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第111話「動け」
「義人ッ!!」
藤崎は靴下も脱がずに浴室に入ると、急いで彼の左腕を水の中から抜き、冷たくなった身体を抱え込んで、濡れる事も気にせずに義人の身体を後ろから抱きしめ、バシャン!と音を立てて水浸しの床に座り込んだ。
「義人ッ!!起きて、義人ッ!!」
「に、兄ちゃんッ!!」
駆け付けた昭一郎はその光景を見るなり、ガクンと顔を青ざめさせて硬直してしまった。
藤崎は腕の中で目を覚さない義人に必死で呼びかけ、頬を叩いたり顎を掴んで揺すったりするのだが、一向に起きる気配がない。
「義人ッ、、!!」
叫びだしたくなるのを抑えて、咲恵は両手で口元を覆いながら脱衣所の床にしゃがみ込み、左手のパカッと切れた手首からダラダラと血を流す息子の姿に息をするのを忘れてしまった。
自分が産んだ息子が自ら死のうとしているその姿に最近起こった全ての事が頭の中を駆け抜け、彼女を後悔させていく。
「義人!!起きろ、おい!!目ぇ開けて!!義人!!義人!!」
真っ赤な血が溢れる手首を掴み、傷が塞がる様に願いを込めて強く握った。
けれどダメだ。
義人はピクリとも反応しない。
(まずい、本当にまずい、ダメだ、ダメだ絶対に、それだけは、)
最悪、が3人の脳裏に「死」と言う文字を浮かばせている。
流れ続ける蛇口の水のダバダバとうるさい音だけが浴室にこもって響く。
(嫌だ、嫌だ、死なせてたまるか、!!)
ゴクンッと唾を飲み、自分が息をしているな、と藤崎は確認した。
やることをやらねば、恋人はこのまま変わり果てた姿になってしまう。
既に血の気が引いて真っ白になってしまった顔を見つめて奥歯を噛み締め、藤崎は義人を死なせないためにするべき事を考えた。
こんな終わり方は絶対にしてはいけない。
そもそも、藤崎はこんな事を微塵も望んでいない。
「昭一郎くん!!」
自分ではどうしようもできないと理解した彼はとにかく冷静にするべき事を決め、昭一郎に怒鳴りつける。
彼は震えながら立ち上がり、「はい!!」と何とか大声で返事を返した。
動けるだけの気力はあるようだ。
「救急車呼んで!!手首切って意識が戻らないって言って!!」
「は、はい!!救急車、救急車、!」
「お義母さん!!」
どう呼んだらいいかも分からず、藤崎は今度はしゃがみ込んだままの咲恵を大声で呼んだ。
「お願いですから立って下さい。義人が死なないように、左手を上に上げておいてください、じゃないと余計に血が止まらない、!」
「あ、あ、、!!」
咲恵は返事を返せなかったが、携帯電話で救急車を呼ぼうとしている昭一郎の横をすり抜けて何とか浴室に入ると、義人の腕を心臓よりも上にあげ、失血死を間逃れる為にそれを固定した。
「義人、起きて、義人ッ!!」
微かに体温がある。
浅いけれど呼吸も確認できる。
それだけ確かめると、呼びかけながら昭一郎の方を向いた。
もう誰も、何がどうなって、どうして義人がたった1人でここにいるのかすら分からなかった。
「きっ、救急で、あの、兄が手首を切って、浴室でッ、目を覚さなくて、はい、はい、住所は、」
救急に繋がった電話にそう言いながらも昭一郎も藤崎の目を見つめ返し、そしてそのすぐそばにある義人の顔を見下ろして、真っ白な頬を見てぼろぼろと泣き出した。
およそ生きている人間の肌の色から離れ始めている色だった。
「21歳です、はい、、はい、自分は弟で、佐藤昭一郎と言います、はい、はい、、宜しくお願いします、はい」
泣きながら電話を切る。
「藤崎さん、来てくれるそうです、10分くらいで、、」
「お義母さんと腕持つの変われる?」
「はい、、」
ぼたぼたと涙を流しながらだが、彼は自分こそしっかりせねばと咲恵と位置を交換する。
