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4.遊戯場で

「踊らないの?」  アピアンの前に立った女は胸元を凝った刺繍で飾っていた。背後でわきあがった弦の和音が打楽器に重なって、店の真ん中で踊りの輪が生まれた。女はアピアンよりかなり年上だ。刺繍の胸元は大きくふくらみ、襟元にはリボンの房が下がっている。  似たような問いは何度か経験していたのに、アピアンの返答は今度も遅れた。その隙に横に立ったエドガーが口をひらいた。 「アルは考えてから動くたちなんだ。俺はちがうけど」  女はエドガーに長いまつ毛をむけ、思わせぶりにまばたきした。 「友達はアルっていうの?」 「弟分さ。アルティン。俺はエドガー」 「いい名前ね」 「どっちが?」 「どっちもよ。アルティンって、昔の王様の名前と同じね」  アピアンはエドガーにめくばせし、半歩ひいた。 「俺はあっちで酒をもらうよ」 「そうか?」  エドガーはアピアンの答えを予想していたにちがいない。女の肘に手をかけて行ってしまったが、アピアンはむしろほっとした。  踊りの輪にふたりが加わるのを眺めながら、酒の追加を目で探す。王都の盛り場にあるこの店は、小さな扉には似合わない広さで、音楽と料理と人の匂いであふれていた。いかがわしい店ではないが、若者から壮年まで気晴らしを求める人々が連日集まると近頃王都で評判の場所だ。遅い時間は客が増えすぎて店の外にあふれ出し、警備隊が呼ばれることもあるという。  女に王の名だと言及されたのにはどきりとしたが、深い意味はなかったのだろう。数代前の国王だったアルティンは絵姿が売れるほどハンサムで人気があった。いまだにその名は忘れられていない。  しかし父はどうだろうか。自分は?  そもそも自分は王位につくことがあるのか?  そんなことを考えながらアピアンは人をかきわけるように進む。  襟元が気になるのは着なれない「流行の服」のせいだ。袖からはみだした大きなフリルも同様だが、盛り場で遊んでいる裕福な商家の子弟ならこの格好も標準というところ。髪と眉は水で落ちる色粉で黒く染めてぴっちりなでつけ、いつもならまっすぐ伸びているはずの背中も猫背ぎみにして、頬の内側に綿を入れる。簡単だが効果的な変装の心得だ。  王家の者に無縁なはずのこんな知識をアピアンが入手したのは、皮肉にも嫌々通っている審判の塔だった。現在のアピアンは父王に命じられたとおり、審判長のもと、塔で行われている様々な事柄を学んでいる。もちろん「変装の技術」を教えられているわけではない。審問にかけられた窃盗常習犯が、どうやって召使に化けてあちこちの貴族の屋敷を荒らしまわったか、とうとうと語るのをきいたのがきっかけだった。  一度興味をもって調べはじめると、審判の塔の地下書庫にはこの手の技術を詳細に記載した調書がいくつもあった。加えて王立学院で学んだこと――人間の目が肩書やふるまいによっていかに左右されるか――も、アピアンの「変装」の役に立った。  それでも最初はこっそり鏡の前で練習する程度だった。審判の塔と王宮を往復する毎日に退屈したあげく、ついに外へ――王宮の外、さらに王城の外まで――変装した姿で出かけるようになるには、多少の時間が必要だった。  審判長や学院の教師が聞けば頭を抱えたかもしれないが、城下の盛り場を歩く「アルティン」が生まれたのはこういう次第である。  二十歳の誕生日を目前にしても、いまだに公職のないアピアンは近頃すっかり倦んでいた。二年ちかく前に騎士になったセルダン・レムニスケートは城下の警備隊で活躍していると女官たちは噂したが、忙しいのか本人は王宮にめったに顔を出さない。  そんな折に「王子」の身分を隠して街をうろつくのはもってこいの息抜きだった。今日のつれ、エドガー・ジョーダンは、そんな息抜き中に知りあった陽気で見栄えのする若者である。物事を深く見通すたちではなく、アピアンのことは裕福な商人の息子で、暇を持て余しているのだと思っている。  ジョーダン家は係累の多い貴族の家系だが、エドガーは二十人以上いる当主の甥のひとりで、アピアンより五歳上なのにこれまた公職についていなかった。なにかといえば年上風を吹かせ、自分は世慣れているのだとみせつけようとするが、アピアンは気にしなかった。  たしかに自分は「世慣れて」などいない。でもこういう場所で飲み物を注文するやり方なら、もう学んでいる。 「興味なさそうだね」  しかし今日は、カウンターで酒を注文するとグラスとともにそんな言葉が出てきた。 「何が?」  アピアンは聞き返したが、内心どきりとする。酒を供しているのは女だが、エドガーを誘った女たちとは真逆の服装だった。騎士服に似た細身の上着を身につけている。 「お誘いだよ。友達はちがうようだけど」女は踊りの輪の方に顎をしゃくった。 