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7.視線を数える

「殿下、首都はいかがですか?」  陶器のようになめらかに手入れされた指先がポットの取っ手を握り、アピアンの前の白いカップに淡い金色の液体が注がれた。 「到着してそれほど経っておりません。軽い印象しかお話できませんが」 「かまいませんのよ。どうぞお聞かせください」  給仕ではなく茶会の主催者がお茶を注ぐのがこの国の貴族のしきたりだ。  アピアンが見守るうちにカップの底で赤い花びらが広がり、甘い香りが鼻先まで広がる。驚きに眉をあげると、茶会の女主人は「美しいでしょう?」と微笑んだ。 「この花は領地の特産ですの。エルのドレスに刺繍されているものです。正式な紋章ではありませんが、私たちの家のしるしとして使っています。夫の剣の柄にも刻まれていますの」 「美しく優雅な習慣ですね」  アピアンはそう答え、テーブルを囲む人々に微笑みかける。同じような化粧と豪華な身なりの女性がいっせいに微笑みを返す。茶会の主催者は宮廷筆頭貴族の奥方で、エルと呼ばれたのは彼女の未婚の令嬢、その隣はこの国の王の孫娘、その隣はご友人の……。  名前は頭に入っているが、アピアンの目にはみな同じようにみえる。王国と同様、この国でも屋外での催しで貴族の女性が着るのは明るい色か淡い色のドレスときまっている。未婚の令嬢は淡い色をまとって髪をあげ、既婚者は巻いた房を肩に垂らしている。髷にレースのちいさな帽子を留めるのが流行なのか、ひとりをのぞいて全員がさまざまな意匠の帽子をつけていた。  初夏の日差しは蔓のからむ棚にさえぎられ、まだらになってテーブルにおちる。令嬢たちの肌は奥方の指と同様に陶器のように白くなめらかで、爪は真珠のような艶をおびている。 「この街も美しく優雅、だと光栄ですわね」 「ああ、失礼しました。もちろん――それに風が爽やかです。乾いて、すがすがしい。ご存知かと思いますが私の国は小さく、王都は森に囲まれていますから、こんなにからりとはしておりません」  場の女性たちがいっせいに微笑んだ。アピアンは視線にたじろがないよう努力した。 「でも、空気が乾燥していない方が私たちには嬉しいのですよ。女性の肌に乾きは禁物なのです」奥方は昼間の庭園にそぐわない妖艶な笑みを浮かべた。 「回路魔術のおかげで浴室の設備が整ってありがたいですし、今回派遣していただいた魔術師の指導でさらに進むと思いますわ。それにしてもさすが、お若いのにきちんと把握しておられますね。ご公務はお忙しいですか?」 「いえ――ええ。私は勉強中の身なので……」アピアンは返答に迷った。 「現在は審判の塔で国の司法を学んでいるところです」 「未来への投資ですね」  王孫の姫君が鈴を鳴らすような声でそういった。アピアンよりも年長である。彼女だけは他の令嬢たちのような帽子を身に着けていなかった。大陸と直接貿易をする国の王族らしい表現だ。そうアピアンは思った。  回路魔術師と精霊魔術師の一団と共にこの首都へ到着したのは昨日のことだ。 「アピアン殿。まだ小さかった頃に一度会ったきりだが、立派になられたな」  到着後すぐにアピアンを謁見したロア王は、長い白髪に白髭という風体だったが、体躯は堂々として表情は若々しかった。  謁見の間には王の周囲にずらりと一族が並んだ。世継ぎの王子はすでに壮年で、その子どもたちはアピアンと同世代だ。王の子は他に息子が一人、娘が四人、王の孫はあわせると二十人を下らないという。  アピアンの父王はロア王の従兄弟の娘を後添いに迎えた。王国の数代前の王、アルティンが娶ったのもこの国の王女である。両国はかつて争ったこともあるが、王族の婚姻や商業ギルドが共同で出資した事業の成功などを経て、戦争は遠い昔の記憶になっている。  父王からの親書をロア王はその場で読み、何が楽しいのかニヤッと笑った。 「せっかく来たのだ、ここにいるあいだは羽根をのばすつもりで、楽しく過ごされるといい。館へ案内させよう」  アピアンは王族から浴びせられる視線に内心うろたえたが、動揺を表に出さないのには慣れている。