咲恵は既に涙を堪えていて、「準備するから、ゆっくり義人をこっちにあげて」と脱衣所の床を指さした。
確かにこのままでは体温が奪われて行くばかりだ。
咲恵が浴槽に水を張るための蛇口を捻って出続けていた水を止め、救急車が来るまでに用意する物を集めに駆け足で風呂場から出て行く。
こんなときに気にしていられるか、と全員濡れたままの姿で動き回っていた。
「義人抱えてるから、腕だけしっかり持ってて」
「はい、」
いつもよりも幾分も低い彼の体温が恐ろしく思えたが、息がある分まだマシだと藤崎は自分に言い聞かせて冷静を保つ。
義人の身体を抱き上げると、また少し軽くなった様な気がした。
「、、、」
浴室から出て、昭一郎は左手を高く上げたまま、棚からバスタオルを引き摺り出して義人の身体にかけて行く。
「、、40分間くらい経ってるのか」
徐々に冷静さを取り戻して来た昭一郎は、医師の勉強をしている人間らしく、冷静な声でそう言った。
どうやら自分が眠った時間とリストカットした場合の意識を失うまでにかかる時間とを計算した様だ。
「藤崎くん、昭一郎」
咲恵は救急車に乗るために必要なものを詰めた鞄を肩から下げて、再び風呂場へ入って来た。
恐らく医者家系の家庭と言うのもあったからか、咲恵も昭一郎も一瞬動揺した後は割と冷静に動いてくれている。
「義人、起きない、?」
「起きない」
「そっか、、」
今は安静にさせておく他に、出来る事がなかった。
昭一郎は義人の左手首の傷を何とか塞ごうと傷口が離れない様に握っている。
右の手首も握り、脈を測っているようだった。
恐ろしい沈黙が暫く続いた。
自分の心臓の音がやけに大きく聞こえて、時間が経つのが嫌に遅い。
藤崎は義人の呼吸が止まっていないかを胸元を見て確認しながら、少しずつ熱が戻ってきている彼の温度にホッとする。
やがて遠くから、やっと、救急車のサイレンの音が聞こえた。
「あ、来た、、」
「お母さん、庭先に出て門開けてきて」
「そうだね、行ってくるから義人見ててね」
「はい」
「うん」
昭一郎と藤崎は言葉を交わすことはなく、ただじっと待った。
また暫くして、今度は玄関の開く音で集中が切れる。
「お風呂場どこですか、奥さん」
「向こう、階段の裏の空いてる引き戸です、!」
知らない人間の声を聞いてこんなにも安堵するのは珍しい事だろう。
救急隊員が来た。
咲恵が救急車に同乗し、藤崎が滝野に連絡をして、藤崎と昭一郎の2人は6人乗りにしておいたレンタカーに乗り込み、咲恵から連絡を受けた義人が搬送される病院まで向かう事になった。
「大丈夫だよ、くう」
「うん、分かってる」
本当は、物凄く不安だ。
濡れたままシートに座るわけにもいかず、昭一郎が持って来てくれたバスタオルを椅子に敷いてから座った。
義人が自殺未遂をしたと言う話しを聞いて、光緒は顔色ひとつ変えずに運転席に乗り込み、滝野は昭一郎に病院の場所を聞いてカーナビを設定した。
里音だけが不安そうな表情を浮かべている。
藤崎はただ黙って、申し訳ないが運転も、病院への経路も全て友人達に託した。
(、、何で、)
そうしないと叫びそうだった。
怒鳴り散らして、ここにはいもしない義人に怒り狂いそうだった。
(何でだよ、)
パックリ割れた手首の傷も、バスタオルについた血の跡も、抱き締めていた低すぎる体温も、思い出すだけで吐き気がして、そして悲しく、苛立った。
(何にも分かってない、何にも伝わってなかった、!!)
1人で考えないで。
2人で考えよう。
絶対に、自分を傷付けないと約束して。
藤崎は確かに昨日、義人にそう言ったのだ。
2度も言った。
言ったのに。
(何で死のうとしたッ!!)
なのに彼には、それらの言葉が全て届いていなかった。
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