「なんなら好みの仲間が集まるところ、教えようか?」 「いや……」  アピアンは困惑して口ごもった。まさか自分の性向がバレているのか? だが女は「お客さんには楽しんでほしいからさ」と、さっぱりした口調で続けただけだ。 「きみは精霊魔術を使えるのか?」  やっと思いついてアピアンはためらいがちにたずねた。 「いいや」女はきっぱり首を振る。「あんたの目だよ」  指をすっとあげ、横にずらした。「追ってるのはほら、ああいうのばかりだ」指がいくつかの背中をたどる。全員男の背中だ。長身で肩幅があり、首が太く、腰回りががっしりとして……  アピアンは内心の動揺を隠し、無造作に肩をすくめてみせた。 「俺、そんなにわかりやすいかな?」 「あたしはいろんな客をみてるからね。今日のお友達は気づいてないんじゃない?」 「そうか」 「もしかして田舎から出てきたばかり?」からかうような雰囲気はあったが、女の口調に悪意は感じられなかった。「王都ならもっと友達もみつかるよ。ここで紹介するのだって、あたしの友達の店だし」 「ありがとう。でも今はいいよ」 「そう? もしひとりなら――」  女がさらに何かいいかけたときだ。 「アルティン、来いよ」エドガーが背中を叩いた。「面白いものを手に入れたぜ」  アピアンは礼のかわりに女に片手をあげ、グラスを持ってエドガーを追った。彼は手のひらに小さな箱を握っている。 「何だ?」 「夜の蛍さ」 「蛍?」 「煙草みたいなものさ。吸うといい気分になれるやつ。最近流行ってるらしい――と、ここじゃまずいか」  エドガーはあたりを見回し、小声でささやいた。 「王城の許可がまだ出てないらしい」 「つまり違法ということか?」 「アルティンは育ちがいいな。大丈夫だって」  エドガーはふふん、と鼻で笑った。人の隙間を縫うように店の隅へ向かう。火を入れていない暖炉の横で小箱のふたをあけると、大きめの丸薬のような玉が転がっていた。 「燻らせて吸うんだ。パイプがいる……」 「エドガー……」 「はは、心配するなって。一度試すくらいどうということもない」  エドガーが余裕の笑みを浮かべてそういったときだ。  バタンと大きな音を立てて入口の扉が開いた。 「警備隊だ! 抜き打ち検査を行う!」  即座に音楽が止んだ。  その場にいた全員が固まった――少なくともアピアンにはそう感じられた。  だがそれは一瞬のことだったにちがいない。どこかで叫び声のようなものがあがり、とたんに誰かが走り出したからだ。一瞬の静けさが嘘のように店はいきなり騒然とした。最初のひとりのあとに数人が続く。入り口ではなく奥へ向かう者もいる。  それでもまだアピアンは何が起きたのか理解していなかった。唐突に理解したのは、エドガーが「夜の蛍」の小箱を自分に押しつけたからだ。  抜き打ち検査とはこういうことか。 「エドガー!」  叫んだときエドガーはもうアピアンの前から消えていた。見える範囲で暴力沙汰こそ起きていないが店の中は大混乱だ。いくら抜き打ちといっても警備隊のこんなやり方は大丈夫なのか? もう少し穏やかな方法はあるだろう――そんなことを頭の片隅で思いつつ、アピアンは手に握らされた小箱をどうするか、ほんのわずか迷った。すぐに投げ捨てればよかったのだと気づいたのは、進行方向を大きな影にふさがれたあとである。  しまった――と思った時、体が勝手に動いた。武術の指南役ならそんな馬鹿なことはするなといったかもしれず、あるいは逆に褒めたかもしれず――ともあれ反射的な行動だった。目の前の影に小箱を投げつけ、すばやく横に飛んだのである。捕まれないよう床を転がるようにして立ち上がり、人のあいだをすりぬけて走れば外への出口までほんのわずかだ。  警備隊の人数は少なかったにちがいなく、戸口は夜に開いている。アピアンは飛びだした。警備隊に連行されて審判の塔へ、なんてことになったら目も当てられない。頭の中はその思いでいっぱいで、そのまま走り出そうとした瞬間は何も考えられなかった。  その時いきなり太い腕が胸にまわり、前に進もうとするアピアンを阻んだ。  がっちり捕らえられた衝撃でアピアンの息はとまりそうになる。足がからまって地面に倒されそうだ。アピアンは膝をついた。うしろにのしかかる体を意識したとき、ふと既視感をおぼえた。――この腕にはおぼえがある。  なぜか息をのむ気配がして、まわされた腕の力がふとゆるんだ。耳元でききなれた――だが最近はきいていない声がささやく。 「アピアン?」  まさか。  アピアンは足を後ろに突き出してもがき、自分を捕まえる腕から逃れようと背中をそらす。真後ろにいる男と目があった。  セルダン・レムニスケートだ。

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