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1.隠れ水
ぬけるように高く晴れた青空に白い鳩が舞い上がる。先触れの楽隊がリズムを叩き、行進曲の前奏が響く。
緊張するな。
――と、八歳の王子、アピアンは自分にいいきかせる。目の前にいるのはこれから自分が乗る馬、鼻白の鹿毛だ。つややかなたてがみは編みこみにされ、蹄はぴかぴかに磨かれて、パレード用の頭絡と鞍をつけた晴れがましい姿である。
パレードは隣国から訪れる姫君を歓迎するものだ。姫君はアピアンの父である現王の後添いとして王国へやってくるのだった。つまり姫君は、アピアンを産んでまもなく亡くなった王妃のかわりに、いずれアピアンの母親になるはずの女性である。妻を亡くして悲嘆にくれた王が後添いをとらないことに周囲は何年もやきもきしていたが、やっと姫君を迎えられることになり、王城は陽気な雰囲気に包まれていた。
パレードの行列はたいした長さではないし、距離もたいしたことはない。王宮から王城を抜けて、城下をすこし練り歩くだけだ。アピアンは父王の馬のあとに騎士団長とならんで続くことになっている。行列は世継ぎである王弟殿下、飾りたてた近衛騎士と王城警備隊、そして楽隊とつづく。規模は小さいながらも華やかで、姫君を迎えるにはふさわしい。
アピアン以外の者は準備がほぼ終わっているようだ。行列の末端にちらりと視線を流し、アピアンはため息をつくのをこらえる。騎士団長の馬はまだ乗り手を待っているが、そのすぐ近くに少年が二人いる。
騎士団長と自分のすぐあとに貴族の子弟が二人ならぶというのは、子供が行列にひとりだけいるのがちぐはぐだという、アピアンにはよくわからない配慮によって決められた。父王が直接アピアンに告げたのだ。
「同世代の友がいればおまえも落ちつくだろう。大丈夫だからな」と。
友、だって?
アピアンは内心そう思ったが、ききかえしたり、ましてや口答えなどしなかった。「はい、父上」といつものようにおとなしく答えただけである。
父はそんなアピアンをみつめて、何かいいたそうな目つきになったが、それ以上の言葉はなかった。これもいつものことだった。
アピアンの母を亡くしてから、父王は何年もふさぎこんでいた。それでも国政には熱心に取り組んだが、王子のアピアンにほとんど注意を向けなかった。少なくともアピアンには幼児のころから父の膝に抱かれた記憶はない。
この小さな王国はよその大国とちがい、王の一家は親密な家庭を築くのが伝統だった。現王のように、たった一人の息子によそよそしいのは異例のことで、周囲の人間たちもいささか気にしていたらしい。
父王はともかく、王宮の人々はアピアンをいつくしんで育てたが、アピアンは八歳になった今も父王に距離を感じていた。強い魔力があれば精霊魔術師のように王の真意を感じることもできるのかもしれなかったが、王の家系は精霊魔術が使えるような魔力を持たないのがふつうで、アピアンも例外ではなかった。
そんな王の様子が変わったのは昨年の冬のことだ。王宮の噂では、長年の喪が明けたように王が快活になったきっかけはこれから迎える隣国の姫君なのだという。
きっかけはどうあれ、王はアピアンにこれまでになかった注意をむけるようになったが、それは「暗い夢から醒めると一夜にして赤ん坊が少年に変わっていた」とでもいいたげな、困惑に満ちた注意で、アピアンの方も途惑わせることになった。今回のパレードで王が行った「特別な配慮」にしても、アピアンにはその意味がわからなかったのである。
なにしろアピアンの意識には「同世代の友」など存在しなかったのだから。
アピアンのうしろに並ぶ少年のうち、ひとりは見たことのある顔だった。父親の貴族とともに王に拝謁したのを覚えている。もうひとりは初めて見る顔だった。
体格はアピアンとあまり変わらないが、引き締まった顎や爽やかで意思の強そうな目鼻立ちだ。馬の扱いは慣れているらしく、馬の方も少年が真剣な面持ちでたてがみをいじるのを許している。――と、その真摯な顔がふとそれて、アピアンの方をみた。
視線が絡みあったのはほんの一瞬のことだった。しかしアピアンはどぎまぎして目をそらした。同世代の子供とほとんど接していないせいか、こんな時にどうしたらいいのか、アピアンにはよくわからなかった。
もうすぐ出発だ。鹿毛は八歳の子供にも御しやすい体高と穏やかな気質で、アピアンが騎乗するのは初めてではない。恐れる必要はどこにもない。こんな喜ばしい日に失態を演じるなんてことはありえないし、何も起きないように準備されている――はずだ。
それなのに、自分の馬のそばにいるアピアンは、きっととんでもないことがおきる、とひそかに恐れている。馬が怖い――わけじゃない。恐れていたのはただひとつ……。
「殿下」
少年の声に突然声をかけられてアピアンは飛び上がりそうになった。ぐっとこらえて「なんだ」と返す。
「よろしければお手伝いさせてください。あぶみの確認を?」
すぐそばに立っていたのはうしろにいた少年二人のうちのひとり、今日が初対面の方だった。からかうような調子はみじんもなく、真摯な表情がアピアンをとらえた。
「あ、ああ。大丈夫――だと思うが」
アピアンはなんとか王子の威厳を保とうと試みる。
「そうですね。問題ありません」
少年はあぶみと鞍を確認し、馬の背に手をあてた。賛嘆の色がちらりと浮かび「きれいですね」という。
