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第108話「叫び」
閉じこもった部屋の中に自分の呼吸音が響いている。
時計の秒針の音がくっきりと聞こえて、それは段々と義人の思考を締め上げていった。
「ッん、、、ゲホッ」
さっきから、気持ちが悪い。
胸がむかむかしていてどうにも収まらず、吐きそうだ。
布団の中に潜り込んで自分を抱きしめると、寝転んだ体が熱を帯びて来た。
居心地の悪い熱だった。
「久遠、」
こぼれ落ちて行く涙は目尻から布団へつたって染み込んでいく。
肌の上を流れるそれが少しくすぐったいと思いながらも、止める事はできなかった。
「久遠、、ッう、」
あまりの気持ち悪さに、唾がうまく飲み込めない。
右を向いて寝ているせいで、右の口端からダラリと唾液が溢れた。
「っん、、くお、ん、、久遠、」
ゴシ、と肩で口元を拭う。
呼んだ名前に返事がある訳はない。
でも、呼ばずにはいられなかった。
「久遠、久遠っ、、!」
『お前の、幸せのためなんだッ』
「久遠っ」
昭一郎がコンビニで買ってきたおにぎりもカップ麺も食べる気になれず、昼過ぎからずっと部屋の鍵を閉めて布団の中で丸くなっていた。
何度か寝て、覚めてを繰り返した結果、午後20時を過ぎて変に意識が覚醒してしまい、眠れずに、聞きたくない言葉ばかりが頭の中に甦ってくる。
「助けて、たす、ぇ、て、、」
義昭の言葉も、自分と言う存在も、今は義人を苦しめるものに変わってしまっている。
どんなに義昭が愛を込めても、込めれば込めるだけ義人の喉を締め上げるのだ。
義人がどんなに愛された存在だと自覚しても、それは、それだけ自分が親を裏切っていると言う認識に通じてしまうだけだ。
「久遠、助けて、、ッん、ケホッケホッ」
『お前の子供の顔が見たい。孫の顔が見たい』
義昭に言われた言葉は数時間経っても義人の脳内で完全に再生されている。
何度も何度も思い出されては彼の睡眠を邪魔して脳を覚醒させ、罪悪感を抱かせて、眠れない夜を作っていた。
『お前がその子にどう教えてもいい。おじいちゃんは酷い人だとでも、近づくなと教えてもなんでもいい。顔が見れればそれだけで、もう俺は死んでもいい』
それは卑怯にも思えた。
親が自分の死を口にすれば、多くの子供は切望していた何かを諦めようと思うだろう。
悲しくなるに決まっていると分かっていて口にしたのなら、義昭はあの取り乱しようでも随分な策士だった。
『幸せになってほしいんだ』
嘘偽りのない言葉達だった。
あくまで親の愛であって、そこに悪意はない。
自分に興味も関心もないと思っていた父親だったのに、あんなにも、大切なんだよと教えてくれた。
「久遠、、」
頭が割れそうに痛くなってきて、義人は自分の頭を手で抑えながら、支えながら、詰まる呼吸を無理矢理繰り返した。
(家族を持つ?女と結婚しろってこと?そんなこと、今更できるの?、幸せってなに?俺の幸せってなに。どうしたらいいの。何が正解なの。俺は、、どうしたら、)
異性と結婚すれば、確実に義人は幸せになるのだろうか。
義昭の言葉が頭の中をぐるぐると回っていて、思考回路を止めたくても頭が休んでくれない。
義人にとっての幸せとは何だろうか。
義昭が言うように家族を持つ事なのだろうか。
『藤崎くんも、きっと、素敵な家庭を築ける子なんだろう』
「ぅ、えッ、ゲホッ」
この言葉を思い出すと、自分にかけられたセリフ以上に嗚咽が湧いて喉をつまらせた。
「ハアッ、ハアッ、ゲホッ、ん、んん"ッ、ケホッ」
久遠の、家庭?
義人は自分の身体に乗っていた布団を剥ぎ、ベッドの上で力の入らない身体を起こした。
(違う、久遠は俺の、だから、家庭を築くなら、俺と、)
日本では同性婚ができないのに?
