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第112話「幸せ?」
藤崎の事を思い出しながら、その優しい記憶の中で、幸せに死にたいと思った。
「、、、」
机に突っ伏したまま眠った昭一郎が起きない様に、引き出しからカッターナイフを取り出した。
錆びていなくて良かった、とどうでも良い事を思いながら、厚紙や段ボールにも使える大きめのカッターナイフを持って、義人は静かに自分の部屋を出た。
足音を忍ばせ、古くてぎうっと鳴る廊下のルートを避け、壁沿いに歩いて階段まで辿り着く。
不思議と高揚感がある。
そして何より、自分のこの考えが名案と思えてならなかった。
葬儀やら色んな書類の処理やらで一瞬迷惑はかかるかもしれないが、それ以上は親に金を使わせる事もない。
自分のものは売ってもらえたら少しは足しになるかもしれないし、何より死んでしまえば自分は誰かの過去になれる。
家族の、友人達の、そして藤崎の過去に。
藤崎にたまに思い出してもらえるならそれでいい。
その記憶が、例え自分が思い出す様な優しくて甘い、幸せな記憶でなくても。
彼の隣にいた、死んだ人間。
そう誰かの記憶に留められるなら、それでいい。
「、、お母さん、ごめんね」
最後の最後にまた迷惑を掛けるのは少し心残りだったけれど、もうどうでも良かった。
考えるのも感じるのも疲れてしまって、義人はただ永遠に藤崎といる幸せな瞬間を想って目を閉じ続けたいと思ったのだ。
リビングのドアに向かってそう言うと、普段はガラッと音の鳴る脱衣所の引き戸をゆっくりと時間をかけて開け、浴室の折戸も同じ様に、音を立てない様に開いた。
冷たい空気の溜まった浴室に入ると、またゆっくりと折戸を閉め、うち鍵を閉める。
浴槽の蓋を中途半端に畳んで中を覗くと、水は抜かれたままだった。
(聞こえちゃうかな、音)
そう思いながらコン、と黒いゴムの栓を排水口の穴にはめ、蛇口のハンドルを捻る。
ドバッ、と勢いよく水が出て、ビチビチ言いながら少しずつ浴槽に溜まっていった。
「、、、」
それをぼんやり眺めながら、義人は浴室の床に座り込み、ため息をついて、それから藤崎の事を思い出し始めた。
素足で触れる床のタイルは濡れていて、冷たくて、夏には丁度いい温度だ。
浴槽の縁に両肘を置いた。
藤崎は、外国語が苦手なくせに海外旅行に行きたいと良く口にする。
そう言えば結局、あの2人きりの沖縄旅行以外はどこにも行けなかったなあ、と馬鹿みたいに何度もセックスした夜を思い出した。
(性欲底なし沼、、)
ふふ、と笑いが漏れる。
面白いのは、藤崎の考えとしては気持ちが良いからセックスがしたい、が主体ではなく、あくまで義人へ愛情表現がしたいから、分かりやすいセックスと言うやり方を選んでいる点だ。
確かめ合いたいから、伝えたいからこその行為。
決して軽んじてしているのではないのだと理解したときは、「愛されてるなあ」と思ったものだった。
滝野や入山達が仲良くなって来ると、皆んなで出かける事も増えた。
いつの間にか皆んなで昼休みを過ごす様になったのもすごい事だ。
他学科と関わる事なんてないと思っていたのに、今では同じ学科の友人達より遊ぶ回数も増えたし、何より距離が近くなった。
「幸せ、だったなあ」
何を思い出しても、いつを思い出しても、隣には藤崎がいる。
自分が思い出す幸せな記憶、が全て彼のそばにあるのだと思うと義人の胸はいっぱいになり、とてつもなく満たされた。
(愛されてるなあ)
楽しい事、幸せな時間、誰もが追い求めるそれに、いつも義人を引っ張っていくのは藤崎だった。
人との距離の取り方も、近づき方も教えてくれる。
2人が思う恋人の在り方を一緒に探し続けてくれる。
そんな、完璧で、美しく、優しい恋人だった。
(、、愛してるよ)
ぽた、ぽた、と涙が溢れ始めた。
水は浴槽の半分まで溜まって、もう手を伸ばせば床に座りながらでも水面に届く。
(愛してる)
誰かにとっては気持ち悪くても、誰かにとって認められない愛でも、例え世界から見たら少数派でも。
確かにここに存在して、彼は藤崎を愛している。
(だから、死のう)
浴槽の蓋の上に置いていたカッターを手に取ると、ロックを外して、ギチギチッと刃を押し出した。
「、、、」
黒光する刃先は鋭く、するんっ、と滑る様に皮膚を引き裂くところは容易に想像できた。
またロックをかけて、出した刃を固定する。
