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第1話

 備え付けの鉛筆でさらさらと書かれた「来宮吉野」という字は、線が細くて強い癖もなく、行内に過不足なく収まっていて、端的に言ってきれいだった。ノンフレームの眼鏡に癖のない黒髪は、数か月前に配られた新入生一覧の表に写っているものよりも、艶があった。A4サイズの保健室の来室ボードには学年とクラスと名前と来室理由を書く欄がある。盗み見ると、来宮はやはり学年の欄に「1」と書いていた。小柄だな、と思っていたけれど、そういえば制服の袖が少し長い。そしてその手は、いちばん右端の来室理由で、一度ぴたりと鉛筆が止まった。 「?」  上からボードを盗み見していた三島の意識も、そこでぴたりと止まる。来室理由に困るというのは、サボりか何かだろうか。でも今は放課後だ。学校に居たくないのなら、帰ればいいだけの話だ。内心小首を傾げる保健医の三島律を、来宮はちらりと一瞬だけ上目遣いで見上げてきた。ほんの数秒目が合っただけなのに、どきりとした。眼鏡のレンズの所為で中和されているけれど、肉食の獣の目をしていた。  そうやって三島の盗み見を咎めたつもりなのか、そのあとは来宮は何の躊躇いもなく、「傷口が膿んだ」と書いた。「膿んだ」なんて書けるんだ、と関心する。大抵の生徒は日常に関係の薄い漢字をまだ書けない。 「傷? どこ? 大丈夫?」  ボードを渡された三島は、ボードと来宮の間を目線を行ったりきたりさせて尋ねる。華奢なからだだけれど、見たところ怪我らしい怪我はしていない。きちんと着た制服の肘も膝も汚れていないし、剥き出しの頬にも手のひらにも傷口らしいものはない。もしかして、腹や背中だろうか。一瞬「暴力」という単語が頭を過ぎる。これは三島の印象でしかないけれど、この来宮という少年が、ただ殴られて大人しく保健室に来るタイプとは思えなかった。 「ん。ここ」  来宮はさらさらと流れる黒髪を掻き上げて、隠れていた右耳を露わにする。「げ」と内心三島は呻いた。耳朶といわず耳介といわず、恐らく軟骨にもピアスホールが開いていた。拡張をしている様子はなくて、それには安心した。 「うち、ピアス禁止なんだけど」  確か校則でそう決まっていた。なんとか返した三島が内心引いていることに気付いたのか、来宮は唇を片方だけ上げて笑う。 「だって開けたんだもの」  そうして切りそろえた右の爪先で、耳介の上の方の一箇所を指さす。そこは最近開けたらしく、ぐずぐずと膿んでいる。 「うっ」  今度こそ声が出た。来宮が髪を掻き上げ、上目遣いに一歩近付いてくる。捕食する獣の態度だ。 「先生、ピアス、苦手なんですか?」  来宮はくすくすと笑う。射程距離内に入った獲物をわざと泳がせて、遊んでいるのだ。三島は反射的に一歩後ろに引いた。そのさまも来宮には面白かったらしい。 「うちの学校、ピアス禁止なんだけれど」  辛うじてもう一度、そう言い返した。誤解のないように言っておけば、三島は別にピアスホールが苦手ではない。内緒で穴を開けたはいいけれど、この時期に膿ませてしまい保健室に駆け込んでくる生徒はいる。それが苦手だったら、この仕事はやっていられない。  苦手なのは寧ろ、この来宮吉野という生徒だ。人には本能的に苦手な人物がいる。三島にとって来宮がそれだ。出会ってまだ数分だけれど、それは明白だった。人を草食獣や肉食獣に例えることをほとんどしたことがないけれど、三島にとって来宮は間違いなくネコ科の肉食獣を思わせる。 「先生が言わなきゃ、バレませんよ」  僕、優等生ですから。  来宮は優等生然とした笑顔を作って見せた。黒髪を今どき珍しいくらい遊んでいる様子はなく、長さも耳が隠れる程度だ。ノンフレームの眼鏡が優等生といった体に一役買っている。制服だって、シャツは第一ボタンまで閉めて、ネクタイも緩んでいない。どこからどう見ても優等生だ。三島に見せた態度は一体何だったのか、と思わせられる。  しかしその態度は三島相手だと、ころりと変わるようだ。 「せんせぇ、痛いんです。しょーどく、してくれますよね?」  いつの間にか三島のパーソナルスペースに入り込んで、三島の胸のすぐ下に移動した来宮は窺うように、三島を試すかのように耳を見せつけてくる。耳には色とりどりのイミテーションの宝石のピアスがいくつもはまり、その中でひとつだけ控えめなプラチナのピアスがあった。その周りが赤くなっている。どうやらそこが膿んでいるようだ。三島はひとつ、溜め息を吐いた。 「うち、ピアス禁止なんだけど」  さらにもう一度繰り返しながら、消毒液を浸した脱脂綿で傷口を消毒する。保健医の仕事は生徒の心身の不調に対応することであって、例え苦手な生徒であっても差別することはない。処置用のスツールに腰かけている来宮にも、三島が保健医として深入りすることはないだろう。  バッドの上で消毒液に浸した脱脂綿をピンセットで摘まむと、件の傷口に軽く押し当てた。 「痛っ」  来宮が眉を顰めて抗議してきたが、知るか。この時期に不衛生な状態でピアスホールを開ける方が悪い。  脱脂綿の先に、汚れた血がついた。それを膿盆に捨てる。 「これに懲りたら、校則違反してまで穴開けんのをやめなさい」  呆れた、と言った体で返す。校則違反をしてまで、ピアスを開けたい理由とは何だろう。大人社会への反抗、の割りには来宮は教師受けがよさそうだ。ファッションの一部、という程自己主張の激しい服装もしていない。理解はできないけれど、生徒だってひとりの人間である以上、何かしらの理由はあるのだろう。深追いはすまい。  そう思っていたのに、 「せんせぇ、僕、何でピアス開けてると思います?」  右側の髪の毛だけ耳にかけて、来宮は座ったままピアスのついた耳を強調してくる。黒髪と色の白い肌に小さなピアスがきらきらと輝いている。不覚にもきれいだな、と思ったとき、それらのピアスがすべてシンプルな女性ものだということに気付いた。 「え? は?」  そんな唐突なことを言われても、三島は今日はじめて来宮に会ったのだ。そんな来宮のピアスに関する癖なんて知るわけがない。戸惑う三島に、来宮は実に優等生然とした笑顔を返してきた。 「これはね、今まで好きになった人なんです。忘れないようにピアスにしている」  思わず来宮の耳を彩るピアスの数を数えてしまった。いち、に、さん、……、五個。今回のプラチナを入れれば六個か。十六歳にして、恋多き少年だな、と変に感心してしまう。でもなぜそれを三島に言うのだろう。まあ、誰かに言いたいことはあるし、そのために保健医はいるのだ。  三島が自己完結していると、さて、と言いたいことを言い切ったらしい来宮は、スツールから立ち上がった。手に鞄を持って、帰宅する気でいる。それでいい。三島は大人だから、来宮の幼い恋心をどのように表そうと、本質的なところで知ったことではない。でも大人として忠告はしておく。 「うちの学校、ピアス禁止だから、その方法は勧められないな」  扉へと向っていた来宮のローファーが、きゅっと床を鳴らして振り返った。 「じゃあ、どうすればいいの?」  また、来宮は肉食の獣が獲物で遊ぶときの目をした。 「僕ね、せんせぇが好きなの。どうすればいいか、教えて」

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