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2.狼の息子
「おまえもいよいよ見習いか。あっという間だな。ついこの前までこんなだったのに――」と、大柄な騎士が手のひらをぐいっと押し下げる。
「いつのまにかでかくなりやがって。俺を追い越すなよ」
セルダンは笑顔で答えた。
「あなたを追い越す? そんなこと、できるかなあ」
「まったく、すぐに追い越してやるって顔してるぜ」
騎士団長の部下のひとりで王城警備隊の隊長であるガスパールは、セルダンにとって齢の離れた兄のような存在で、だからこそこんな軽い口を叩けもする。ガスパールは平民の出身で、剣と警備隊の采配の腕ひとつでこの立場まであがってきた。セルダンがガスパールと出会ったのは十歳にもならない頃で、この騎士はそのころ、貴族の子弟に武術を教える稽古場で剣の師範役を担当していた。
「まあ、おまえはレムニスケートだからな。背丈はともかく、俺をさっさと追い越すくらいがちょうどいい」ガスパールはさっぱりした口調でいった。「指揮官なんて面倒な役目は早く譲りたいもんだ」
「本気でいってるんですか?」
気を許した人間に対する冗談だとわかっているので、セルダンは笑いながら問いかける。ガスパールはにやにやと口元をゆるめた。
「考えてみろ。俺なんかもとは剣を振り回したい一心で警備隊に入ったんだぜ。なのにうっかり隊長になった日には、剣さえ振り回せばどうにかなると思ってる脳筋どもに毎日毎日悩まされてる」
「俺も早くそうなりたいです」
「レムニスケートのくせに?」
ガスパールはセルダンの背中を遠慮なく叩いた。十五歳の体は大人の男の筋力によろめいたが、セルダンの足元はたしかだった。十五歳。そう、今日からセルダンは騎士見習いだ。
「騎士見習い。そうか、おめでとう」
王宮でアピアンに報告すると、王子は最初あまり感情のこもらない声でそう返した。勉強の最中だったらしく、膝には分厚い書物が広げられている。邪魔になったのではないかとセルダンは思ったが、王子は膝の書物を閉じて机に置き、両腕をあげて軽く伸びをした。
「まず見習いで、次は正式に騎士団員か。それからどうなるんだ? 近衛騎士になるのか?」
セルダンと同じく十五歳になったアピアンは、王よりも亡くなった王妃に似た線の細い風貌だった。まっすぐな薄い栗色をした髪は窓からの光で金色に透ける。眸は濃い翠色で、これも亡き王妃によく似ていた。椅子に座っていても、剣の稽古を欠かさない肢体は若木のようにのびやかだ。うなじにかかる後れ毛が窓を吹き抜ける風に揺れる。
「その前に警備隊でしょう。聞いた話によると、見習いは訓練の合間に使い走りで駆けまわることになるらしいです」
答えながら自分の身内にふと熱がこもるのを感じて、セルダンはそろりと視線をずらした。うっかり王子をみつめすぎてしまったのではないかと危惧したのだが、王子は気に留めた様子もない。閉じた書物の表紙をぽんぽんと指で叩いている。
「それは何ですか?」
「魔術の基礎だ。おまえは立派な騎士見習いで、三年もすれば一人前なんだろうが、私は王立学院行きだよ」
アピアンはうんざりしたように顔をしかめた。
「たいした魔力もないのに学院に行くとはな。私も騎士の家系に生まれればよかった」
王立学院は本来、魔力が常人より多いものが魔術を学びに行く場所だ。王政に関わる精霊魔術師や施療院の治療師、それに回路魔術師も、王立学院で学んで魔術師の称号を得る。だが若年の王族は魔力の多寡と関係なく王立学院で学ぶことになっていた。なぜなら――
「王家の方は精霊魔術に特別な素質をお持ちですから」
セルダンの言葉にアピアンは皮肉な笑いを浮かべる。
「政策部の魔術師に対して鈍感であることが素質というのも、変じゃないか?」
「そうでなければ王国を治めることはできないのでしょう? 精霊魔術に惑わされず、物事の真贋を見定めるのが王族のあかし――と、叔父もよくいいますし」
生きとし生けるものは多かれ少なかれ魔力をもつ。魔力が強い者は精霊魔術が使える――これは心から心へと力を行使できる魔術である。王家は「魔力」の強さについては、精霊魔術師にまったく及ばない。しかし王の血統は精霊魔術に対して特殊な防壁を築く才能があった。
王は精霊魔術にあざむかれず、正しく統治をおこなうことができる。だからこそこの国の王の血筋となったのだ。
だがアピアンはふんと鼻を鳴らし「レムニスケートの答えはいつも完璧だな」と茶化すようにいっただけだった。
「本に鼻をつっこんでるのも飽きる。おまえは騎士見習いになって、私の相手なんかできなくなるだろうし」
「今日は大丈夫です」
胸のうちに温かいものがあふれるのを感じながらセルダンはいった。
「手合わせでも?」
「手合わせ?」アピアンはセルダンに流し目をくれる。
「おまえ、わざと負けるだろう」
「まさか」
王城には貴族の子弟向けに乗馬や武術を教える訓練場がある。八歳で「王子の友人」と認められてから十五歳の今日まで、セルダンがアピアンともっとも長く過ごした場所だ。
とはいえ、最初の謁見の時から王に気に入られたおかげで、セルダンは少年のころから王宮への出入りを許されていた。王宮にはアピアン王子と同世代の若者は数人しかいなかった。王族に近い貴族には、アピアンと同世代の息子を持つ者が少ない。過去に猛威をふるった疫病が原因である。
