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5.猶予の月

「殿下……」  ほんのわずかの間にセルダンの表情がめまぐるしく変わったが、店の窓から漏れる光だけでは暗すぎてよくわからなかった。ふたりの背後で誰かが砂利を踏む音がしたとたん、アピアンはまた背中を押されて地面に倒れた。しかし今回アピアンの服を掴んだ指は優しかった。 「こんなところで何をされてるんです?」 「おまえこそ――いや」アピアンは頬に詰めていた綿を地面に吐いた。愚かな返しをしそうになった自分を内心で笑う。「おまえの仕事だな」 「この髪……いえ」  首筋にセルダンの息があたる。その感触が不快ではないのがアピアンには腹立たしい。 「とにかく行ってください。どんな格好をしていようと、あなたを捕縛するわけにはいかない」  アピアンは苦笑した。「行けって……どうやって」 「むかし稽古したじゃないですか。この体勢から……」 「おまえは一度も負けなかったくせに」  くだらない昔話をしている場合ではなかった。脛と膝を使ってアピアンは上にいる男をおしのけ、跳ねるように立ち上がった。組み打ちの演武の要領だ。セルダンは呼吸をあわせてくれ、アピアンが走り出すと同時に後を追ってきた。警告の声がきこえてもアピアンは街路を走りつづけ、脇道に入って暗い路地を曲がった。背後の足音に背筋が飛びあがる。 「このまま王城へ」セルダンが低い声でささやき、布切れを押しつけた。 「眉の色が変わってますよ。前髪も。安物の色粉ですね」 「汗で落ちるくらいでなければ逆に侍女にバレる」 「誰も知らないということですか?」  セルダンの眸がさぐるようにアピアンをみつめた。ひらきなおってアピアンはいった。 「私だけの秘密だ」  セルダンは小さくため息をついた。呆れたのだろう。 「これからは俺の秘密です」  セルダンがよこした布でアピアンは髪をぬぐった。明るい場所に行けばきっと黒と茶のまだらになっているだろう。 「どうやって王宮から地下に出たんです? 変装だけで?」  セルダンは不満そうだ。納得いかないという口調だった。 「王城の中心から城門までは地下の通路を行くんだ。城門の警備隊は気づかない」  答えながらアピアンは髪を両手でなでつけた。襟元と袖の飾りはセルダンとの取っ組み合いで半ば外れている。取り去ってまるめ、ポケットに詰めた。腰と背中をのばしていつもの姿勢に戻った。もう「アルティン」はいない。 「レムニスケート、おまえはどうなる」 「戻ります。挑発されて持ち場を離れた馬鹿と怒られにね」 「すまない」アピアンはいった。本心だった。「軽率だった」  セルダンは小さく息を吐いた。 「あのまま他の隊士があなたを捕まえたらもっと困りますよ。行ってください」 「セルダン」 「何です?」 「私に会いに来い」  王城の城壁と王宮の地下には通路がめぐらされている。起源は古く、レムニスケートの一族が王家の始祖のために設計したといわれるものだが、どこまでが歴史上の事実で、どこまでが物語なのかもよくわからない、遠い昔のことである。  一部の地下通路は今も日常的に使われている。城壁にも王宮にも回路魔術師による防御の魔術が施されているためだ。暗色のローブをまとった回路魔術師は飛びかう鴉のように王城のあちこちをめぐり、防備に漏れがないかを点検している。中にはごくわずかの人間にしか明かされていない、非常時にしか使われない通路もある――少なくとも建前はそうで、いまアピアンが歩いている通路がまさにそれだった。  城門のすぐ近くの城壁に隠された入口があるのだ。アピアンは深く潜り、けっこうな距離を歩く。出口は王宮の尖塔の真下だ。  この道の存在をアピアンに教えたのは亡くなった乳母で、疫病を避けて移動するのに使われたという。乳母はこの通路を「清浄な道」と呼び、回路魔術で作動する鍵を保管していた。  とはいえ、乳母以外にどのくらいの者がこの道の存在を覚えていたのだろう。アピアンが王宮側の入口をみつけたのは偶然にすぎなかったし、最初に足を踏み入れた時は何年も使われた形跡がなかった。しかし中の空気は澄んでいて、城門側の鍵も機能した。  無事に自分の居室に戻るとアピアンはひとりで湯をつかった。  第二王子のメストリンとちがい、アピアンはあまり身の回りをかまわれるのを喜ばない――数年前から周囲の者はそう理解して、王子をほうっておくようになった。アピアンとしてもその方がありがたかった。女官や侍女は勘がするどく、風呂だの着替えだのの世話をさせれば、女性に興味が持てないというアピアンの秘密を悟られてしまう。  女官や侍女に小さな用事をいいつけるかわり、アピアンは回路魔術師の塔に対して、新しい道具は王子の居室で試すように促していた。日常生活で使うものにかぎるとはいえ、たとえばいま浸かっている、湯の温度を自在に調整する回路がそうだ。おかげでアピアンの居室は回路魔術の新装置であふれている。  魔術師たちとの接し方も繋がりも、王立学院に通うあいだに得たものだった。宮廷の回路魔術師の地位は精霊魔術師より低い。王立魔術団の精霊魔術師たちは毎回御前会議にも参加するが、回路魔術師は呼ばれた時だけだ。