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第109話「性別」

朝、ベッドで目が覚める。 相変わらず隣にある筈の温度はなかったが、それでも少し気分は前向きだった。 「ぅお、、はは。忘れてた」 未だに自分の黒髪姿に慣れない藤崎は、洗面所で鏡に映った自分を見るなり一瞬誰だ?と驚いた顔をした。 「俺もまだ見慣れない」 「驚くからもう少し音出しながら近づけよ」 昨日は結局、入山と遠藤だけ家に帰った。 入山は久々に和久井と会う約束をしていて、遠藤は昼間にバイト先から呼び出されているらしい。 泊まって行った光緒がほぼ目が開いていないままのそりと背後に現れ、藤崎は呆れながらそちらを振り向いた。 「義人、驚いてたか」 「あー、うん。何その髪って言われた」 鏡の前で真っ黒になった自分の髪をわしゃわしゃと触ってから、洗面台に近付いて顔を洗う。 いつものように棚からタオルを取り出して顔を拭き、光緒用にもう1枚出して洗濯機の上に置いてからリビングに戻ると、まだソファの上で寝ている里音とラグの端で眠る滝野が目に入った。 滝野に関しては、むにゃ、とか、ング、とか変な寝言を繰り返している。 「、、、」 午前8時。 携帯電話を見ると、10分前に昭一郎からの連絡が来ていた。 「、、ん」 [おはようございます。父が出勤しました。昼過ぎに来てもらいたいんですが、大丈夫ですか?] それを見て、内心ホッとした。 何日か仕事を休んでいたらしいが、やはり医師と言うだけあってお盆休みは関係ないらしい。 義昭が仕事に行った連絡と、午後に義人の実家まで行っていいと言う許可が降りると、藤崎の顔は幾分も顔色が良くなった。 (義人が帰ってきて落ち着いたら、髪の色戻そ) 寝ている滝野を蹴って起こしながら、昭一郎に返信を打った。 昨日いた友人達との話し合いで、今日義人の家族と話し合いができるかどうかが決まったら、まず恭次や前田も巻き込んだ全体のメッセージアプリのグループルームに連絡を入れろと言われている。 それから、義人が戻って来れるかどうかが決まり次第、またすぐに連絡。 昭一郎への返信が終わると、藤崎は全体のグループルームにも決めた通りにメッセージを送った。 送信した瞬間、ローテーブルの上の光緒と滝野の携帯電話がブブッと言って通知を受けた。 「しっかり何か食ってから、また服装正して時間見て行くか、、あ、手土産的な物どうしよう」 まずは自分を管理できている男だとちゃんとアピールしよう。 黒髪で少しはまともに見えるようになったかもしれないが、正直染めた後も「染めたとて顔がチャラい」と光緒に釘を刺されているのだ。 顔は流石に直せない分、せめて誠実さを全面に出そうと、藤崎は新しいネクタイを並びに寝室に戻った。 薬を飲まされたところまでは覚えている。 午前10時15分を回って、義人はやっと目が覚めた。 (寝坊、、、) 違う、今は夏休み中で大学はない。 ぼんやりした頭のまま起き上がると、手脚が痛い事に気がついた。 昨夜、情けないくらいに暴れたせいで知らない間に色んなところを床や壁にぶつけたらしい。 割れた爪に絆創膏が巻かれている。 「、、、」 「あ、起きた」 「ん、、昭一郎」 ふあ、と大きな欠伸をしながら、弟は義人の机の椅子に座ってこちらを見下ろしていた。 目の下に隈がある。 「、、ごめん」 「すぐ謝んなよ、兄ちゃんのくせだよそれ。ご飯は?朝ご飯、食べる?」 「、、いらない」 「元気出ないよ?食べないと」 椅子から立ち上がった昭一郎は床に座り、義人のいるベッドに肘をついた。 昨日の昼から何も食べていない。 吐き出した分確かに腹は減っているのだが、けれど、食べようと思えるようになれなかった。 蒸し暑い部屋にはいつの間にか扇風機が持ち込まれていて、微々たる風を部屋に放っている。 「スイカは?さっき隣の家の人がくれた」 「、、いらない」 「もう少し寝る?」 「いつ来んの」 「え?」 義人がどこを見ているのか、昭一郎には分からなかった。 そして、昨日までの少し元気を取り戻した兄がまたいなくなってしまった様子を見て、玄関で父と2人きりにしたあの一瞬、また義昭が義人に何か言ったのではないかと考えた。 「藤崎さん?」 「うん」 「昼過ぎに来るって。兄ちゃん、帰る準備しなよ」 「、、来ないでって、言って」 「え?」 きっと喜んでくれるだろうと思ってそう言ったのに、義人は暗い表情のまま返事をしてくる。 指先につけられた絆創膏を眺める兄を見上げて、昭一郎は眉根を寄せた。 「もう来てくださいって言っちゃったよ」 「そっか、、もう少し寝る」 「ん?