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第110話「愚図」
「ごめん、久遠」
唇が乾いてる。
「ずっと好きだよ」
目の前の門扉は、昨日と同じ佇まいだった。
今日は深呼吸を一度してから、落ち着いてインターホンを押す。
結局、昨日渡せなかった手土産は皆んなで食べて、新しいものを買ってから、藤崎は義人の実家を訪れていた。
ピンポーン
午後13時18分。
滝野と光緒、里音とレンタカーを借りて、割と安全運転をする光緒の運転でここまで来た。
昨日と同じコインパーキングに車を停め、3人はまたドッグカフェで待ってくれている。
昨日とは違うネクタイを締めた藤崎は、昨日よりかはリラックスした面持ちでそこに立っていた。
《はい》
「こんにちは、藤崎です」
《あ、はーい。入ってきてどうぞ》
インターホンから聞こえる咲恵の声も昨日よりかは明るく聞こえる。
昨日少しでも言葉を交わしたおかげで、お互いに敵意がなくなって気楽になったのだろう。
言われた通り、塀にくっついた門扉を開けて庭に入り、藤崎は玄関のドアの前までゆっくりと歩いた。
改めて見ても庭は広く、地面には砂利が敷き詰められていて、塀のきわには背の高い木や、椿の木の列、ゆずや金柑の小ぶりな木が結構な数で植えられている。
それから、塀の向こうからは見えなかったが、色んな種類の花がプランターや鉢にも、地植えでも咲き誇っていて、玄関のそばに白く塗装されたアルミのガーデンテーブルのセットが置いてあった。
2階のどこが義人の部屋だろうかと見上げて、そう言えば自分の実家の部屋に義人を入れた事はあったが、義人の部屋は見た事もなかったな、とぼんやりと思った。
ガチャ
「あ、藤崎くん。いらっしゃい。お昼食べた?」
「はい。連日押し掛けてしまってすみません」
「いいえ、来てってお願いしたのはこちらだから。義人もちゃんといるからね、安心して。どうぞどうぞ」
玄関のドアからサンダルを履いて出てきた咲恵はにこにこしながら藤崎を家の中に入れてくれた。
「あ、すみません、これ、大したものではないんですが召し上がって下さい」
「あら、いいの?ごめんね、わざわざありがとう」
「向こうのお母さんに好印象を抱かせるならマカロンでしょ」と里音がうるさかったので、午前中に大きめの駅に併設されたデパートに行き4人で選んで買った色とりどりのマカロンの箱を、タイミングが分からなかった藤崎は、今かな?と思って咲恵に渡した。
先日、義人が昭一郎と共に義昭を支えながら運び込むところは見ていたものの、やはり玄関も含めて、実に広い家だった。
「わ、マカロン?可愛いね」
手渡された大きく店のロゴが印刷された紙袋を覗き込み、リボンの巻かれたクリアケースに入っている淡い色合いのマカロンを見つけて咲恵は微笑んだ。
「妹が選んでくれて」
「妹さんがいるの?」
「はい。心配して、昨日の友人達もついて来てくれてるんです」
「え、どこにいるの?待っててくれてるの?」
「ああ、大丈夫です。向こうの、ワンちゃんと入れるカフェに行ってて、満喫してるからゆっくり話して来いって言われました」
「そうなの、皆んな義人の友達?」
「はい、もちろん」
そう答えると、咲恵は一層嬉しそうにマカロンを見下ろした。
「義人、あんまり友達連れて来ないし、大学でのことも教えてくれないから、今度お話ししたいな、、あ、ごめんね!玄関だったね!中に入って」
サンダルを脱いで廊下に上がると、咲恵は一旦マカロンの箱が入った袋を置きにリビングへと消えていった。
その間に「お邪魔します」と言って藤崎は靴を脱ぎ、義人の家に上がった。
「、、、」
「昭一郎は、お風呂かな?タイミング悪いんだから。さっきまで2人とも義人の部屋にいたんだけどね。義人、昨日の夜に少し不安定になっちゃって、朝も昼もご飯食べないって言って部屋に閉じこもっててね」
リビングのドアから出て来た咲恵はそう言いながら、2階への階段を眺める。
「あ、藤崎くん、一緒に呼びに行ってくれる?」
初めてちゃんと恋人の家に入った藤崎は少し緊張が戻って来てしまっていた。
一度振り返って靴を綺麗に並べてから立ち上がり、「はい」と返事を返す。
「ありがとう」
咲恵が階段を登り始めると、彼も続いて少し蹴上の高い階段に足を乗せた。
階段の向こう、1階の廊下の奥からは、微かにドボドボという音がしている。
階段を登り始めると、ギッギッと一歩ずつ音が鳴った。
「男の子なのに随分ちゃんとしてるのねー」
関心の声。
挨拶も靴の事も藤崎家では普通にしつけられているので何ら気にせず行動していたが、確かに義人はたまに靴を揃えるのを忘れる事がある。
「ありがとうございます」
彼女の後ろについて歩きながら、藤崎はそんな事を思い出して少し困ったように笑った。
あれは実家にいた頃からの癖だったのだろうと考えたら、可愛く思えたのだ。
義人の部屋は階段を上がって2つ目のドアだった。