「ゲホッゲホッ、はあっ、ゲホッ」
前向きに考えようとすれば、他の思考がそれを沈めてくる。
重怠い身体を無理矢理起こしてベッドの下に足をつき、立ち上がって前を向いた。
何か飲まないと気持ちの悪さに負けそうだった。
「ゲホッ、うッ、!」
立ち上がった瞬間、立ちくらみが起きた。
視界の端から痺れが回って、目の前に霞が掛かっていく。
自分の身体から意識が剥がれるように感覚が遠ざかり、床についた手の衝撃すら感じ取るのが遅くなっている。
(吐く、吐くッ!!)
舌の違和感だけは感じた。
喉の奥まで何かが迫り上がってきている。
もつれる脚でドアを目指し、まだ感覚が戻っていない身体で廊下に出ると左に折れて、突き当たりのトイレのドアを開け、便座の蓋を持ち上げた瞬間に胃の中のものを吐き出した。
「うぇ、え"ッ、、ゲホッ、カハッ、う、ぅ、う、」
気持ちが悪い。
「兄ちゃん、?」
後ろから声が聞こえるが、それは数十メートル離れているかのように小さく遠くに聞こえた。
義人の部屋の隣の自室にいたらしく、音や声を聞いて昭一郎が部屋から出てきてくれたのだ。
しかし、義人本人には彼に振り返る余裕も何もない。
頭の中の声が止まず、吐いても吐いても気持ちの悪さも胸糞悪さも頭の痛さも取れない。
ただ、居心地の悪い熱があるだけで。
『自由にしてあげなさい』
「いや、だ、、ゲホッ、ゲホッ」
走馬灯のように甦る藤崎との日常が、このときあまりにも遠くに感じられた。
もう随分と昔の、古い記憶のように。
「嫌だ、ゲホッ、、いやだ」
「兄ちゃん吐いたの?口ゆすいで、水持ってくる?」
「嫌だ、嫌だ、、」
「兄ちゃん?」
兄の異変に気が付いた昭一郎は、怪訝そうな顔をしながら彼に近付いて、その背中にそっと触れた。
「嫌だッ!!」
「っ、兄ちゃん?」
義人は頭の中の義昭と戦っている。
鼻腔を満たす嘔吐物の異様な匂いに耐えながら、トイレの床に座り込んで、便座に腕をかけて必死に呼吸をして、たまにぽちゃんと水の中に落ちる汗だか唾だか鼻水だか分からないものの音を聞きながら戦っている。
(違う、嫌だ。絶対に離さない。俺のものだ。俺だけのものだ。久遠が拒んでも、俺とのことを諦めても、俺は諦められない。俺には久遠以外の人との未来なんてない、要らない、子供も家族もいらないから、久遠だけでいいから、そばにいさせて)
でもそうやって久遠を選べば、義昭は悲しみ続ける事になる。
(どうしよう、なら、どうしたらいいの、どうしたら良かったの、)
問答が繰り返されている。
頭の中がずっとうるさくて、それだけでも義人の体力を削っていっていた。
『女の子に生まれさせてあげられなくて、ごめん』
(女だったら良かったの?俺じゃなきゃ良かったの?俺が生まれなきゃこんなことにならなかった、?)
そんな悲しい事があってたまるか。
そんな想いもあるのに、確かに、とも思うのだ。
義人が義人でなくて、染色体がほんのわずかに違っていたら、何もかもが上手くいく。
女の子だったら誰にも反対されず、誰も悲しませずに、藤崎久遠と恋ができる。
それはあまりにも残酷な事実だった。
「ぁー、、ぁあ、、ぁあぁぁあああぁああああッッッ!!!」
次の瞬間、口の端が切れそうな程、口を開いて叫んでいた。
「兄ちゃん!!」
「うわぁあああッ!!ああぁぁああああッ!!」
苦しい。
助けて、
助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて
「ああああああああああッッ!!」
だったら何だ。
やはり初めから生まれなければ良かったのか。
結局、そう言う事か。
休みたいのに休めず、とっくに限界を超えている身体は壊れた様に叫び声が出た。
「あ」とか「う」とかが発声できない。
濁った声と、文字に出来ない叫びだった。
(助けて、久遠)
彼を諦められない醜い自分がいる。
義人はそんな自分さえ嫌になっている。
(ひとりにしないで)
爪が皮膚に食い込んで痛む。
握り締めた拳に力が入り過ぎてブルブルと腕が震えている。
自分の声かもよく分からない絶叫が耳の鼓膜を劈いている。
「兄ちゃん落ち着いてッ!!」
どうしようもできない思いが身体の中で暴れ回って、まるで彼自身を傷付けるように叫ばせていた。
