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3.約束の貨幣
「騎士となる者、前へ」
騎士団長が厳かに宣言し、正装に剣を帯びた若者の列が前進する。盾の金属が日光に反射してきらめく。膝をついて王の前で礼をした若者の名がひとりずつ呼ばれた。
「セルダン・レムニスケート」
その声をきいたとたんにアピアンの背筋はひそかに伸びる。だが叙任される騎士の列はアピアンのいる場所からは少し遠かった。王位継承順二位とはいえ、成人したての十八歳というだけで何の役目もないアピアンは、世継ぎの王弟殿下の斜めうしろのひな壇に座り、おとなしく控えているのだった。
騎士団の正装は甲冑ではなく、セルダンの男らしい容貌は陽の光の下にさらされている。襟元で徽章がちかりときらめく。
セルダンは剣を両手に捧げもち、王の前に膝をついた。深く頭を垂れると、王は剣にさらりと触れる。剣を捧げるセルダンの前腕は堅く筋肉がもりあがる。見習いとなって三年のうちに少年の体は急速に育ち、いまや大人の男にひけをとらない。
顔をあげ、立ち上がったセルダンの頬は興奮のせいか赤い。あらたに騎士となった十八歳に周囲から祝福のどよめきが漏れる。きりっとあがった眉が日に焼けた精悍な顔立ちを強調していた。もとの列へ戻るとき、セルダンはわずかに顔をそらし、目を泳がせた。
いったい何を探している?
そうアピアンが思ったとき、セルダンの顎がこちらを向いて、アピアンを正面からとらえた。一瞬だけ真摯なまなざしに射られたように思ったが、アピアンの気のせいだったにちがいない。叙任式の途中で気を抜くなんて、セルダンに限ってありえない。
それにしても、騎士服がずいぶん似合う。いつのまにか肩も胸も厚くなり、颯爽と立つ姿は列の中でもきわだっているように思えた。アピアンは叙任式を見守る人々――公式の出席者からそのむこうにいる見物客まで――にざっと視線を走らせる。王城のあちこちから来た見物客たちは楽しそうに騎士の列を眺めている。
人垣の先頭にいる若い娘たち数人がアピアンの目をひいた。セルダンの方を指さし、ひそひそとささやきあう三人。その隣にいる娘はお喋りに加わらず、ただセルダンをみているだけだ。いつもは若い娘に興味をもたないアピアンでもはっとするほど美しい。ふとさっきのセルダンの視線の行き先が気になった。自分をみつめる誰かを探していたのだとしたら……。
なんとなく面白くない気分になって、アピアンは騎士の列に視線を戻した。
騎士の正装は身につける者を一段大きく見せるのか、それとも正装によってこれまで表に出なかった部分が見えるようになるだけなのか。
ならんで王宮の回廊を歩くセルダンに人々の視線がちらちら飛ぶ。少なくともアピアンはそう感じる。王の執務場所にもその奥の王族の住まいにも、王宮には数多くの目がある。官吏や従者、身の回りの世話をする女官、王族の子弟の教育係、警備の騎士たち――彼らの中でもとりわけ、正装姿のセルダンを追う女たちの視線はわかりやすい。
この三年間のアピアンは、王立学院で人々のささいな行動が意味するものについて大いに学んでいた。もちろん王族に突出した素質である、精霊魔術へ抗する技術を磨くのも怠りはしなかったが。
「やはり、騎士ともなるとちがうな」
「何がです?」
この三年のあいだにアピアンの背はかなりのびたが、セルダンはもっとのびた。おかげで横へ流したアピアンの視線はすこし上を向くことになる。
「正装が似合うといったのさ」
「今日だけですよ。明日からは城下の警備隊に配属です。分隊の副官をおおせつかりました」
女官がテーブルに飲み物を置き、一礼して下がる。その目がセルダンをかすめるのをアピアンは見逃さなかった。王宮が出会いのきっかけになるのは珍しいことではない。ここに出入りする者には身元の保証があるため、結婚相手を探す場所としては悪くないし、王家も禁じてはいない。控えの間に戻ったあとは同僚と噂しあうにちがいない。
もっともセルダンはまっすぐ自分をみていて、女官の仕草には気づかなかったようだ。それにほっとしている自分にアピアンの心は波立った。レムニスケートが誰とつきあおうが自分には関係のないことだ。
「城下の警備隊ということは、いよいよ捕り物に加わるのか?」
「ええ。夜警も担当になります」
「つまりおまえは一人前というわけか。私は学院を修了しただけなのに」
意図せず自虐的な口調になったが、セルダンはとりあわなかった。
「殿下はいつか王国を背負う方ですから。私はただの土台です」
「レムニスケートはいつもそういう」
