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第4話

 来宮吉野。四月に配布された新入生一覧の中に、二センチ×一センチの小さな顔写真が載っている。整髪剤を使っていないんじゃないかというさらさらの黒髪に、ノンフレームの眼鏡をかけた、絵に描いたような優等生だ。それなのに性格は捕食性の動物で、三島を転がして遊ぶ。 「はぁ」  保健室の仕事用のデスクの上で、溜め息が出る。思い出すのも居た堪れない。丁度この席だった。あのときは完全に場の空気に飲まれてしまった。十歳も年下の生徒相手に何をしているのか。それでも舌先が小さな耳介の感触を思い出そうとしてくるので、三島は慌てて電子タバコを咥えた。舌にフィルターのリアルな感触が上書きされる。 「はぁ」  今度は溜め息と一緒に、紫煙も吐き出す。 「来宮吉野、ねぇ」  一年前はその名前を知らなかった。その日はまだ五月だというのに真夏のような暑い日だった。だから三島の脳もちょっと溶けていた。溶けていた、としか言いようがない。コンビニ帰り、校門から校舎まで遮るものの何もないグラウンドを抜けていると、ふらふらと歩く人影があった。小柄で、学ランを着ていて、明らかに学校見学に来たらしい中学生だった。  見つけたのはたまたまだった。まだ冬服の制服を着ていた彼は暑さによる脱水で、ふらふらになっていたらしい。中学生の来宮は今よりもさらに小柄で、でもやっぱり優等生然としていた。その癖、変わったことを言う。 「先生が本気で僕を口説いてくれるなら、僕はまた会いに来ますよ」  一年経っても未だに耳に残っている。子供には不釣り合いな大人の表情が妙に印象的だった。それには何と答えたのだっけ。「僕は君を口説けないけど、君が口説きにくるのは問題ないよ」とか何とか言った気がする。 「まさか本当に来るなんて思わないじゃないか」  しかもあんな乱暴さが許されて堪るか。普通の挨拶ができないんじゃないか、と心配にもなる。  そこで、かた、と扉が開いた。 「来ちゃいけませんでした?」  扉の付近で疑問符を投げかけてきたのは、今いちばん会いたくない来宮吉野だった。内心苦虫を噛み潰した気持ちになる。実際にフィルターを軽く噛んでしまった。 「あ、タバコ吸ってます? 禁煙じゃないんですか?」  しっかりと扉を閉めて、室内に誰もいないことを確認してから、来宮が言う。用意周到だ。三島は口元から電子タバコを離した。 「口外無用にしてくれ」  タバコを吸ったあとの口の中がいつもより苦い。 「こーがいむよー」  意味がわかっているのかどうなのか、幼い呂律で来宮が繰り返す。そして三島の席に近付いてきた。三島が身構えると、その手から電子タバコをす、と抜き取る。  持ち慣れていない、グリップ部分をぎゅっと握り込んで、まだ熱の残るフィルター部分を来宮は躊躇うことなく咥えた。一瞬だった。 「きのみ、」  慌てて立ち上がり、その手から電子タバコを奪いとる。 「タバコって苦いんですね」  けほ、と空咳をして、げ、と来宮は舌を出す。当たり前だ。 「子供は吸っちゃいけないんだよ」  急いで電子タバコからフィルター部分を抜き取る。普段は吸わないから、油断していた。  来宮は今も苦そうな顔をしていたけれど、三島と目が合うとにんまりと笑う。そっと人差し指を一本立てて自分の唇に触れたあと、その手を背伸びして三島の口元に持ってきた。 「これで間接キスですね」  先生のキスは苦いんですね。などと言う。子供だ。  ふふ、と小躍りしそうなその手を掴む。 「そんなことのためにタバコを吸ったのか」  三島が厳しい顔で接していても、来宮はどこ吹く風だ。「だってせんせぇ、キスしてくれないでしょう?」  当たり前だ。  嬉しそうだった来宮が急に真面目な顔になって、レンズ越しにまっすぐに三島を射貫いてくる。三島の方がたじろいでしまった。 「せんせぇはいつも僕を子供扱いする。僕はこんなに頑張ってるのに」  掴んでいた手を解かれ、手をとられて指を絡められる。三島と比べると、小さな手だ。 「ほら、これで手も繋ぎました」  慌てて繋いだ手を解く。来宮が残念そうな顔をしたのちに、一歩、一歩と三島との距離を詰めてくる。三島はじりじりと壁との距離を近付けていった。 「来宮、」  わかれよ。お前は頭がいいんだろ。思春期特有の同性愛的感情と、大人の三島の感情は違うのだ。そう言いたい言葉がのど元までせり上がってきた。そう言っても来宮は「また子供扱いする」と言うのだろうか。なんと言ったら、来宮は納得するだろう。  迷っている内に、窓際まで追い詰められてしまった。そういえば前回もこんなふうに追い込まれた気がする。そこで来宮の右脚が宙に浮いた。蹴られる、と思い身を固くする。けれどからだへの衝撃はいつまで経ってもこなかった。代わりに背後の壁がだぁん、と蹴り上げられる。来宮の制服のスラックスが三島の腿のあたりを掠めている。 「せんせぇ」  また捕食者の目をした来宮が、下から三島を見上げてくる。それから癖のない黒髪を耳にかけ、ピアスホールの開いていない左耳をくっと、左手で引っ張って見せつけてくる。そこは三島が先日噛んだところだ。来宮の六個のピアスに嫉妬して、無垢な左耳を独占したかった。 「せんせぇが好きなの。噛んで」

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