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第3話

 雪下はるひは一年生で図書委員だった。来宮吉野と同じだ。雪下はどうやら先程まで「図書室便り」なるものを書いていたらしい。今どき手書きで書くことの意義はともかく、雪下の丸字は女子に受けている。長い前髪はヘアピンで留めて、やる気はありそうに見えるのだけれど、その実数分おきに船を漕いでいる。手にしたペンが落ちそうで落ちない、絶妙なバランスを保っている。眼鏡の奥の睫毛は開く気配もない。よく寝るな、と来宮は頬杖をついて雪下を眺めている。来宮はその膝の上に参考書を拡げていて、委員会の仕事は雪下に丸投げだった。けれど頭の中身は参考書にも寄っていなかった。  先生に会いたい。  バランスよく机に突っ伏して、来宮は小さく溜め息を吐いた。開けた窓の向こう側ではグラウンドを周る運動部のかけ声が聞こえてくる。この声は保健室でも聞こえているのだろうか。  五月の終わりは、半袖のワイシャツを着るには寒くて、長袖のシャツを着るには少し暑い。中途半端な季節だ。ましてネクタイなんて締めていたら首回りの汗がすごいことになる。いっそ、もっと暑くなって熱中症にでもなれば保健室に行く口実もできるのに、などと不埒なことを考える。  去年、この高校を見学に来たときは暑かった。五月なのに日差しは夏のそれで、まだ冬服の制服で来た来宮はすぐにばててしまった。不慣れな校舎の中で、なんとか体育館に行く渡り廊下を見つけた。頃合いよく木も植わっていて、日陰ができている。来宮はそこへ逃げ込むようにして、腰を下ろした。  暑い。溶けてしまうんじゃないかってくらい、暑い。いっそ溶けてしまった方が楽かもしれない。鞄から取り出した下敷きをぺこぺこ鳴らして、顔に風を送る。けれど生暖かい空気が対流するばかりだった。暑さで脳の回転数も落ちる。  そこへ誰かの近付いてくる気配がした。あ、大人だったらこんな格好見られたら点数が下がるな、と思った。けれど、もうどうにもならない。 「君、何してんの?」  案の定大人の、教員だろうか? が上から声をかけてくる。黒髪を両側に流して、額が露わになっている。頭のよさそうな額のかたちだった。来宮を見下ろす目は柔和で、きっと怒っているわけではなさそうだった。手にはなぜかコンビニの袋を提げている。 「いえ、ちょっと」  ちょっと、何だと言うのだろう。ばててしまって? そんな言い訳、サボりだと思われないだろうか? もごもごと語尾を濁していると、清潔そうなシャツを着た大人はしゃがみこんで来宮と目線を合わせた。骨張った大人の手が額二触れる。ひんやりとして気持ちよかった。肩のちからが抜ける。 「君、随分暑いね」  熱中症かな、保健室においで。そう言って三島は、今よりもまだ小柄だった来宮を立ち上がらせた。 「大丈夫? 歩ける? 無理しないで」 三島は来宮を支えながらのんびりとした歩調で、保健室らしき部屋を目指した。 「君、中学生? 来年、うち、受けるの?」 「もしかして校舎の中で迷子になっちゃった?」  保健室までの道すがら、三島は来宮の緊張を和らげるためか、色々なことをきいてきた。それに来宮は適当に答える。どうせこの学校は第一志望じゃないし。きっとこの先生にも二度と会わない。  屋外に比べれば格段に涼しい廊下を、何を話して歩いたのか覚えていない。それでも保健室に着くと、上着を脱がされた。本来なら氷嚢なんかを冷やしておくのだろう冷蔵庫から、恐らく私物の麦茶を取り出して、振る舞われた。なんだか手厚く介抱されていて、もう大分良くなってきた来宮には居心地が悪い。「大丈夫ですから」と言うのに、今度は「アイス食べる?」と冷凍庫から私物のアイスクリームまで出てきた。 「いいです、いいです、大丈夫です」 来宮が恐縮していると、三島は目を細めて笑った。 「君、志望校替えちゃいなよ。うちにおいで。これは取引のアイスだから」  そう言って、来宮の目の前に付属のスプーンで掬った大振りのアイスクリームが差し出された。 「なんでそんなこと言うんですか?」  三島の手の中のアイスクリームのカップと、目の前に差し出されたアイスクリームに途方に暮れていると、三島は穏やかに答えた。 「なんかの縁でまた君に会えるのもいいんじゃない──ってアイス溶けるよっ?」  三島が慌てて来宮の口元にスプーンを押し付ける。これはもう食べなくてはいけない流れではないか。おずおずと舌先を差し出して、溶けかけの零れ落ちそうなひとしずくを舐めとると、三島は満足そうな顔をした。 「それ、僕を口説いてるんですか?」  無垢を装って小首を傾げる。今度はげほ、と三島が大きく噎せた。 「先生が本気で僕を口説いてくれるなら、僕はまた会いに来ますよ」  レンズ越しの目を細めて、唇を薄っすらと左右に引く。来宮にできる精一杯の大人の表情を作ってみた。これで引くような教師なら、この学校は受けなくていいかな、と思った。なのに、 「……けほっ、僕は君を口説けないけど、君が口説きにくるのは問題ないよ」  そう言って、大人のくせに子供の悪戯の時のような顔をする。胸の中に何かが落ちる音がした。来宮の中の捕食性の生き物が、三島を狩りたい、と思ってしまった。 「でもどうせ、僕のことなんて忘れちゃうんでしょう?」 子供っぽく無理難題を言ってみる。それには「そんなことないよ」と三島は答えた。なのに、一年後、志望校を変えてこの高校に入学したのに、三島は来宮を覚えている様子はなかった。 「せんせぇにとって僕ってなんなの」  ぶすぅと不機嫌な顔で拗ねてみせる。実は端から来宮には三島を口説き落す権利なんて、なかったのかもしれない。あれは三島のその場限りの言葉遊びのようなもので。そう考えたら何だか腹が立ってきた。子供だと思って。実際子供の扱いをするし。それなのにあんなにきつく耳介を噛まれた。思い出すとまたじくじくと痛む気がする。 「僕はどぉすればいいの」  ぷぅぷぅと文句を垂れ流すけれど、隣の雪下はまだ起きる気配がない。日は傾いてオレンジの陽射しが差し込んでくるけれど、「図書室便り」が進む気配は一向になかった。

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