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第113話「病室」
気がつくと、大学のトイレの個室の中にいた。
「え」
壁際に追い詰められ、藤崎の喉仏を触らされている。
「、、藤崎?」
コン、と飛び出たそれに触れていると、その内、握られたままの左手が次の場所に移動させられる。
「わっ、!?」
脚の間のそこに、だ。
いつぞやの状況とそっくりだった。
「全部一緒だろ。俺とは」
「っ、い、いや、そうなんだけど、?」
藤崎だ。
目の前にいるのは紛れもなく藤崎久遠なのに、どうしてだか顔に黒い靄のようなものがかかってしまってよく見えない。
笑いかけられているのに、分かるのに、分かるのが不思議なくらい顔が見えない。
この至近距離でトイレの個室の中だと言うのに、靄はずっとそこにある。
「俺は佐藤くんと同じ。だから、怖がらなくていい」
そうかもしれないが、そうもいかないだろう。
義人は手を離されたが、身体が抱き締められたままで身動きが取れない。
先程まで何をしていたのかが思い出せないが、確かにここは大学のトイレの中だ。
すぐそこに便器があるし、真っ白な壁で囲われていて、デジャヴのようにこのシチュエーションを味わった記憶もある。
「佐藤くんは変なところなんてないよ」
だから、それはそうかもしれないけれど、藤崎の家と自分の家は違うのだ。
あちらの家族は受け入れてくれても、こちらの家族は受け入れてくれない。
変だと言われる。
どうしてそれを分かってくれないのだろう。
何度も話した筈なのに。
「藤崎、話し聞けって!」
いや、違う。
話しをしていない様な気がする。
大事な話しは何ひとつ、彼としていない気がする。
「あれ?」
「どうしたの?佐藤くん」
ああ、2人きりなのに「佐藤くん」と呼ぶのか。
いや待て、ここはあのときの大学のトイレの中なら、自分は麻子と別れたばかりで、藤崎とは付き合っていない。
話さなくてもいい。
いやだから、何を話すんだ?
付き合ってないなら何なんだ。
「あ、」
見上げた先の男の顔はやはり見えなかった。
「あのさ、何で顔、見えねーの、?」
「え?俺は佐藤くんのこと見えてるよ?」
「いや、だって、この黒いのが、」
これは何だ?
いつの話しだ?
これは藤崎なのか?
いや、藤崎ではあるけれど、見えないのだ。
腰に回された腕の感触も、優しい声も、見えない視線も、全て彼のものだ。
なのに、顔だけが見えない。
「、、、」
藤崎と付き合っていない頃に戻れたのなら、この後の告白を断れば、義人と藤崎は付き合わない。
恋人ではない未来に行ける。
「、、藤崎、」
逃げてしまえば、全てがうまく行くのではないか?
義人の脳裏にそんな考えが浮かんだ。
この腕に抱かれない未来。
あの唇を知らない世界。
それは確かに、トイレに閉じ込められたあのときだって目の前にあったものだ。
「、、、」
ゲイ、を選ばないこの先の人生は、いったいどんなものだったのだろう。
藤崎とただの友人になると言うのは、どれだけ苦しいものなのだろう。
(あ、、やだな)
選ばなければいいだけだと分かっているのに、心はそれを拒絶した。
(変なの。馬鹿みたいじゃん)
顔は見えないくせに、そこにある筈の唇に触れたくて仕方ない。
逃げたら楽なのに。
いや、もう逃げた筈なのに。
だって、死んだ筈なのに。
「佐藤くん」
楽になった筈の胸の中が永遠に重怠い。
義人は息がしづらいな、と感じた。
(このまま付き合わなければ良い。このままなら2人とも幸せになれる。家族が持てる。だから、)
それで良い筈なのに、どうしようもなく悲しくなった。
(藤崎が他の人のものになるのか?それを間近で見るのか、俺)
友人でいるならそれを目にする事になる。
