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第2話

 それからきっかり一週間後の放課後、来宮吉野は保健室の扉をノックした。相変わらず折り目正しく「失礼します」と頭を下げて入室する姿は、優等生然としていた。ネクタイすら曲がっていない。三島は内心ぎくりとしたのを、悟られないように取り繕う。  この一週間何か気になって、来宮のことを調べてみた。中学校では成績優秀で、この学校にも推薦で受かったらしい。今は図書委員をしていて、授業態度も真面目、他の教師からの受けもいい。欠点らしい欠点は出てこなかった。それからなぜ自分は来宮の欠点を探しているのか、と頭を抱えた。来宮に欠点があると嬉しいのか? 否。ただみすみすあのネコ科の肉食獣のおもちゃになるのも癪だと思ったのだ。  そして今、またその俎上にいる。のどが渇く。手にしている書類に、無意識に皺が寄る。それでも平静を装った。 「どうした、来宮?」  声は妙に作ったものではなく、適度にリラックスしていて、「生徒が悩みを打ち明けやすい」声色になっているはずだ。先手を打ったつもりだったけれど、来宮は嬉しそうに笑って口を開いた。 「わぁ、覚えててくれたんですね、先生。ねぇ、せんせぇ、お返事下さいよ」  後ろ手に扉を閉めて、来宮はちょこちょこと三島の元にやってくる。三島は「うっ」と椅子に座ったまま一歩、二歩、後退する。椅子の背はすぐに窓際の壁にぶつかった。それを見た来宮が薄く目を細めたのを、見逃さなかった。 「来宮……」  背中は、開け放した窓から運動部の健全な掛け声が聞こえてくる。正面には薄く笑う、捕食性の獣の本性を隠さない来宮がいる。逃げ場がない。  来宮が小柄なからだをさらに三島に近付けて、覆い被さるようになる。耳元に来宮の息がかかった。 「せんせぇ。まさか、忘れてないですよね? もう一回言いましょうか? 僕、せんせぇが好きなの」  僕、せんせぇが好きなの。  どこか舌足らずな口調のくせに鼓膜にねっとりと残る声だった。 「……っ」  反射的に来宮の顔から耳を遠ざけると、来宮はくすくすと笑った。 「せんせぇ、耳弱いんですか? 名前、呼んであげましょうか?」  来宮は三島で遊べて楽しそうだ。だけれど、三島は保健医で、来宮は生徒だ。その線引きはきちんとしないといけない。 「来宮、君は生徒で、僕は保健室の先生なんだよ」  だから恋愛の相談にはいくらでものるけれど、僕を恋愛対象にしても何も報われることはないんだよ。僕が君に恋することはないのだから。  そういう、もう手垢のついたマニュアルのようなことを懇切丁寧に来宮に説明する。来宮は三島の話を頷いて聞いていたようだけれど、素直に納得したわけではないらしい。 「でも、それ、そういうマニュアルなんでしょ?」  と言われる。「せんせぇの気持ちを教えてよ」  目をきらきらとさせた来宮の爪先で、三島は遊ばれている感じがする。三島の気持ち。それは一介の生徒に対して抱くような、特別なものはない。来宮に対しては少し苦手で手が焼けるだけの、それだけの生徒だ。一見優等生のようでいて、その実右耳はピアスホールが六個空いている。それは好きになった人の数だとか。このまま三島が来宮ときっぱりと縁を切れば、来宮は七個目のピアスホールを開けるのだろうか。そして平然と三島の元を訪れて消毒を要求するのだろうか。三島は言われた通りに諾々と消毒するのだろうか。そして、八個目のピアスホールが空いた報告を聞くのだろうか。 「ねぇ、せんせぇ」と少し舌足らずに三島を呼び、他に恋した人の話を嬉しそうにするのだろうか。なんだか未練たらしいような気もするけれど、それはとても健全な保健室のありかただ。 「それは健全な保健室なんじゃないかな」  答えた瞬間、ガツッと椅子のキャスター部分を蹴られた。眉を寄せて眼鏡越しでも不機嫌な顔の来宮と、三島が相対するかたちになる。最初に保健室に来たときとは逆で、来宮が上から三島を見下ろしている。 「僕、保健室の話なんてしてない」  どうやら来宮はそういう話を望んでいないらしい。どちらかというと、七個目のピアスホールになりたいのか、と訊かれそうだ。何と答えようか。一方来宮は何を思ったのか、にぃと悪い顔で笑う。 「せんせぇに、特別にピアス、触らせてあげる」  来宮は存外穏やかな口調で、三島の左手をとる。この手を振り払うと来宮はショックを受けそうだったから、されるがままになる。来宮の手はまだ未発達で、三島よりも骨格も細い。  その手に誘導されて、露わになった来宮の右耳に触れた。冷たい耳介をなぞる。来宮の肩がふる、と小さく震える。ピアス部分を強く触るのは躊躇われて、上からそっとなぞるだけにすると「せんせぇ、ちゃんと触って」と叱られた。  耳朶についた小さな丸いピアスを指先で撫でさせられると、「これは僕のはじめて好きになった人」と説明された。「三日だけ付き合ったんです」柔らかな声だ。  