「せんせぇが好きなの。齧って」 　眼鏡のレンズ越しでもわかる、挑発的な目付きの来宮に三島は動揺した。くっと強調された無垢な耳介は、先日三島が歯を立てたところだ。 　なぜ動揺したのか。はじめは苦手なタイプだと思ったから。来宮に遊ばれていると思ったから。でもそれは本音から目を逸らしていることに、いい加減認めないといけないかもしれない。 　中々諦めない来宮をなんとか帰したあとの保健室は夕日が差し込んでいて、そろそろ保健室も閉める時間になっていた。来宮の所為で滞っていた今日の分の書類を、いい加減片付けてしまわなければいけない。それなのにしつこく頭の中を来宮が掠めていく。あの捕食性の生き物の目を思い出す。 　あと十年遅く生まれていたら、その魅力にきっと手籠めにされていただろう。今だって篭絡されそうなのだ。来宮吉野は三島律の憧れだ。ああいうふうにありたかった。好きな人にまっすぐに「好き」だと伝えられるくせに、歴代の恋を記録している未練たらしさ。三島は今まで何人に恋をしただろう。その内気持ちを伝えられずに、記憶から消した人は何人いただろう。そんなの、数えたくない。それなのに来宮はそれをイミテーションの宝石で、飾っている。 「根は強い子なのかな？」 　三島は来宮をそう分析する。 　そして過去の恋愛の数を数える代わりに、本日の来室者の人数を数えて、日誌に記録していく。ボールペンで、よく几帳面だと言われる文字を丁寧に写していく。一年生が何人、二年生が、三年生が、といったふうに学年ごとに集計する。気になった生徒の名前は、その事柄と一緒に備考欄に記載する。 　ボールペンの先が「来宮吉野」と書こうとして、やめた。これは三島の個人的な問題だ。来宮を可愛いと思ってしまう。やることなすこと強引なのに、それらひとつひとつは未熟なプライドで裏打ちされている。三島が手酷いことをするなんて、考えてもいない。 「だから子供なんだ」 　守りたいな、と庇護欲を刺激される。あんなに無防備でいたら、いつか悪い大人に捕まったときにどうするんだ。けれど三島が手を伸ばせば、三島がその「悪い大人」になってしまうのだ。悩ましい。そんな三島に対して、吸えもしない電子タバコを咥えて、間接キスなどと言う。発想が幼い。間接キスなんて、大人になってしまえば特別でもなんでもなくなってしまう。 「やることが子供なんだよ」 　そして三島はその子供に振り回されている。三島をその爪先で転がしておいて、いつでも狩る余裕があるように見せるのに、その実三島に反撃されることなんて考えてもいない。危なっかしいといったらない。そうやって思考は堂々巡りをする。 　認めてしまえば楽なのだ。来宮吉野が好きで、大事にしたくて、そして時には手酷いことをしてみたい。そんなとき来宮がどんな表情をするのか、見てみたい。どんな声で「せんせぇ」と少し舌足らずな声で三島を呼ぶのか、聞いてみたい。 「重症だな」 　溜め息を吐いて、書類を引き出しにしまう。今日の業務は終了した。来宮のことも明日以降、また考えればいい。相手は十五、六歳の子供だ。好意の向く先なんて、すぐに変わっていく。明日には別の誰かが好きになっているのかもしれない。三島のその考えに、三島自身がほんの少し傷つく。これは本当に重症だ。 　荷物をまとめて、保健室の扉を施錠する。廊下はすっかり暗くなっていた。人の気配もない。なのに近くで声がした。 「せんせぇ、一緒に帰りましょ？」 　やや舌足らずな話し方。来宮だ。姿を確認する前に確信してしまった。さっきまで散々来宮のことを考えていたのだ。それでも声のした方へ顔を向けると、三島の視線のあたりに癖のない黒髪の頭頂部が見えた。黒髪の下には、今は影を潜めたネコ科の鋭さのある目が眼鏡の奥にある。すっと通った鼻すじの下の唇は、来宮曰く先程間接キスをしたばかりだ。一瞬来宮のことを考え過ぎて、幻覚を見ているのかと思った。 「……来宮？」 　恐る恐る尋ねると、「はい？」と返事が返ってくる。両手に鞄を持って、澄ました顔が優等生らしい。それにしてもなんでいるんだ。そもそも生徒は帰宅している時間帯じゃないのか。それには来宮が答えてくれた。 「僕、図書委員なんです。さっきまで雪下くんと『図書室便り』作ってたら、司書さんに追い出されちゃいました」 　そう言って来宮は恥じ入ったように頭を掻く。今さら猫を被ったような来宮の態度には、違和感しか覚えない。 　と、思ったけれど、それは気の所為だった。 「なので、送って下さい、せんせ」 　まっすぐに三島を見上げる目は、もう既に獲物を前にした捕食者のそれだ。断られるなんて思ってもいないだろう。第一三島の方も、これはせめて最寄り駅までは送った方がいいのではないか、と思っている。 　はぁ、と三島は溜め息を吐いた。今日はこれで何度目だろう。 「駅までだから。あと、次からこういうの、なしだから」 　来宮は生徒であって、庇護対象であって、三島の恋愛対象にはならないのだ。なってはいけない。だから線引きをきちんとしなければいけない。「えぇぇ」と不満げな顔をする来宮を諫めるときも、三島からからだに触れることはない。 「内申に響くんだろ？　優等生」 　通勤用のスニーカーに履き替えていると、「せんせぇ、スニーカーなんですね」と来宮のチェックが入った。なんだか革靴でないことで、ちゃんとした大人だと思われていないのか、と変なことが気になる。来宮の方はそんな気はないらしく、むしろ三島に「優等生」と言われたことに照れていた。 「ふふ、すっごく気を付けますから、大丈夫です」 　そう言って何気ない動作で、来宮は左耳に黒髪をかけた。どきりとする。三島の位置からでは、そこに噛み痕があるのかどうかわからないけれど、気が気でない。万一他人に見られたら、何と言い訳をすればいいのか。 「来宮」 　慌てているのを悟られないように、名前を呼ぶ。「はい」と、こちらの意図も知らずに顔を向けた来宮の無垢な左耳に手を伸ばす。三島から生徒に触れることはしたくないが、これは別だ。つるりとした耳介に指先が触れる。そして耳にかけていた髪を下ろした。 　他人にもしも噛み痕が見られたらどうするつもりなんだ。三島の噛んだものだと知れたら、もう来宮には会えない、どころではない。 「これは、秘密、で」 　押し殺した声で、そっと髪の上から耳を撫でると、来宮は暗がりでもわかるくらい顔を赤くした。 　ああ、誤解させたな、と後から気付いた。