ん、分かった」 再び寝そべると自分の体温が移った布団が気持ち悪く思えて、義人は掛け布団を剥いで横たわり、ふう、と胸のつかえを吐き出すように息をついた。 昭一郎は、また自分が暴れ出さないように見ている監視役なのだろうと彼は思った。 部屋から出る気配はなく、課題か何かを解いていくシャーペンと紙が擦れる音が聞こえる。 「、、、」 寝ると言っても眠気があるわけではなかった。 ただ、薬を飲んだせいもあってか、他に何も胃に入れていなかったから効き過ぎていて、意識がぼんやりとしている。 「、、久遠」 カリカリと聞こえていたシャーペンの音が止んだ。 (あんなこと言って、、やっぱり会いたいんじゃん) 兄の小さな声にチラリと視線をそちらに向けたが、背中しか見えなかった。 昭一郎は視線を戻すと、義人の机を借りながらやり終えようとしている課題にまた向き直る。 覚えないといけない事もたくさんあると言うのに、彼の頭の中も、今は少し慌ただしくて暗記は難しかった。 義昭はやはり有給が使えないと言って今朝は出勤して行った。 午前8時前の話しだ。 藤崎に連絡を入れると指定した通り、昼過ぎ、13時過ぎに伺います、と返信が来た。 ここで一度、母と弟を交えて4人で話し合いになる事が決定したのだ。 (兄ちゃんの好きな人かあ、、めっちゃ格好良かったなあ。大人って感じで) 彼は少し楽しみになっていた。 兄が自分達家族に見せた事のない一面を知っている男、今まで義人が付き合ってきた彼女達とまた違う存在と対面し、その話しが聞ける事が。 昨日一緒に来ていた友人達とはどうやって知り合ったのか、どんな風に過ごしているのか。 義人と藤崎がどうやって付き合ったのか。 同性愛への感情も、初めの嫌悪感が完全になくなった訳ではないが、今はほんの少しだけ違和感を感じる程度におさまっている。 (お母さんも嬉しそうだったし、今日話し聞いて、藤崎さんと一緒にいられる向こうの家に帰れば、兄ちゃんも少し落ち着くよな) 咲恵も昭一郎も、今は義人を傷付けるよりも出来る限り歩み寄りたいと思うようになっていた。 (そしたら後日で、お父さん入れて、藤崎さんも入れてゆっくり話して、、何だったら藤崎さんの両親に話し聞きに行っても良いのかも。兄ちゃん、仲良いって言ってたし) そこまで考えて、またチラリと兄の背中を眺めた。 (兄ちゃん、大丈夫だよ) 昨日、義人があまりにも暴れる様子を義昭はただ呆然と見ているしかなかった。 咲恵と昭一郎がテキパキと動いて嘔吐したものや汚れた床や壁を処理して、2人で何とか彼を自室のベッドに寝かせてからやっと「病院に、」と言ったくらいだ。 それもすぐに咲恵によって跳ね返された発言だったが。 「義人、大丈夫か、、?」 そんな風に情けなく不安そうに心配するのなら、人前で大声で泣いて、藤崎を帰らせるような事をして欲しくはなかったな、と言う想いが浮かんだが、2人ともそれは黙っておいた。 義昭がああなる事も、理解ができるからだ。 とりあえず様子を見ると伝えて今朝は勤めている病院に送り出したが、多分、帰ってきて義人がいなければ怒るだろう。 勝手に藤崎を呼んで話し合いをする事も。 けれど咲恵も昭一郎も、もうこの親子を離さなければどちらもが精神的に限界を迎えてしまうと分かっている。 だから、今日藤崎に話しを聞いたら、義人が抵抗しても2人で住んでいるマンションに帰らせるつもりだった。 「、、、」 義人の真っ黒な瞳から、ボロ、と涙が溢れる。 全然何も考えていなかった筈なのに、それは自然とこぼれていた。 (女々しい、疲れた) 自分にすら疲れた彼は、こうやって何日も寝て起きてわがままを言って周りを困らせているだけで、人に甘え切っているだけで、特に何もしていないなと自分の存在価値を見失っていた。 (どうして、こんな人間なんだ) そうしてまた、胸が苦しくなって来ていた。 (なんで。なんで、俺なんだ) 途端に、心も身体も全部が痛みだした。 首を絞められているような息苦しさもある。 胸を何度も包丁で刺されているようで、彼は抱え込む様に身体を丸めた。 (俺、どうしたらいいんだ) あと何日、あとどのくらい、こんな朝を迎えるのだろう。 気分が塞ぎ込んで、陰鬱な空気が身体を包み込んでいく。 『お前の子供の顔が見たい。孫の顔が見たい』 その声が頭の中に甦ってくる。 ずるりずるりと心を黒い影が食っていくみたいだ。 でも、どうしようもできなかった。 義人は自分でも分かっているが、女性と結婚なんて出来ない。 そもそも、女性とキスをするのも、セックスをするのも、気持ち悪いとしか思えないのだ。 「、、、」 人の持てる幸せを考えた上で、大切な家族を持って欲しいと願ってくれる父の事はもちろん理解できる。 