他の人の名前を愛しそうに呼ぶ声を聞いて、惚気話をしながら笑う彼を見て、あの優しい視線を向けられる相手とも仲良くしないといけない。
「佐藤くん」
「、、、」
「佐藤くん」と呼んでくる藤崎が嫌で、思わず彼に抱きついた。
「、、いやだ」
何が。
義人は自問自答を繰り返す。
死んでもなおこんなに苦しいのなら、死んだ意味がない。
幸せな記憶の中に永遠に行けると思ったのに、いつまで経ってもトイレの中で、いつまで経っても胸が苦しい。
溢れて来る藤崎への想いが止められず、義人は顔のない彼に必死に縋り付いた。
「いやだ、」
付き合いたい。
この先の人生で彼を知らずに生きていく事は、義人の中では考えられないものなのだ。
また誰かに反対されても、親に泣かれても、それでも彼といたい。
藤崎と一緒にいた筈の思い出達が消えていく、初めからないものになる、なんて、そんな事は望めなかった。
「嫌だ!!」
本当は死にたくない。
誰も傷付けずに藤崎といたい。
大恋愛じゃなくていいから、細々と隣にいたい。
ほんの少しだけ、手を繋ぎたい。
「久遠!!」
ただ、藤崎久遠に、名前を呼ばれていたかった。
「結婚を前提に、俺と付き合って下さい」
「あっ、」
次の瞬間、顔のない藤崎にそう言われた。
そこはもう大学のトイレではなくて、あの雨の日に押し掛けた藤崎の家の中だった。
「、、、」
見えないけれど、真剣な顔で彼は言っている。
きっとこの先、色んな事でお互いが傷付き、弱るときもあるのに。
どうして藤崎にとって自分だったのかは分からないが、ただ彼は真っ直ぐ、ひたすらに義人を愛してくれる、その未来だけは知っている。
「俺でいいの、?」
「義人がいい」
見えないけれど、ふわ、と笑う優しい顔。
それは良く知っていた。
自分にしか向けられた事がないからだ。
「、、、」
あの大学のトイレに戻れたとしても、初めてのグループ課題に戻れたとしても、入学式まで戻れても、きっと義人は藤崎を好きになっただろうと思った。
避けられない恋なのだと思う。
彼が自分に興味がなくても、きっと自分は彼に興味を抱いただろう、と。
「結婚を前提に、俺と付き合って下さい」
どうしてわざわざ結婚を前提にしたんだろう。
不思議だなあ、と見えない藤崎の顔を見た。
「何があっても、義人と2人で、人生の終わりまで歩きたい」
何でそんな事を言ってくれるんだろう。
変なやつ、と見えない視線を見つめ返した。
「、、俺も、久遠とずっと一緒にいたい」
ああ、そうか。
同じなのだ。
義人は嬉しくなって、照れ臭そうに微笑んだ。
「大好きだから」
たったそれだけの気持ちだ。
それだけで藤崎は何年も義人の隣にいたのだ。
そして義人も、その気持ちだけで藤崎の隣を選んだのだ。
同じ気持ちだから、ここまで一緒に歩いて来れた。
「愛してるんだよ」
藤崎は何度もそう言ってくれたし、ずっとそう行動してきてくれた。
例え過去に戻れても、きっとまた好きになる。
好きになり合う。
運命でも何でもないけれど、お互いそれを選択するのだろうと、変な自信があった。
(幸せにしたいなあ)
自分を選んでくれた藤崎を。
義人自身が選んだ藤崎を、幸せにしたい。
義人は心の底からそう思った。
(久遠の幸せって、何だろう)
見えない顔は甘ったるく微笑んでくるばかりだ。
「義人」
分かってるから、ちょっと待て。
義人はうーん、と考え事を始める。
いや、周りが静かになって、2人きりになれたから、やっと考えられる様になったのだ。
(久遠の幸せ、、)
彼が自分を好きなら、自分といるのが彼の幸せにならないだろうか。
どうして死んでしまったんだったか、と思い出せない記憶を探り始める。
「義人」
「ちょっと待ってよ」
「義人」
「聞いてる?」
思い出せない。
何で手首を切ったんだ。
(手首を切った?何の話しだ?)
そもそも何でトイレにいるんだ?