それらきらきらと輝く小さなイミテーションの宝石は、指先で触れるとぼこぼこと歪で、来宮の恋愛がきれいなだけではないのだろうな、と予想させられた。 「ねぇ、せんせぇが最後のピアスになってよ」  三島が来宮の右耳をくまなく触り終わるのを待って、ねだるような口調で来宮が言う。それは十六歳がするには壮大過ぎて、逆にチープに聞こえる告白だ。可愛らしくてつい小さく笑ってしまう。それは来宮の機嫌を僅かに損ねたようだ。 「……大人はそうやって笑うんだ。子供と大人って何が違うの」  ぷぅと頬を膨らませてむくれる来宮を、はじめて年相応で可愛いと思った。そして恋した数だけピアスホールを開けるという行いも、三島を落とそうと必死なところも、幼くて可愛らしい。  そして思考はスライドし、なんとか間違った道を歩むことなく、この十六歳を純粋なまま大人にしてあげたいと思ってしまった。そこに三島は関与してはいけない。いけないのに、三島の手で導きたいと思ってしまう。 「大人は悪いことを知っている。子供は知らない」  まだ何も知らない来宮吉野を、この手で三島の色に染め上げたら、やっぱり教員は失格だろうなぁと頭の片隅で思う。そうやって迷っている時点でもうだめなのだけれど、三島はそれには敢えて目を瞑る。  椅子に座って、さて目の前の来宮からどう切り抜けようかと考えている三島の首に、するり、と来宮が腕を回す。まだ擦れていないブレザーの袖の感触が首すじを刺激する。そして、すとん、と三島の膝の上に座った。軽い。やっぱり子供だ。前回の三島の反応に味をしめたのか、また三島の耳元に顔を寄せる。 「律せんせぇが悪いこと、教えて?」  意味をわかって言っているのだろうか。それは十六歳が考えた最上級の垂らし込みだと思うと、危うさと可愛らしさしかない。さすがに声を出して笑うと、来宮が露骨にむっとした顔をした。 「まだ子供扱いする」  だって実際子供じゃないか。悪戯心が疼いたので、試しに「ごめん、ごめん」と言いながら、来宮の眼鏡をそっと外してやる。それを机の上に置いて、突然のことに膝の上で固まってしまっている来宮のシャツのボタンを外していく。未発達な胸部に手のひらを添えてみる。来宮の様子を窺うと、見事に硬直していた。ほら、こんなことも知らない。子供じゃないか。片手で顎を掬って「もっと、する?」と意識的にいつもより低い声で尋ねてみると、来宮はかぁぁと頬を紅潮させた。 「……僕は、先生がしたいなら、いいです」  蚊の鳴くような声だった。そこにどんな意思や葛藤が働いたのだろう。不安と恐怖もあっただろう。  三島はだめな人間だと伝えたかったのに、来宮は先程までの捕食者の目はどこへいったのか、潤んだ目で三島を見上げている。  ああ、もうだめ。教員と生徒だとか、大人と子供だとか、その他なんだか色々な倫理規範みたいなものが、高速で三島の頭の中を過ぎっていく。けれどどれも抑止には働かない。まだ何も知らない来宮吉野の最後のピアスになりたいと思ってしまった。この子がいろんなことを知るための一助になりたいと願ってしまった。 「ごめんね」と来宮の身なりを整えてやって、眼鏡を手渡すと来宮は自分でかけた。それから膝から下ろすと、来宮はちょっと不安そうな顔で三島を振り返る。体よくあしらわれて退室させられると思っているのだろうか。ここが最後の分岐点だ。三島が平穏な日常を送るか、来宮吉野という捕食者の餌食になるか。三島は迷わず、華奢で成長途中の背中を後ろから軽く抱き寄せた。 「せんせ……っ」  本気で暴れれば三島の腕から簡単に逃れられるだろう。けれど来宮はそれをしなかった。わたわたと動揺する来宮のさらさらの頭を撫でて、宥める。ついでに隠れている左耳を露わにすると、予想通りそこにはピアスのひとつもなかった。 「こっちにピアスはしないん?」  ほんのりと赤くなっていく耳介が初々しい。 「そっちは、」  まあ、両耳に開けたら目立つしね。  本当の理由は知らないけれど、「来宮のピアスになりたいんだ」と言ったら、来宮の剥き出しの左耳も頬も真赤になった。 「でも、うち、ピアス禁止なんだよね」  だから、これで。  がぷ、と来宮の薄い耳介に歯を立てた。 「……っぅ」  来宮が押し殺した悲鳴を上げる。痛いだろう。鶏の軟骨を噛んでいるような、違うようななんともいえない感触だ、などと思う。それなのに三島を振り払うようなことはしなかった。  散々こりこりと噛んで口を離すと、つ、と透明な唾液が短い糸を引いた。 「僕専用ピアスホールってことで」  三島に噛まれたばかりの左耳を手のひらで覆った来宮吉野は、顔を真赤にした。そして無言でこくこくと頷くと、三島の腕から逃れて保健室の出口を目指す。その背中に、「これでもまだ僕が好き?」と尋ねる。  来宮は真赤な顔で振り返ると、「好きに決まってますっ」

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