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第119話「入院」

左手の正中神経を切っていたので、縫合手術はしたが、親指、人差し指、中指に後遺症としてしびれや麻痺が残る可能性があること。 長い期間のリハビリが必要なこと。 義人は病室まで来てくれた眼鏡をかけた吉野と言う担当医師にそれらの説明を受けた。 「あと、」 「はい」 藤崎から見ても、家族から見ても、そのときの義人は落ち着き払っていた。 何かスッキリしたようなそんな顔だった。 それは、腕を切ったからだとか、家族の前で自殺を企ててやっただとか、みんなに注目してもらえただとかの達成感を感じている、そう言う事で落ち着いている訳ではない。 自分の考え方や感じ方、どうしても治らない謝り癖の話しを再度藤崎に打ち明けて、話し合い、やめようと思えたからこその「やっと終われる」と言う顔だった。 「今回の件は自殺未遂、と言うことになってしまうので、今日から3日はまたご自分を傷付けてしまわれないか様子見で入院して頂きます。このままこのお部屋で大丈夫ですか?」 「あ、、はい」 チラ、と椅子に座る藤崎を見つめたが彼に小さく「大丈夫だよ」と言われて、次に反対側にいる母を見つめたがやはり「そうしよ」と言われて、義人はコクンと吉野に向かって頷いた。 「ではこのままこちらで3日、入院です。それから、」 眼鏡をクッと指先で押し上げ、吉野はカルテを見るのをやめ、真っ直ぐに義人を見つめた。 彼は40代後半くらいの年齢の男に見える。 物静かそうで落ち着いていて、どうやら義人と藤崎の関係も承知の上であるようだった。 「義人くんがもし今後、またすぐにここまでの怪我をご自分に負わせたり、もっと酷いことをするようなら、私の判断かご家族にお願いする形で、精神科に入院させてしまうことも可能なんです」 義人は無表情のまま吉野を見ていた。 そうか、そんな事もできるのか、と素直に感じていたが、それ以上は何も思っていない。 家族に無理矢理に入院させられるだとか、そんな不安はもう考えないでも大丈夫だろうとわかっている。 そしてやはり、死のうとしたと言う重たい事実が目の前にあるのだなと再度自覚した。 「私たちにもご家族にも、貴方が望んでいなくても貴方を守る権利があります。ご自分を傷つけてしまうなら、私たちは貴方から貴方を守らないといけません」 「、、はい」 「死にたくないリストカットとは違い、貴方がしたのは自殺未遂ですよ。分かっていますか」 「はい」 彼の返事を聞いて、藤崎は離していた義人の右手に手を伸ばして握った。 「、、、」 生きているからこそ聞ける言葉。 生きているからこそ伝わってくる藤崎の温もりや肌の感触。 吉野の言葉に義人の心は傷付くという事はないが、反省せざるを得なかった。 助けられたからこそまだ手を動かせる可能性が残った事も理解していなければならない。 きっとこれから先、永遠に、心に刻んでいないといけない事だった。 「もしお辛いならここの心療内科でもいいですし、以前行かれた鰐渕メンタルクリニックさんでもいいです。一度、相談してみて下さい」 「はい、ありがとうございます」 淡々と答える彼を見て、咲恵はホッとしていた。 入院と聞いて、ここに義人を1人きりにする事に対しては少し不安があったのだが、先程藤崎と2人きりのときにしていた会話も効いたのだろう、義人のハッキリとした表情は信用できそうだな、と思ったのだ。 「では、後はご質問などございますか?」 「いえ、大丈夫です。ありがとうございました」 「はい。では、退院のときにまた少し手の様子を見ましょう。痛み止めは朝、晩で飲んで下さい。もしそれでも痛むようならもう少し強いのをお出ししますから仰って下さい」 「はい」 頭を下げると、「お母さんだけ宜しいですか」と咲恵が吉野に呼ばれる。 