アピアンは少年が見守る前で馬にまたがるのを一瞬恐れたが、相手はアピアンを安心させるようにうなずいた。
「どうぞ」
アピアンはためらったが、出発はすぐだ。あきらめて手綱に手をのばし、たてがみと一緒に握った。あぶみに左足をかけ、鞍に手をかけて右足を踏み切る。乗馬で苦手なことはいくつもあるが、ここが最初だ――あぶみに立ってまたがるまで颯爽とやれれば気持ちがいいのだろうが、一度でやれたためしがない。無様に何度も試すことになる。
今日もそうなると嫌だ、という思いがちらりときざした。
誰もが簡単にできていることをできないなんて、自分は王子にふさわしくない、まちがっている、と思われるのではないか。
こういった公の場に出るたびに、齢八歳にしてアピアンの心を占めるのはつねにこんな恐れだった。齢八歳にして、アピアンは悲観的な子供だったのである。
――しかし。
今日はなぜか体が軽い? 一度の踏み切りで体が上にあがり、アピアンは一瞬であぶみの上に立っていた。すばやくバランスをとって馬の背をまたぐ。視界が一気に高くなる。
思いがけずうまくいったことにアピアンは興奮した。ほっとしながら鞍に腰を落ちつけ、手綱を握りなおしたとき、少年がにこりと微笑んで下がったのが見えた。
あっ――馬上でほっとしたのもつかの間だった。アピアンはすぐに気がついた。体を持ち上げた時、触れて押し上げた手があったのだ。きっとあの少年が力を貸してくれたにちがいない。
かすかに頬が上気するのを感じたが、少年はもうそばから消えていた。アピアンは馬上でふりむき、彼が黒鹿毛にひらりとまたがったのを認めた。馬はアピアンのそれより高く、少年と同様に俊敏な目つきをしている。
ふりむいたアピアンに少年は目でうなずいた。何もかもわかっている、といいたげに。
なんだ、この――
アピアンは手助けの礼を返そうと思った――はずだった。
それなのに少年のそんな様子をみたとたん、なぜか、自分でも理不尽に感じるような怒りと苛立ちがむくむくとわきあがったのだ。
あとで思えばそれは、少年の方が「勝っている」と感じたせいかもしれなかった。あるいは自分が「負けている」と感じたせいかもしれない。とにかくアピアンは――気に入らなかったのである。
礼どころか、アピアンはふんっと顔をそむけ、前方に姿勢をあらためた。ちょうどよく出発のラッパが響いた。
――それが、王国の第一王子アピアンとセルダン・レムニスケートの、最初の出会いだった。
アピアンとは逆に、父王はセルダンをひと目で気に入ったようだ。
少年と再会したのはパレードの翌日、レムニスケート家の当主が隣国の姫君に拝謁した時だった。父王はレムニスケート当主に全幅の信頼を寄せていた。子供のアピアンにもわかるくらいだから、宮廷では周知の事実だった。当主は少年を「甥のセルダン」だと紹介した。
「昨日のパレードにいた騎士団長がこの子の父で、私の兄になります」
あいつ、騎士団長の息子だって?
広間の一角におとなしく座っていたアピアンははっとして背を伸ばした。中央では姫君が意外そうに目をみひらく。
「お兄様が騎士団長様で、当主があなた?」
「レムニスケート家の当主座は一族の合意によって選ばれるのです。我々は長子や血統にこだわらない伝統です。ずっと王家に仕えるために」
「レムニスケート家は王国の礎だ」
父王が姫君に機嫌よく話しかける。こんなに上機嫌な王をみたことはあったかと、アピアンはこれにも目をみはる。
「王城の防備は彼らによって鉄壁のものとされている。遠い昔、祖先とともに王城を築いたのも、レムニスケートの最初の九人だった。セルダン、といったな。将来はどうしたい? 父や叔父のように、この国を守る騎士になるか?」
アピアンがじっとみつめるなか、少年は完璧な――少なくともアピアンにはそうみえた――礼をして、はきはきと答えた。
「はい。いずれ父や当主に追いつきたいと思います」
すこし高めの子供の声なのに、落ちついて思慮深く響いたのは気のせいか。
父王は顔をほころばせた。
「頼もしいな。昨日のパレードでは息子のうしろにいただろう。アピアン?」
アピアンはあわてて立ち上がった。
「父上」
「きっとおまえたちはよき友になるだろう。人生で何よりも重要なものだ」
父王の言葉はセルダンへ投げかけられたものだった。アピアンはただ、聞いていたにすぎない。少年は顔をあげ、王に正面から答えた。
「大変な光栄です、陛下」
「アピアン、聞いたか?」
父王は嬉しそうに笑い、姫君も微笑んだ。
しかしアピアンはむしろ「友」という言葉に苛立っていた。よき友になるだろう、と王がいったのは、単に自分がセルダンを気に入った、というだけのことにすぎない。彼がアピアンの友になれるかなんて、どうしてわかるのか。
セルダンにも腹が立った。昨日のパレードのとき、彼の無言の手助けはアピアンのひそかな恐れを払拭してくれたにもかかわらず、である。助けてもらったという後ろめたさや劣等意識も働いていたのかもしれない。
それでもアピアンはこれらのもやもやを飲みこんで、いつものように父王に返事をする。
「はい、父上」
こうしてセルダン・レムニスケートは「王子の友人」とみなされることになった。おたがいにどんな感情を抱いているのか、抱くようになるのか、知ることもなく。
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