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6.玻璃の器
言葉は状況に応じてちがった意味を持ちうるものだ。
(あなたが好きです)
衝動的な告白をアピアンはどう理解したのか。何もなかったようにあっさり受け流されて、セルダン・レムニスケートは安堵と落胆という矛盾した気分を同時に味わった。
とはいえ王宮から騎士団の宿舎へ歩きながらあらためて思い起こすと、アピアンの反応はあたりまえだ、という気もしてきた。同性に特別な感情を抱かない人間であれば当然の反応なのだ。
アピアンにとってセルダンの言葉は単なる友情のあらわれにすぎないのだろう。第一セルダンはアピアンの臣下なのだ。主君に対する感情であればなおさら、それほど度の過ぎたものともいえない――たぶん。
むしろアピアンに聞き返されて、言葉の背後にある本心があからさまにされなかったことを幸運だと考えるべきだ――とセルダンは思った。本心を口に出すわけにはいかなかった。
あなたが欲しい、などと告げる日は来ない。主君を肉欲で汚すなど論外だ。
自分は醜い欲求を持て余しているわけではない――セルダンとしてはそう思いたかった。城下の治安を取り締まる警備隊も王国の守りの要である騎士団も、同性の関係には寛容である。同性にしか興味がない者は少数だろうが、きっかけ次第で同性と関係をもつ隊士は少なくない。
独身の下っ端から中堅までは宿舎で寝起きするのもあり、身元のあやしい街の女や禁じられた賭博に手を出すよりは、同輩とつきあう方が良いと思われているきらいもある。時に力で力をねじ伏せるような歪んだ関係もあると聞くが、セルダン自身はそういった状況に陥ったことはなかった。十五で騎士見習いになって五年もたてば、求められる方も求める方も一通り経験済みである。
しかしアピアンをそんな対象としてみることは、セルダン・レムニスケートにとってありえないことで、だからこそ誰にも知られてはならない秘密だった。ひそかにこの夢想を育みつづけて何年経っても、ありえないことに変わりはなかった。
そうはいっても、鬱屈のあまり変装して夜の街をうろついていたアピアンをほうっておくわけにはいかなかった。秘密を明かさずとも、殿下の力になりたいと上に進言することはできる。これでも王陛下じきじきに「友人」と認められているのだから。
この時セルダンが考えた「上」とはすなわち騎士団長で、自分の父親でもあったが、あくまでも職務上の話だと強調して直訴した息子を父親は冷静に観察した上で、望む任務を与えることにした。
その一方、二十歳の誕生日を過ぎたアピアンに対し、王は具体的な結婚計画を考えはじめたようだった。「おまえが好ましいと感じる相手を選べ」と息子に告げたのは、新緑が芽吹きはじめたころである。
父王の言葉にアピアンはとっさに反応を返しそこねた。
「陛下、急がなくてもいいのではありませんか?」
隣にいた王妃はアピアンの困惑を感じとったらしい。やんわりした口調でそう牽制したのだが、言葉は王の耳を素通りした模様である。
「これから夏にかけて、夜会や午後の茶会といった社交行事もさかんになるだろう。招待も届いているだろう? 機会を得て良い相手を決めなさい」
王はアピアンの相手をみずから決めようとはしなかった。心の通わない政略結婚ではなく、心が求める相手を選べというのである。
「おまえが心を寄せる相手の立場が釣り合うならもちろん、それでいい。そうでない場合は多少、考える必要があるだろうが……我々はいま、有利な立場にある。少々の無茶ならきいてやれる」
父王がそう告げるのには理由があった。小国ながら、魔術による鉄壁の防備と複数の特産品に恵まれた王国は安定した繁栄を謳歌している。今の王家は婚姻によって特定の国や血族と結びつく必要はなかった。王妃の母国である隣国との姻戚関係は長く続いているが、不必要な影響を受けているわけでもない。