「なんで俺なんだよ!!何で俺じゃないといけないんだよッッ!!」
義人は疲れ果てていた。
どうしてここまで苦しまなければいけないのかがまるで分からない。
どうして藤崎が自分を好きになったのか、諦めずに会いにきてくれたのか、何故そこまで佐藤義人にこだわって追い求めてくるのかが分からない。
何故自分でないと彼のそばにいられなかったのかが分からない。
どうして自分が彼でないといけないのかが分からない。
女の子ではダメで、他の男でもダメで、何故、藤崎久遠と言うただ1人にだけしか愛を向けられないのかが分からない。
「答えろよ久遠ッ!!」
刺激臭に感覚が麻痺してくると、嘔吐物の匂いはもうわからなくなっていた。
ぐらぐらする頭が気持ち悪くて、食い締めた奥歯がギヂリと鳴る。
ぼやける視界の中では、色が混ざり合っているだけで、天井も床も便器も何も見えなかった。
「義人ッ!!」
咲恵が1階の寝室から駆け付けると、2階の廊下のどん詰まりにあるトイレから昭一郎がズルズルと暴れる義人を引き摺り出しているところだった。
「何してるの、義人!!」
こんなにも悲しい生き物になった息子を見て泣きそうになりながら彼女は義人に駆け寄り、昭一郎に1階からタオルを取ってくるように頼んだ。
そして、叫びながら起き上がってどこかに行こうとする彼を必死に抱き締めて、何とか動かないように落ち着かせる。
「大丈夫、大丈夫だから、義人。大丈夫、ごめんね。大丈夫だよ、大丈夫だよ」
後ろから抱き締めて、体重を掛けて、暴れる腕を掴もうともしたのだが、どちらか一方の手で義人を封じ込める事はできなかった。
「助けて、助けて、久遠ッ、久遠!!」
「ごめんね、一緒にいたいんだよね、ごめんね。ごめんね」
「、、、」
その様子を、義昭は唖然として見つめていた。
「義人、大丈夫だよ。大丈夫だよ」
「助けて助けて助けて、久遠、助けてッ」
壁に当たって爪が割れた。
けれど、そのままもがいて床や壁を引っ掻くせいで、至る所から血が出始めている。
ピッ、と飛び散った細かな赤い水滴がその辺に散らばった。
「義人、大丈夫だよ。ごめんね、大丈夫だよ。もう大丈夫だからね」
「久遠、どこ、久遠、久遠、ッ、久遠、」
「大丈夫だよ、大丈夫だから」
違う声だ。
いつも「大丈夫」って言ってくれる声と、高さも、優しさも、何もかもが違う。
義人は求め続けている藤崎の声が聞こえない事も焦りに変わり、パニックになって、ダラダラと涙を流して、口から唾液を溢れさせて暴れた。
「久遠ッ」
一緒にいたいだけなのに、一緒にいると家族が壊れる。
こんなにも自分を大切にしてくれて、庇ってくれて、助けてくれる家族をぐちゃぐちゃにしてしまう。
けれど、藤崎を離す事ができない。
義昭が言うように、きっとお互いを自由にして、お互いに男女の恋をして結婚した方が、きっと世の中に溶け込めて一端の幸せを掴める人生を送れる筈なのに。
もしかしたら藤崎のその幸せを壊しているのも、義人かも知れないのに。
家族も同性の恋人も欲しいなんてわがままを言い続けて、藤崎を離さず、この問題に巻き込み続けている自分は酷い人間なのかも知れないのに。
「ひとりにしないで、」
暴れる体力がなくなった義人はぐったりして動かなくなった。
昭一郎が取ってきたタオルを濡らし、口や怪我をした指先を綺麗に拭くと、たっぷり水の入ったコップを咲恵が持ってきた。
そしてまた、義昭がたまに使っている睡眠改善薬を義人に何とか飲ませ、家族3人で、意識を手放していく義人を見つめた。
『女の子に生まれさせてあげられなくて、ごめん』
眠りに落ちる手前で、彼はまたその言葉を思い出した。
「、、、」
本当だ。何で、俺だったんだろう。
そんな事を考えた。
「く、お、、ん、、」
今、そばにいて欲しかった。
義人からしたら味方のいないここではなく、自分達の家にいたかった。
(もうだめだ)
もう1回、大丈夫だと言って欲しかった。
もう1回、好きだよ、と言って欲しかった。
一緒にいるよって、今、言って欲しかった。
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