首吊りでも飛び降りでも電車に飛び込むでも何でも良かったのだが、何となく、手短に思い付いたのはこれだった。
静かに眠る様に死ぬ事はできないかもしれないが、藤崎が来るまでに死ねればそれでいい。
12時48分。
早くしよう。
(眠い)
昨日飲まされた薬がまだ効いているようだった。
胃に薬以外のものがなかったせいか、吸収が良すぎたらしい。
義人は刃を見つめるのをやめて、左手首を裏返し、青い血管を見下ろした。
(疲れたな)
正直、歩くのも息をするのも面倒になっている。
(藤崎に見てて欲しかったな)
追って来なくていいから、勇気が出る様に隣にいて、背中を押して欲しかった。
けれどすぐに、こんな事をしようとしたら彼なら自分を止めてしまうだろうと思って考えるのをやめた。
家族にも恋人にももう迷惑をかけなくない。
どちらの未来にも、自分がいない方が義人の気は楽なのだ。
そしてきっと、皆んなもその方が楽だ。
(好き、、愛してる、死んでも愛してていいかな)
いや、死んだら無になる。
「愛」なんて、持っていられるのだろうか。
分からないが、分からなくても、今このとき藤崎を思い出していられるならそれで良かった。
(誰にも文句言われない)
頭の中で、心の中で彼を想うだけなら、誰も何も気付かないから文句も否定もない。
そばにいると触れたくなるし、他の誰にも渡したくなくなるから、やはり離れた方がいいと思った。
生と死で、別たれた方が幸せに思った。
右手で握ったカッターを左手首に近づけて、尖った刃の先端をツン、と肌の上に置く。
後はもう、一思いだった。
浴槽の水は3分の2まで貯まった。
「ッ、!」
ブツンッ、と思い切り力を入れてカッターを引いた。
「ッく、んッ、!」
浅い。
これではダメだ。
もう一度、同じところに刃を入れる。
「う"ぅ、ッ!!」
もう一度、引いた。
「ッ、はあっ、ハアッハアッ」
痛い。
感じた事がないくらいの痛みだ。
「ハアッ、ハアッ、」
嗚咽が湧く。
気持ちが悪いし何より痛い。
ちゃぷん、と左手を水の中に入れた。
「はあっ、はあっ、はあー、はあぁー、」
大丈夫、大丈夫、と分からないが自分に言い聞かせて、浴槽の縁にへばりついて、左腕ごと水につける。
痛い。
痛いが、水に突っ込んでいる方がマシだ。
血は出ているものの、出たところから大量の水に薄められて、浴槽の中を真っ赤にする程のものではなかった。
「はあ、、、はあ、、く、おん」
終わる。
21年間の人生の最後だ。
「久遠、、好きだよ、好きだ、、好きだよ、ごめんなさい、好きだ、ご、っ、ごめん、」
何を思い出そうとしても、全て藤崎が出てきてしまう。
会いたい。話したい。触れたい。キスがしたい。抱きしめられたい。笑い合いたい。ふざけたい。隣を歩きたい。
「愛してごめん、、ごめん、ごめん」
手を繋ぎたい。
痛みで吹き飛んだかと思ったが、すぐにまた眠くなってきた。
義人は縁に頭を置いて、流れ出る水の音と、その振動を聞いた。
「、、結婚したかった」
次に感じたのは寒さだった。
風呂場の中の空気が冷たいからだろうと思った。
「久遠と、」
そしたらどうなっていただろう。
「久遠、と、、け、、こん、」
子供が欲しい。
家族になりたい。
誰にも否定されずに2人でいたい。
「、、、」
義人は最後に想像した。
結婚したら、お揃いの指輪をつけて、2人で外で手を繋いで、笑いながら散歩に行く。
買い物をして、たまに行くカフェで昼食を取って、同じ家に帰る。
その内子供ができて、2人の間に挟んで、片方の手ずつ手を繋ぐ。
たくさん写真を撮りたい。
誕生日パーティーは庭まで飾り付けたい。
友達を大勢呼んで、1日中その子を笑わせたい。
けれど不思議と、藤崎の隣にいる自分は男の姿のままだった。
(久遠)
やはり、女の子になりたい訳ではないのだ。
それはもう自分ではない気がしてしまうから。
義人は義人のまま藤崎に愛されて、彼と結婚したかった。
いや、本当は結婚もなくていいのかもしれない。
そのままの自分で、彼と愛し合っていたいだけなのだ。
瞼が重くなって、少しずつ降りて来ている。
もうそろそろだな、穏やかな気持ちのまま思った。
(久遠)
もう考えたくない。
藤崎と過ごした日常を、夢で見ていたい。
永遠に幸せなそこにいたい。
『ね、ほら。一緒だ』
、、え?
なのに彼はそうやって、優しく笑って目の前に現れた。
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