疫病で親しい存在を失ったせいもあるのだろうか。王は最初から、アピアン王子とセルダン・レムニスケートが友人となることを望んでいたようだ。そこには王がセルダンの父の騎士団長をはじめとした「レムニスケート」におく信頼も大きく作用しただろう。アピアンと出会ったときのセルダンは、子供ながらに、レムニスケートの家名とともに自分にもあたえられた信頼の重みが嬉しかった。
もっともアピアン王子の方は、最初からセルダンを友人扱いしていたわけではない。今でこそセルダンにいくらか内心を吐露するようになったが、こうなるまでには訓練場でくんずほぐれつする日々が必要だった。
その日々のあいだに、セルダンの心に何が育っていったのか、王子は知る由もないだろう。
「おい、レムニスケート。一度くらいはわざと負けてみせろ」
片手に木剣をさげ、肩で息をしながらアピアンがいう。屋内の訓練場にはセルダンとアピアンのふたりしかいなかった。防護用の面を外したアピアンの顔から汗がしたたる。木剣を立てかけると湿った髪を両手でかきあげ、室内にいたときとはうってかわった、あけっぴろげな顔で笑った。それを正面からみたとたん、セルダンの心臓が大きく脈打つ。
「わざと負けるのは嫌なんでしょう?」
セルダンも肩で息をしていた。「でも、あぶなかった」
「ふん。おまえはどうせすぐ強くなる」
アピアンはセルダンの右肩をこぶしで突く。「私が学院で、自分じゃ使えもしない魔術だなんだと格闘しているあいだにな」
セルダンの心臓がまた大きく、速く脈を打った。さりげなく王子から半歩引きながら、セルダンはそっと呼吸をする。そう、今後はこうやって王子を間近でみることも少なくなるだろう。
きっとこれは幸運なのだ。いつ自覚したのかも定かでない、大きくなる一方の思慕と欲望をうっかり漏らさないために。
自分はレムニスケートである。いずれは正式に騎士団に所属し、王都の防備を担う者として、父や叔父の責任を受け継ぐ。
「王子の友人」であっても、臣下のひとりであることに変わりはなかった。この感情は表に出すべきものではない。
レムニスケートの最初の九人は石工と盗賊と兵士だった。
我々は荒野の狼だった。しかし、おなじ王家に忠誠を誓う者としてきずなを結び、そのきずなによって、一族となった。
幼少期からセルダン・レムニスケートにそんな物語を話してきかせたのは彼の叔父、つまり現レムニスケート当主である。
小国とはいえ、王家の支配のもとで繁栄と安定をほしいままにしているこの王国で、王都の防備を担うレムニスケート家は昔から他の貴族と一線を画す立場にある。レムニスケートの名を持つ人物は騎士団や王都の警備隊の要職につくことが多く、庶民のあいだでも武人の家系として知られていた。宮廷では回路魔術師団の塔と関係が深いことで有名だ。
回路魔術は魔力の通じる「回路」を含む装置によって、生まれつきの魔力をたいして持たない普通の人々にも、魔力の恩恵を与えることを可能にする。
そういった装置を使わず、魔力を直接人間に作用させる魔術は精霊魔術と呼ばれたが、これを使うためには相応の素質――生来の強い魔力と訓練が必要となるため、精霊魔術師になれる者は多くない。
一方で回路魔術はより庶民に近く、日常生活に必要な道具の多くにその機能が搭載されている。ほとんどの回路魔術師は王城にある師団の塔に所属し、王城の防備の魔術を担うだけでなく、魔術装置の開発や研究を行っている。
レムニスケート家が師団の塔と近い関係になったのは、一族の歴史を考えればそれほど古いことではなかった。それは三代前の騎士団長、クレーレ・レムニスケートが回路魔術師アーベルと懇意だったことにはじまる。
そもそも回路魔術という方法自体、それほど古いものではなかった。もとは回路魔術師アーベルの曾祖父の発明だといわれている。長い伝統を誇る精霊魔術と比較して、浅い歴史しかないにもかかわらず人々の生活を一変させた回路魔術だが、当初は精霊魔術よりずっと軽んじられていた。王国で回路魔術師の地位があがったのは、クレーレ・レムニスケートの尽力が大きいとみなされている。
レムニスケートの一族内部では周知のことだったが、クレーレ・レムニスケートと魔術師アーベルは同性の伴侶だった。性愛の対象が異性に向かなくとも問題がない、という空気が一族に生まれたのは彼らの影響が大きい。
クレーレは子を遺さなかったが、アーベルは魔術師の素養がある孤児を何人も引き取って育てた。レムニスケート当主の座はクレーレの死後、弟一家に継がれた。
おかげでレムニスケート一族では、性愛の対象に同性を選ぶことは特に問題とされなかった。一族の次代当主はいつも合議で決められたが、候補にあがるのは直系の男子にかぎらず、養子や女子のこともあったのだ。
重要なのは王国への忠誠に基づくきずなだ。きずなは血統で作られるとは限らない。
しかし王子を性愛の対象としてみるのは、これとはまったく別次元の大問題だった。
レムニスケートの忠誠は王家に――王の血統と統治に捧げられるものである。
たとえ王族であろうとも、特定の誰かに捧げられるものではない。
セルダン・レムニスケートはそう教えられて育った。
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