けれどそもそも、愛情を持たずに相手の女性を騙すような形で結婚してしまって良いのだろうか。 生まれてくる子供を両親は孫として愛せても、自分は親としてその子を愛せるのだろうか。 「、、はあ、」 「ん、どした?」 バレないようについた息は、思っていたよりも苦しくて、強く吐き出してしまった。 シャーペンを置いた昭一郎が椅子から降りて義人に近づき、向けられている背中をゆっくりとさすってくれる。 「兄ちゃん、大丈夫だよ。藤崎さんすぐ来るよ」 むせ返りそうな程の嫌な感情が、やるせない想いが、ぐぶぐぶと音を立てる。 何も聞きたくないのに、また頭の中では義昭と自分の言い合いになっていた。 「ん、、ハアッ、、ハアッ」 「兄ちゃん、もう少しだから頑張れ。な?頑張ってよ」 うるさい。 義人は我慢できず、昭一郎を拒絶するように両手で強く耳を塞いだ。 (何で隣にいないんだよ) 母でもない、弟でもない。 藤崎の声が聞きたい。 でもそう望むたびに、頭の中の義昭の泣き顔が鮮明になる。 (久遠、) 迎えに来てくれたら、一緒に帰って良いのだろうか。 その後、もう一生、父に会えなくなったりはしないだろうか。 帰ってくる事を許されなくなったり、毎日泣いて暮らさせたりしないだろうか。 (怖い) 家族も友達も恋人も、皆んなが幸せになるようにしたいだけなのに、それはとてつもなく難しい事だったのだと知った。 藤崎と自分の幸せを取れば家族が悲しみ、家族を取れば藤崎とは別れなければならないし、彼は他の誰かのものになる。 (何で俺なんだろう) 義人は自分が男で生まれてしまった事を恨んだ。 自分と言う存在である事がこんなにも憎く、嫌悪感を抱くとは思ってもいなかった。 (会いたい) 藤崎を愛している自分ですら、消えて欲しいと思えた。 自分が諦めて藤崎を自由にできれば、彼はきっと彼に相応しい素晴らしい相手と巡り会って、きっと素敵な恋をして、それが女性だろうと男性だろうときっと幸せになってくれる。 そう思えるのに、諦めきれないから、自分が嫌になっていた。 「久遠、」 初めて好き、と言ってくれた日は、信じられなくて酷い言葉を言った事を覚えている。 あれからもう2年と少し経った、あっという間だった。 初恋は叶わない、なんてよく言うのに、初めて好きだと思えた相手と、ここまで一緒にいられたのは幸運だったに違いない。 愛し合うってどんなかを、初めて知った。 触れ合う喜びも、分かち合う喜びも。 喧嘩しても必死に謝って来る藤崎は面白くて、いちいち丁寧に触ってくる大きくて暖かい手が好きだった。 「っ、、くお、ん、、久遠、久遠っ、!」 「兄ちゃん、大丈夫だよ。来てくれるから、ね」 背中をさすってくれる弟のその手さえ、痛く思えた。 「久遠ん、、!」 痛いんだ。 もうずっと、ずっと前から痛かった。 誰かを裏切るように愛し合っている感覚はずっとあった。 親に言わなきゃ、でも、言えない。 そんな葛藤はずっと義人が1人でしてきたものだった。 藤崎の将来、ありきたりな結婚や家庭を持つ未来を自分が壊している事なんて、義昭に言われないでも義人はよく分かっている。 それともずっと戦ってきたのだから。 その未来を少しでも残せるならと、同性で付き合っている事をずっと周りに隠してきた。 何もかもが裏目に出て自分を苦しめる結果になった事も分かっているし、これが回り回って自分が受けるべき罰なのだとも、彼は思っている。 「っ、、う、ぅ、」 綺麗な笑顔が好き。 優しい手が好き。 低い声が好き。 薄い唇が好き。 ミルクティベージュに染まった髪が好き。 5センチ高い視線が好き。 セックスの後に、これでもかと言う程優しくしてくれるところが好き。 抱き締めてくれる腕の力加減が好き。 料理上手なところも、大学だと意地悪してくるところも、甘やかしてくれるところも、全部。 全部好きだ。 好き、だから。 「、、、」 ずっと愛されていたい。 (神様、何で、俺なんですか) 藤崎の将来の選択肢や、どこにでもいる普通の家族の輪を、乱して、壊したかった訳じゃない。 ただ、愛されて、愛していたかった。 (俺じゃなくなりたい) 女の子なら良かった。 男しか、藤崎しか好きになれないのなら、せめて女性で生まれたかった。 「、、、」 本当はそんな事微塵も思っていないくせに、義人は背中をさすられながらそう思っていた。 佐藤義人だからこそ藤崎に愛されているのに、もうそこまでは考えられなかった。 ただ、自分1人がずっとわがままをして関わっている人間を困らせている、迷惑なものなのだと思った。 (俺じゃなくなりたい) その想いしか、最後にはなくなっていた。

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