辺りの景色はまた個室の中に戻っている。
「義人」
「うるさいな、ちょっと待ってって!今考えてんだから!」
いや、待てるわけがないか。
死にそうなんだから、1秒たりとも無駄に出来ない。
(死にそう?死んだ?、、あれ?)
「義人」
今度は2人で借りたマンションのベッドの上にいる。
移動してもいないのに、ぐるぐるといる場所が変わっていく。
「義人」
帰ってきた?
違う、何処にいたんだっけ。
何をしていたんだっけ。
「義人」
その声に疑問が湧いて、義人は恐る恐る彼を見上げた。
相変わらず顔は黒い靄の向こうにある。
しかし今度は表情が分からず、彼は不安そうに口を開いた。
「久遠、あのさ、」
何でそんなに悲しそうに名前を呼ぶの?
その瞬間、自分のこめかみが動いたのが分かった。
「、、く、おん、」
「義人?」
部屋の天井はこんなに白かっただろうか。
そもそも、大学のトイレはどこに行ったんだ。
むしろ、トイレに行く前はどこにいたんだったか。
「義人、起きた?俺のことわかる?義人、」
「、、トイレ、は、」
「え、トイレ行く?起き上がれる?だっこする?」
「だ、、?」
「だっこ?」
何を言ってるんだ?
声のする右側に顔を向けると、椅子に座っていたのか、立ち上がった藤崎が自分の顔を覗き込んでいた。
眩しい。
どうにも彼の背に窓があるらしく、入ってくる光りに目を瞑る。
だから、ここは何処なんだ。
トイレは何処に行った?
「静美の、トイレ、?」
「ここ病院だよ」
「、、ぇ、?」
藤崎の答えにまた、何の話しだ?と首を傾げようとして、左手が重い事に気が付いた。
「?」
今度は左側を向くと、目の前にはカーテンがある。
そしてその下、自分の腕を見下ろすと、何かの管が繋がっていた。
(点滴?)
そのまま視線を流して違和感のある手首を見る。
(包帯?)
そこまで来てやっと、義人は色んな事を思い出した。
「あ、」
父親と対立し続け、とうとう何もかも嫌になって手首を切って自殺を図った事も、藤崎が実家に来る筈だった事も。
昭一郎が寝ている隙に取り出したカッターの事も、水に沈めた腕も。
ぐるんと目を回すと、真っ白な壁とベッドの形から、確かにここが病院の病室の中だと確認できた。
「ッし、」
「義人、大丈夫だよ」
自分が寝かされているベッドの右隣に椅子が置かれている。
そして立ち上がりながら自分を見下ろす藤崎がいる。
「死んでない、、?」
彼は思わず、そう口走ってしまった。
「義人?」
「し、死ねなかった、死ねなかった!?」
ここが病院なら、手首が痛まないのは麻酔か痛み止めのせいだろう。
義人は慌てながらバッバッと右を向いたり左を向いたりし始め、ついには左腕に繋がる点滴を引き抜こうと右手を伸ばした。
「何で、どうしよう、何で、!!」
その瞬間、肩を掴まれて身体ごと藤崎の方を向かされた。
パンッ!!
「っあ、、?」
右の頬に痛みが走って、フッと我に返る。
「あ、、あ、?」
藤崎は左利きだ。
殴るなら右の頬だ。
それは当たり前だが、死に損ねた義人には事態がよく分かっていなかった。
「、、、」
殴られた。平手打ちだった。
藤崎が自分に暴力を振るう事などありえない。
頼んでもしてくれないのに、ぶたれた。
と言う事はここはまだ夢の中なのだろうか。
訳が分からないまま困惑して固まった彼を見つめながら、藤崎は口を開き、低く冷たい声で呟くように言った。
「ごめん、もう1回言って」
激しい怒りと、失望と、悲しみと、苛立ち。
色んなものが込められた声は義人の耳にも勿論届き、ゾワ、と彼の背筋を凍らせる。
「、、ご、ごめ、」
咄嗟に謝ろうとした。
「謝れっつってねえよ」
「、、ぁ、」
「もう1回言ってって言ったの」
「あ、あの、、」
義人を見下ろすその視線は、彼に向けられた事がないくらいに冷たく、厳しいものだった。
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