外観で見ていた、2階の1番左端の部屋なのだろう。
どん詰まりにあるドアはトイレか何かだろうかと思いながら立ち止まった咲恵の隣に立つと、彼女はコンコン、とドアをノックした。
「義人、起きてる?藤崎くん来てくれたよ」
優しい声だった。
少し、自分の母親の愛生の声に似ているような気がした。
義人の実家は藤崎が思っていたよりも大きく広く、2階の廊下も幅がある。
医者はやはり儲かるのか、と少し偏った事を考えつつも、義人が出てくるのを待った。
「、、あれ?義人?」
鍵はかけない筈だと思いながら、咲恵は返答のない息子がいる筈の部屋の扉の取っ手に手を掛けて、グッと下に押した。
「お母さん、」
ドアを開けようとした瞬間、逆に扉が引かれて、焦ったような昭一郎が出てきた。
眠っていたのか、髪に少し寝癖がついている。
「あ、びっくりした。昭一郎、いたの」
「寝てた、あの、」
「あ、そうなの、藤崎くんがね、」
「お母さん、!!」
咲恵が隣にいる藤崎が来た事を伝えようとすると、昭一郎はそれを遮った。
やはり何か焦っている。
その隙に、藤崎はヒョイと部屋の中を覗き込む。
「?」
しかしそこに義人の姿はなかった。
「兄ちゃんどこ!?俺、寝てて、下にいないの!?」
「えっ、」
「、、、」
義人がいない。
どう見ても、机の椅子にもベッドの上にもどこにもいない。
監視と言うよりは、また吐いたり何だりをしたときに世話を見れるようにと自らそばに居た昭一郎が眠った隙にどこかへ行ったらしい。
昨夜、あれ以降何もないようにと無理矢理に徹夜をして義人の様子を見ていたのが祟ったようだ。
「え、いつからいないの?」
「分かんない、俺、お昼食べてから寝ちゃったから、12時、、40分にはもう寝てたのかな」
「ああ、そうなの。やだ、外に行っちゃったのかな、お母さん寝てるんだと思ってたよ。昭一郎がお風呂入ってるのかなって、あ、義人が入ってるのかな?」
「っ、!」
藤崎はそこでハッとした。
1階から、微かにドボドボと言う音が響いて来ているのが聞こえたからだ。
「ッ、お風呂場どこですか、」
「え?」
「1階ですよね!?風呂場!!」
そう言うなり、彼は階段に向かって走り出していた。
どうにも昨日からの胸騒ぎが、余計に大きくなっていたのだ。
「兄ちゃん、、?」
藤崎の嫌な予感が昭一郎にも伝わったのか、次の瞬間には彼も走り出し、咲恵だけがそこに取り残されていた。
「え、義人がお風呂に入ってる、だけじゃ、、?」
しかしそれだけなら藤崎達はあんなにも急いで風呂場まで行かないだろう。
「義人、?」
何となくその嫌な予感が読めて来て、咲恵も急いで1階へ向かった。
「藤崎さん、階段の後ろの引き戸のとこです!!」
昭一郎に風呂場の場所を叫ばれて、藤崎は階段の最後の一段を飛ばして1階へ降りると、手摺りを左手で掴んでそのままぐるんと急カーブを決める。
そうだ、やはり水音はまだしている。
シャワーに入るだけならシャワーの音がしている筈なのに、ドボドボ、と水を溜める音がずっとしているのだ。
(やめて、頼むから、やめて)
むせ返りそうな嫌な予感が、吹き荒れる不安の嵐が、胸中を襲う。
絡まりそうになる足を無理矢理動かして、言われた通りにそこにあった階段裏の引き戸に手を掛けた。
『ど、したら、いいの』
昨日、その問いに藤崎は「1人で考えないで」と答えたのに、彼にはその言葉が届かなかったのだろうか。
一緒に考えていきたいのだと伝えたのに、少しも分かってくれなかったのだろうか。
焦燥に駆られ、痛いくらいの鼓動に飲まれながら、藤崎は勢い良く戸を開けた。
ガララッ
「!!」
浴室の磨りガラスの施された折戸の向こうに、ぼんやりと人影が見える。
「義人、」
白いTシャツと、黒いズボンを履いている人影だ。
浴室にいるのに裸ではない。
ドボドボと言う音は脳を揺らすように、やたらと大きく響いていた。
「義人」
やめて
「義人、」
折戸の取っ手を掴み、グン、と押す。
「義人、!」
開かない。
「義人、開けて!!」
人影がその声に反応する事はなく、返事もなかった。
内側から鍵のかけられたドアはいくら押してもガチャガチャとうるさいだけで、藤崎は仕方なく、思い切りドアの折り目を蹴り飛ばした。
バキュン!!と古い扉は音を鳴らして屈折する。
滑りの悪くなって来ている戸を両手でこじ開けると、目の前に広がる光景に、藤崎は自分の身体から血の気が引いていくのを感じた。
「義人?」
浴槽いっぱいの水は溢れ出て、排水溝へジャバジャバと飲み込まれ続けている。
呼びかけに応えない義人は浴室に座り込み、浴槽の縁に胸から上を乗せて、左腕を水の中に突っ込んだ状態でうつ伏せにぐったりとしていた。
「ぁ、?」
目を閉じている顔の口の端の横を、ちゃぷちゃぷと水が流れている。
血の付いたカッターナイフが、水に押し上げられてカタンカタンと揺れている風呂の蓋の上に置いてある。
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