一緒にいる看護師も連れて3人で病室を出ると、廊下の少し離れたところで話し始めた様だった。 「あ、何か食べていいか聞くの忘れた」 「ん、ああ、ホントだ」 義昭は17時になる前に、義人に会う事も、藤崎に会う事もなく、今はただ辛くて耐えられないからと立ち去ってしまっていた。 義人の無事が確認できた時点でホッとしていて、家でゆっくりしたいと言われ、咲恵もそうした方が良さそうだからと彼を帰らせた。 それを伝えても、義人は顔色を変えずに「そっか」と言うだけで終わった。 「、、、」 「昭一郎、大丈夫だよ」 不安そうに俯いていた彼に話し掛けて、義人はやんわりと笑った。 ベッドから1番離れた椅子に座っている彼は、暗い表情のまま顔を上げる。 昭一郎的には義昭が帰ってしまって義人と義昭が話し合えなかった事も納得いっておらず、加えて、義人がこの先自分を傷付ける保証はどこにもないのだと不安で思い悩んでいる。 「もうしないから」 察した義人の声だった。 「そんなの、」 信じられない。 と言いかけて口を閉ざす。 責め立てたり親に告げ口のような真似をしたり、なのに今度は義人を守ろうとしたりする自分が無責任に思えて苦しくなった。 「大丈夫だよ」 「あ、」 「させないから」 力強く答えたのは藤崎の方だった。 「四六時中見張るからさ」 「四六時中、、?」 昭一郎を安心させようとニッコリと笑った藤崎の横顔を見ながら、義人は握り合った手の小指をピク、と動かした。 彼の言う「四六時中」とはどう言う事か、と不審で不安な表情になっている。 「風呂もついてって見張るし、トイレも見張る」 「トイレも!?」 「しばらく刃物持つの禁止にするし」 「えっ」 「その手じゃ料理の手伝いも無理でしょ?」 「あ、うん」 「髭剃りも俺がやる」 「え、それは勘弁して、」 弟の前でなんて事を言うんだ!!と言うよりも、どちらかと言えばトイレまで付いてこられるのが嫌でそちらに反応してしまった。 やると言ったら容赦なく実行する癖がある藤崎に対してとんでもない不安が募って来ている。 トイレと髭剃りだけは勘弁して欲しい、と言い返したかったが、そこまで信用できなくなる様な事をしたのは自分だから、と義人の頭の中はぐるぐるしていた。 できたらトイレと髭剃りは嫌だ。 「あははっ」 「?」 そんな中、昭一郎は2人の会話を聞いて気が抜けたのか、ケラケラと笑い出した。 「ふふ、うん。大丈夫そう、だね。藤崎さん、兄のこと、宜しくお願いします」 「うん」 ひとしきり笑うと満足したのかそう言って、ペコ、と頭を下げる。 義人を信じられるかと言えば不安は過るが、この藤崎と言う男がまた彼に自分を傷付けさせるような事を許すかと言うとそうは思えなかった。 風呂場であんなにも必死に義人の名前を呼んでいた彼なら、と昭一郎は肩の力を抜いて、彼を信じようと思ったのだ。 「昭一郎くんさ、今度遊ばない?」 「え」 不意に口を開いた藤崎は、絡めた義人の指をにぎにぎと握って遊びながら昭一郎に視線だけ向けて問うた。 キョトンとする彼に対してニコッと笑う様を見ると、「あ。これ意地でも遊ぶ気だな」と義人は遊ばれている自分の手を見下ろして息をつく。 どうやら父親以外の外堀から埋めて佐藤家への侵略を始める気らしい。 義人が望む「恋人も家族も」をどうにか叶えようとしている様は流石の藤崎だと思いつつ、また、彼の気配りに頭が下がるばかりだった。 義人が大切だからこそ、無理をしない環境を整えようとしているのだ。 「夏休み中に、どう?」 「、、、」 「義人と友達も入れて。あ、うちの両親の店来る?」 「あ、、い、行ってみたいです」 前から気になっていた、2人の全てを受け入れている藤崎の両親と言う存在に興味を引かれた。 昭一郎は思わず「行く」と返事をしてしまってから、ニヤッと笑った藤崎の怪しい笑顔に気が付いた。 「あ」 「決定〜!」 「うわ」 容赦なく決定になった。 