこかで気味の悪さをかんじていたことも起因しているかもしれない。ありていに言えば、やんわりと避けていたのだ。だ。もちろん壬生も、因幡の微妙なこころの変化に気付いてか、よそよそしい態度を糾弾したり、あまつさえ理由を問うてくることもなかった。それが壬生なりのやさしさだと捉えるべきか、それとも友人のことをすっかり忘れ去ってしまうほどに鮮烈なこころの変化を迎えたキッカケがあったのか――――。なんにせよ、因幡がいくら臆病で問題を直視することを避ける傾向にあろうが、友を案じる気持ちに嘘偽りはなかった。  今日こそ、逃げずにしっかりと壬生に向き合う。  友を蝕む因縁も、悔恨も怨嗟も、何時間かかろうが何日かかろうがしっかりと吐露を噛み砕いて受け入れる。因幡はそう決心していた。 「おぅい、壬生! 俺、今日は鶏照りにするけど、お前は――――」  ふいに食堂の入り口で立ち止まる壬生に追いついてその肩を叩くと、彼は深爪気味の親指を噛んで眼前を睨んでいた。爪を噛むカシカシという音が、激しい雨音と混ざり合い昏く、昏く鼓膜を刺した。 「みぶ……?」 「もう見つけてる、おれの代わり、おれの方が――――、あんなのより、おれの方が」  ふうふうと息を荒げながら血の滲む指先を噛みしめる。 「壬生、なに、どうしたの、なに? 何かあ――――、あ」  壬生が震えるほど睨み付けている先には、伊勢の姿があった。まっしろい顔に、青光りする黒髪がさらさらと揺れている。  因幡はぎくりと足を止め、交互にふらふらと二人を見やる。伊勢は弓道部のとある上級生の向かいに座り、彼が怯えた表情で黙々と昼食を食べるのをうっとりと眺めていた。時折なにか言葉を漏らすように唇を動かしているが、上級生は青ざめるばかりで返答をしない。はたから見ても異様だった。何より不可解なのは、伊勢の前に食器が見当たらないことだ。食堂で、食事も摂らず、向かいの男を見ているのか――――?  因幡はぶるりと震える。 「壬生、なんだよあれ。お前の次は皆旗先輩が目ェ付けられ……、壬生?」  と壬生を振り返ると、彼は大粒の涙を浮かべながら、ぶつぶつと口の中で呪詛を唱えていた。いつまでも噛みしめたままの指からはぽたぽたと血が流れ、生徒総出でワックスをかけた床の上に何粒も落ちた。ぽた、ぽたという血液の滴りと呼応するように雨音は強くなるばかりで、壬生の低い低い呪詛ははっきりとは聞こえない。  それでも、因幡は本能のまま、己の耳を塞いでいた。  大切な友人が、完全に破壊されてしまった事実を認めたくないがために。   「――――――――」  うっすらと血の付いた唇が、新たな呪詛を象る。  遠くで恍惚の表情を浮かべている伊勢には届かない。因幡は固く瞳を瞑り、どうしてか、壬生とのあいだにカーテンを掛けたいと思った。きっとその布の向こうで壬生は暗闇の中でめいいっぱいに瞳を拡げ、永遠に終わらない呪詛を吐き続けているだろう。流行り病のように、昏い領域は拡大していく。染められる。  因幡は、自分もその暗闇に囚われ始めているような気がして閉じた瞼にさらに力を入れる。力を入れて入れて入れて、二度となにも見たくないとこころが悲鳴を上げて、そして。  そして――――。  瞼に遮られた暗闇の中、はためく布を見た。

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