土台。セルダンに限らず、レムニスケート家の者は自分たちの役割を語るとき、つねにこの言葉を使う。レムニスケートの先祖が石工で、王城の建設にかかわったとされているためか、彼らにとってこの言葉は否定的な意味を持たないらしい。
たしかに王国の土台を維持するのは立派な役割だ。いつか訪れる王座を待つよりも、いま役割を担う方が重要なのではないか。アピアンの思考は近頃こんな方向へ動きがちだった。
アピアンは世継ぎではない。
世継ぎは父王の弟、アンダース殿下だ。彼は御前会議に同席し、政策部の精霊魔術師や審判の塔、騎士団長からの報告を受け、父王の右腕として王国を統治する重要な役割を果たしている。
アピアンの継承順はその次だ。いずれは何らかの役目を任じられるかもしれないが、王立学院を修了した今も父王に「今後は審判長からよく学ぶように」と告げられただけである。
今度は審判の塔か。アピアンはため息をつきたい気分だった。訴訟や犯罪の裁定を行う審判の塔は王国統治の要のひとつだ。王国の記録も審判の塔の地下で保存されている。いつか担う役割のために勉強することに異存はない。しかし八歳から知っている男が騎士の正装を身につけたのに、自分が単なる「王の息子」でしかないのは、面白いことではなかった。
だがセルダンはアピアンの鬱屈をどうとも思っていないようだ。
「レムニスケートは『お堅い』で有名なんですよ。土台らしく」
「ほんとうに? どうせ私の前だけで、あちこち遊びまわっているんだろう」
アピアンはさっきの女官の視線を思い出していったが、セルダンは顔をしかめた。
「どこからそんな話が出てくるんです」
「叙任式で誰か探していたんじゃないのか。おまえに見惚れていた女子もいたぞ。結婚相手にも遊び相手にも困らないようだな」
「誰か?」セルダンの眉がひそめられ、はっと何かに気づいたようにあがった。
「あれは――ちがいますよ」
ふん。アピアンの胸がちくりと痛む。
「お堅いレムニスケート。誰かいるなら私には早めに白状するんだな。片思いなら手を貸してもいい」
「まさか。ご冗談を」セルダンは困惑の表情を一瞬で消した。
「自分でどうにかしますから」
アピアンは肩をすくめ、テーブルに広げっぱなしのゲーム盤を指さす。
「レムニスケート、明日から城下だといったな。やるか? 訓練場でおまえと打ち合っても私は面白くないが、こっちは面白い」
「俺は面白くないですね。盤ゲームじゃ殿下に勝てたためしがない」
「いい勝負になることもあるさ。それとも入団祝いで負けてやろうか?」
「そんなつもりあるんですか?」
「まさか」アピアンは白の駒をとって並べはじめた。
「おまえに黒をやろう。先手でいい」
セルダン・レムニスケートの剣の腕は素晴らしいが、ゲームの腕はいまひとつだ。
十年か。黒の駒を握って考えこむ男と盤に交互に視線を走らせながら、アピアンは最初にセルダンに会った日のことを思い出した。八歳の時だ。現王妃がこの国を訪れた日だから忘れようもない。
いつのまにか無二の友人になってしまった。アピアンと親交のある若者(みな貴族の子息である)は他にもいるが、王によって「王子の友人」と認められているのはセルダン・レムニスケートだけだ。
父王はレムニスケート家に手放しの信頼を置いている。アピアンは学院で国の統治がどのようになされているかも教わった。父王の統治は前代――王の兄で、疫病に倒れたために三年しか王位にいなかった――やその前の女王よりも用心深く、守りに徹したものだった。
父王の信頼はたぶん、レムニスケートが王国の防備の要であることに由来する。だが十八歳のアピアンはその意味をいまだ実感できなかった。実感といえば、王家の一員としての自覚はあっても、いつか自分が王位につき、王国の行方を左右するのだという自負も、アピアンはどうしても持てなかった。
アピアンにとって、セルダンの最初の印象はあまりよいものではなかった。出会った日のセルダンは馬に乗るのをためらうアピアンをさりげなく手助けしてくれたのに、その気遣いが気に入らなかったとは我ながらひどい話である。しかし感情とはそういうもので、アピアンはその後もセルダン・レムニスケートの「いい子ぶり」が好きではなかった。その気持ちがだんだん変わったのは、ともに剣や武術の稽古をするようになってからだ。
もっともそのころからアピアンは自分自身の中に思ってもみない衝動を感じるようになった。アピアンとしては深く考えたくない衝動だったので、十五歳でセルダンが騎士見習いになったときは、顔をあわせる機会が減ることにすこしほっとしたくらいである。
「殿下。ちょっとお待ちください」
駒を手にしたままセルダンは指で盤の目を数えている。その仕草だけでアピアンは彼が何に迷っているのかわかるが、あえて表情に出さずにいう。