「じゃあ、また明日来るね」 「無理しなくて良いって」 「無理なんかしてないよ。それに、明日はあいつらも来るって」 「あー、謝んなきゃなあ」 軽食は取らせてもらえた。 そうは言っても、個室での飲食の許可が降りたので藤崎が外のコンビニまで行って買って来てくれたサンドイッチ等を腹に入れたくらいだ。 食べ終わってすぐに痛み止めも飲んだ。 麻酔が切れて、段々と鈍い痛みが手首に出始めていたのだ。 午後20時で終わる面会時間ギリギリまで藤崎は義人の病室にいた。 咲恵と昭一郎は19時まではいたのだが、夕飯を作らなければならないと言うのもあって先に義昭の待つ家まで帰っていった。 駅からしばらく歩く病院であった為、咲恵は藤崎にタクシー代を出そうとしたのだが、それはやめて欲しいと彼が言って断ってしまった。 「まあ、迷惑かけた分は謝った方がいいけど、何度も言うことはないよ」 「うん」 恭次が協力してくれた事までは義人も把握している。 2人きりになってから、藤崎がここ最近の事を全て話してくれたのだ。 「大丈夫?」 「うん。お前出てったらすぐ寝る」 「手は?痛い?」 「さっきの痛み止め効いて来たから大丈夫」 「ん」 そうは言っても、義人はずっと左手を動かなさいようにしていた。 痛みが走るのも怖かったし、動かしづらくなっていると言う現実を受け入れるのは明日にしたかったのだ。 携帯電話は明日、昭一郎が届けてくれる。 だから今日はこの病室で別れたらそれっきり連絡も取れなくなる。 藤崎としてはもう義人が自分を傷付けたりはしないだろうと思ってはいるが、また離れる事に関して不満があった。 友人達がいるとは言え、1人きりの家に戻るのも嫌だった。 「本当は1人にしたくない」 「ん、、ありがとう。大丈夫だよ」 「て言うか、俺が1人無理」 「んはは、そっちかよ」 ギシ、と音を立てて義人の乗っているベッドの端に座り、彼を見つめた。 真っ黒な瞳は昨日と違って澄んでいて美しく、見つめていると離れがたさが強まってしまう。 義人の肩に額を押し付けて、はあ、とため息をついた藤崎は、彼の耳元でそっと口を開いた。 「キスしていい?」 「ん、んん」 恥ずかしがった様な、ハッキリしない返事が返って来た。 「何か久々、」 「3日ぶりだよ」 肩から額を離すと、真っ赤になった義人の顔を満足げに眺める。 「そっか、んっ」 恥じらって視線が泳いでいる内に、チュッと唇を重ねる。 ビクッと彼の肩が跳ねるのが、何だか久々に見る光景で面白く、そして愛しかった。 「ん、、」 「帰って来たら、セックスしようね」 「あ、あのなあっ」 その言葉に真っ赤になったまま、義人はギャン!と怒る。 しかしそれすら可愛らしくて、藤崎はニヤニヤするだけだった。 「1人でしちゃダメだよ」 「しねーよバカ!!」 「ナースに夜這いとかされないでよ、、」 「されねーよバカ!!」 「本当に〜?」とからかうような視線を向けると、一層、義人が眉間に皺を寄せる。 「俺とするまで射精我慢ね。3日」 「えっ、?あ、分かったから、あんまチューすんな、」 「勃つ?」 「おい」 「ごめんごめん」 しつこく頬にキスをしていると、嫌になったのか肩をグッと押し返され、義人の身体から離される。 しかし、顔を覗き込んでみると図星だった様で、また頬が赤くなっていた。 「明日もずっといる。朝から来る。だから今日はゆっくりしてね」 「うん」 堪らなくなって手を伸ばし、義人の頬を撫でる。 気持ち良さそうに視線が細まるのが、藤崎からはよく見えた。 「じゃあ、明日また来るね」 「ん」 「おやすみ、義人」 「おやすみ、久遠、、もっかい、チューして」 「ん」 最後にもう一度だけキスをした。 いつものようにねちっこくもない、可愛らしいくらいに軽くて、ゆっくりしたキスだった。

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