騎士団と同様の専門職集団なのに騎士団よりも軽視されている――といっても昔ほどではないらしい。  アピアンにしてみると、精霊魔術師より回路魔術師の方が気楽でよかった。彼らはアピアンの要求について、できる、できないと単純明快に語るが、精霊魔術師たちの話はなんだかややこしいのである。しかし彼らの提言によって王国は繁栄しており、精霊魔術師をうまく御せない者に王の資格はない。  いや、精霊魔術師だけじゃない。王はすべてを御さなければ駄目なのだろう。そうではないだろうか? あやふやに揺れる心も、なにもかも。  今日のような失敗などもってのほかだ。アピアンは湯気のなかで頭をかかえた。  セルダン・レムニスケートが王宮にやってきたのは三日後だった。 「大丈夫だったか?」 「ええ」  ひさしぶりに王宮に現れたセルダン・レムニスケートはアピアンの懸念も素知らぬ顔だった。騎士団に正式入団して二年、いまや騎士服が完全に板についている。向かいあって座ると以前よりも堂々として、こちらに向かう圧が増したようだ。  ふたりのあいだにはいつものゲーム盤がある。アピアンがひとりで途中まで進めた駒にセルダンはちらりと視線を流す。 「深追いして馬鹿をみるなと怒られましたが、夜の蛍は回収できましたから」 「夜の蛍か。あれは……薬物だな?」  セルダンの眉があがる。 「殿下はその――」 「どこから手に入れたか聞きたいんだろうが、私は知らない。連れに渡されたんだ。試す暇もなかった」 「ジョーダン家の」 「ああ。彼はどうなった?」 「もう家に帰りましたよ。いろいろ混乱があって……」 「そうだな」アピアンは駒をひとつずらした。「抜き打ち検査というのはいつもあんな風なのか?」  セルダンは苦笑した。 「隊長がせっかちな人で。俺は……あれでいいとは思っていませんがね」  アピアンはうなずいた。 「夜の蛍とはどういうものだ?」  セルダンの指が駒にのびた。 「さしても?」  アピアンはうなずき、黒の駒を譲った。セルダンの指し手は記憶にあるものと同じパターンで、なぜかほっとする。 「このところ俺の担当する区域で不審な中毒死が続きました。理由を探っていると夜の蛍に行きついた。最近王都に登場した薬物です」 「ちょっといい気持ちで飛べるだけ――らしいが?」 「実際は悪夢をみることも多い」  そういってセルダンは駒を置いた。即座にアピアンは自分の手を進める。 「あなたが試していなくて安心しました」  アピアンは眉をあげた。 「おまえは私にさぞかし文句があると思ったが」 「レムニスケートは王家の護りです。あなたの秘密はもう俺のものですし」 「私の秘密なのに? 息抜きも終わりだな」  アピアンはわざとらしく肩をすくめたが、本当は深く反省していたのだ。薬物の手入れで警備隊が捕えた人間に王位継承者がいたなど、どこに出しても笑えない話だった。 「殿下……」  セルダンは駒を握ったまま口をひらきかけ、言葉をにごした。 「レムニスケート、何がいいたい?」 「あなたに何かあったらどうします?」 「私は馬鹿な王子として人気になるだけさ」  アピアンはなかばやけくそで言葉をつなぐ。「民は私が何をしているかなど知らない――そもそも私は何もしていないが」 「あなたはいつかこの国の王になるんです」 「可能性の話だ。レムニスケート、はやく駒を置け」アピアンは盤をさした。「おまえが駒を置けるのは……」 「アピアン――王子」  セルダンがさえぎるように名を呼んだ。アピアンはじろりと向かいの男をにらんだ。 「何だ」 「あなたが……その、必要なら……」 「何が?」 「はめを外すことですよ」  セルダンは小さくため息をついた。両ひざに肘をつき、駒を指のあいだでくるくる回す。 「お願いですから、俺が近くにいるときにやってください。次から」 「次から?」アピアンは吹き出しそうになった。 「どこで? だいたいそんなの――息抜きになるか」 「どうして?」 「どうしてって……」  おまえが近くにいると落ちつかない。そんなことを口走りそうになり、アピアンはあわてて口をつぐむ。 「馬鹿をいうな。警備隊任務で忙しい騎士をつきあわせられるか」 「方法なら考えます。もうすぐ異動の時期ですし」  セルダンは駒を握りなおし、アピアンを正面からみつめた。 「俺はあなたの友人で、王に任命された騎士です。あなたを護らなければ」  ことりと駒が置かれた。予想とちがう場所だ。アピアンは苦笑いした。 「これだからレムニスケートは」 「俺もすこしは強くなったでしょう?」 「まだまだだ」  アピアンは自分の駒を動かし、セルダンはうめいた。  護らなければならない、か。父王がレムニスケートに全幅の信頼をおくわけだ――ふたたび駒を片手に悩む男からアピアンはそっと目をそらす。胸の内に暖かさが広がる一方で、これは義務なのだ、という声が心に響く。この男にとっても、自分にとっても。 「殿下」セルダンは盤をじっとみつめている。 「なんだ」 「あなたが好きです」 「そうか」  目の前の騎士がさりげなく発した言葉を、アピアンは社交辞令として受け取った。

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