「いくらでも待つぞ。なんなら朝までな」
「殿下の冗談はきついですね」
きっと頭の中で駒をあれこれ動かしてみているのだ。アピアンの脳裏にはセルダンが打つ手はだいたい見えている。どれが来るかと考えていた時、セルダンがいった。
「殿下はどうなんです?」
「何の話だ?」
「その……」レムニスケートは珍しく口ごもった。「いや。何でもありません」
「はっきりいえ」
「何でもありません。俺としたことがお立場のことを忘れていました。申し訳ありません」
「何を……」いいかけてから気がついた。「私の結婚の話か。陛下が何かいわれたか?」
察せたのは近頃の父王がアピアンに向ける、一種の圧力のためだった。王立学院を修了する間際、実はアピアンは王に相談したのである。政策部で何か役割をもらい、国政の実務を学べないか、と。
だが王はアピアンの考えをよしとしなかった。逆に、実務に忙殺されるのは結婚して子をなしたあとでいいと強く語り、国政については審判長について学ぶようにと指示したのだった。
「いえ、ただその……」とセルダンはまたいいよどむ。「殿下に親しい方がいないかとはたずねられました。王宮で何も噂を聞かないからと」
「なんと答えた?」
「殿下が秘密にされているのなら、たとえ知っていても答えられないと」
「陛下にそんなことを?」
アピアンは思わず声をあげて笑った。
「レムニスケート、いい度胸じゃないか」
「俺は……」セルダンは目を伏せた。「そもそも何も知らないわけですが」
「陛下はなんといった?」
セルダンはあいまいに首をふった。いいたくないのだろう。アピアンはそれ以上追求するのをやめて「早く駒をおけ」と盤をさす。
「この局面でおまえが選べるのはここか、ここか、ここだ。いつまで迷ってる」
父王は第二王子だった。
女王である母の退位により即位した第一王子はわずか三年で疫病に倒れ、そのあとをうけて王となったのである。
今の王の慎重さからは想像もつかないが、アピアンの乳母の話によると、王太子時代の父王は快活でむこうみずな性格だったという。兄王子だけでなく、多くの人の命を奪った疫病は王の性格を悲観的にした。アピアンが生まれた時に妻をなくしたことも、この性格をより強くした。
王家の血筋を維持することがすなわち王国の安定だ、という考えに父王がとりつかれているのをアピアンはよく知っていた。だからこそ後添いとなる今の王妃を隣国から迎えたのだ。王と王妃の仲は円満で、十歳になる弟王子、メストリンを王は生まれた時から慈しんでいる。
王とメストリンがともにいる様子をみると、膝に抱かれた記憶もないアピアンは奇妙な感覚に陥るが、母である前王妃を亡くした衝撃がどれほど深かったのかと想像するくらいしかできなかった。王は壮健そのものだが、自分になにかあったときのことを考えると不安になるらしい。子のいない王弟殿下を世継ぎにし、アピアンとメストリンをその次に置いているのも、この不安のためらしい。
人はいつ死ぬかわからない。たしかにその通りだ。子をなすことは未来への約束の貨幣だと父王はアピアンに語り、国政などそのあとだといいきった。
未来への貨幣か。
セルダン・レムニスケートの指が動くのをみつめながらアピアンは金貨を思い浮かべる。子をなすことでしかそれが得られないのなら、自分は王家でもっとも貧しい人間となるのかもしれない。
なぜならアピアンは子をなせないからだ。
自分にとって同性以外は肉欲の対象にならないとアピアンが知ったのは、もう何年も前のことだ。腹立たしいことに目の前の男と訓練場でもみあっていたときだった。
同性を好む者はこの王国では少数派だ。それをあからさまにしたところで表立って非難されることはないし、王宮にもそんな者はいる。しかし父王がいったように王家の血統を遺す義務があるのなら、自分がそうだということは秘密にしなければ――そうアピアンが思い決めるまでに時間はいらなかった。素直に情愛を示されたことがなくとも、父王を失望させたくなかった。
セルダンは慎重に駒を置く。
「甘いな、レムニスケート」
アピアンは駒を動かし、セルダンの駒をとった。向かいに座る相手は唸った。盤の上に手を伸ばしたが、また迷っている。この男を困らせるのは楽しい。
セルダンの手首は太く、指は長い。その手が誰かの肌をなぞることを想像すると、アピアンの中にひそかな疼きが生まれる。こんな風に感じることもこの男に悟られてはならない秘密だ。それはアピアンの腹の底にたまり、使われない剣の錆のようにこびりついている。
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