というわけで、王がアピアンに示した「選択肢」はいくつもあった――宮廷の有力貴族や隣国の王族の係累、宮廷貴族と縁戚関係があり、かつ貿易の繋がりもある隣国の貴族――これらの未婚の娘たちだ。
王妃は王の意向に必ずしも賛成ではないようだ。アピアンが辞するとき、彼女は困ったような表情で小首をかしげてみせたのである。王は後添いである王妃の助言をよく聞き入れたが、この話題については別枠らしい。
選択肢があるだけましだ――アピアンはそう考えようとしたが、気分は晴れなかった。舞踏会だのお茶会だのも憂鬱だが、仮に妻となる娘を選んだとして――問題はそのあとだ。
結婚すればどうしても担わなければならない行為がある。
いや、アピアンの場合はむしろそのために結婚するのだが――自分が果たしてそれをまっとうできるのかどうか。
奇妙なことに、アピアンの周囲の人間は、王子がこれまで誰とも肌をあわせたことがないとは思ってもみないらしかった。父王もそうだが、人々はなぜか、ここ数年アピアンが周囲に人を寄せつけなかったことを逆に解釈している。つまりアピアンは非常に用心深く、親密な相手がいても――いるにちがいないという前提のもと――誰にも気取られないように行動している、と思われているのだ。
実際アピアンが居室までまねく友人はセルダン・レムニスケートだけで、レムニスケートの忠誠と口の堅さは折り紙付きだから、そういう結果になるのかもしれない。
だがアピアンは苦笑するしかなかった。童貞であることは異性に慣れていないことのいいわけにはなるかもしれない――が、婚姻の床でそんなことを明かすわけにもいかない。男だろうが女だろうが、口づけすらしたことがないのだ。
心を寄せる相手だと? 頭に思い浮かぶ人物は、婚姻とはもっとも遠い人物だった。
ところがアピアンの困惑をよそに、これをきっかけに王は別の事実に気づいたのだった。それはきわめて単純な事実で、どうしてこれまで気づかなかったのかと思われそうなこと――社交行事は王国の中だけに限らない、ということである。
アピアンに相手を選べと告げ、社交シーズンがはじまってまもなくのことだった。王はちょうど隣国からの熱心な要請をうけて、教師となる回路魔術師と治療師を派遣すると決めたばかりだった。派遣団で誰を名代とするかと思案していた王は、息子に役割を与えればよいと思い至ったのだ。一石二鳥だと王は思ったにちがいない――未婚の王子が名代として来れば、隣国も種々の歓迎を用意するだろう。その席には王子の好みに叶う相手もいるかもしれない。
「私の名代として行くのだから、着いたら誘いは断らないように」
さっそく王子を呼んで、王は念を押した。
「魔術師もいるから大げさな護衛は不要だが、騎士団長からの勧めがある。セルダン・レムニスケートを同行しなさい」
「レムニスケートを?」
アピアンは感情を表に出さないよう努力した。言及されている当のレムニスケートが同じころに同じ話を父親の騎士団長から聞いていたとは、まるで知らなかった。
もちろんセルダン・レムニスケートが拝命したのは、社交行事への出席ではない。
「陛下は隣国に派遣団を出されるが、アピアン殿下を名代として遣わされる。セルダン、おまえは護衛として同行する。魔術師たちが落ちつくまで様子をみるようにとのことだから、しばらく滞在することになるだろう。滞在中、もうひとつ任務がある」
騎士団長は広げた地図を指さした。「夜の蛍だ」
セルダンは眉をあげ、続きを待った。
「城下で死人も出ているあの薬物は隣国から王国にもたらされた。首都であれがどのくらい、どんな風に浸透しているか、調べて観察するように」
「了解しました」
簡潔な応答でも、まっすぐな視線で投げたセルダンの感謝は、父へ確実に伝わったことだろう。王と息子のあいだの不透明な感情とちがい、レムニスケート一族の信頼は王城の基礎のように揺るぎなかった。
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