すぐ後ろにはセルダン・レムニスケートが控えている。準正装の騎士と王子がならぶさまはなかなか絵になると、いならぶ人々が感心していたとは想像もしなかった。  滞在のために案内されたのは、王宮に隣接する豪奢な館だった。賓客をもてなすための建物だという。セルダンも王国の有力貴族の一員ということで、同じ館に居室を与えられた。  王宮もこの館も政務を行う建物も、外壁はすべて淡い茶色に白い筋の入った石のタイルで覆われ、初夏の日差しに輝いている。居室のバルコニーからは噴水のある広い庭園がみえ、そのむこうに王宮がそびえる。  アピアンがここまで率いてきた魔術師たちは別の宿舎へ案内されていった。暗色と薄灰のローブが連れだって歩く様子は、上からみると大きな鳥の群れのようだ。この国の回路魔術は王国のそれとくらべると精緻さに欠けるようだとアピアンは感じていた。城壁や謁見の間には、アピアンの国にあるような防備の意匠がみあたらない。  しかし居室に備えられた浴室の設備は豪華だった。なめらかな陶器の浴槽は排水設備のあるタイルの上にすえられて、湯には細かな泡がうかぶ。浴槽の隣には小さな寝台があった。 「入浴の際は専属の者がお世話いたします」と館の執事がいった。続けて当然のように「今晩はお体をほぐしましょう」といわれたので、この地の習慣に従うつもりだったアピアンは異も唱えずうなずいたが、夜中にいささか後悔することになった。  あらわれた「専属の者」はアピアンが予想したような少年や侍女ではなく、立派な体格の青年だったのだ。しかもこの国で貴族や王族の男性が受ける「入浴の手伝い」とは、髭をあたり、背中や髪を洗うのにはじまって、浴槽のとなりの寝台で疲れた筋肉を揉みほぐすまでを意味するらしい。  ぬくもった体を屈強な男の手で洗われ、ほぐされるのは不快ではなかった――問題はむしろ、心地よすぎることだ。翌日アピアンは執事に、入浴の手伝いは必要な時だけ呼ぶ、毎日待機する必要はない、と命じた。  父王からロア王へあてられた親書には何がしたためてあったのだろう。  滞在中のアピアンには連日招待がもたらされた。王族の晩餐会をはじめ、もっと小規模な貴族の夜会、午後の茶会、そして王宮主催の正式な舞踏会。午前は魔術師たちに様子を聞き、ときに政務庁を見学させてもらったりもしたが、午後や夜には貴族の社交が待っている。  この国の王侯貴族はもともと社交が好きなのだ。準備も念入りに行う習慣で、朝入浴して午後の茶会のために着替え、その後は夜の晩餐のために入浴するという。  夜の礼装を着るには人の手を借りなければならないが、館付きの従者や侍女にアピアンは慣れず、おかげで無用な疲労がたまった。昼の略礼装は自分で支度できたから、そういう意味では午後の茶会のほうがましだ。しかし茶会はだいたいにおいて、ご婦人方と「自由なお喋り」を楽しむ場所とされていて、これはこれで気苦労である。 「セルダン。どうした」 「殿下」  その日、アピアンが夜の舞踏会のために着替えてレムニスケートを呼ぶと、騎士は略装ですらない平服のまま、アピアンの前に現れた。 「おまえも来い」 「俺は招待されていません」 「かまうか」 「ですが――本日はエスコートされるご令嬢もいらっしゃるわけですし……」  アピアンはため息をつきそうになるのをこらえた。 「おまえの相手もみつくろってもらうべきだった。いや――おまえなら適当な相手をすぐみつけられるだろうが。次回は来い」 「殿下、今晩は正式なご招待ですし、俺はべつに……」 「女どもに騒がれているくせに」  セルダンは困惑したように眉をひそめた。 「何をおっしゃいます」 「うまくあしらっているようだが、昼間もおまえの話が出たぞ。姫君――王の孫君もレムニスケートに興味があるようだ。役割などをいろいろとたずねられた」  セルダンはわずかに眉をあげ、冷静に答える。 「単なる好奇心でしょう。この国にはレムニスケートのような一族はいませんから。だいたい俺はこういう社交は不得手ですから、夜会でも立っていることしかできませんし」 「立っているだけだと? 嘘をつけ。それに私の護衛だろう」  そう聞いたとたん騎士は真顔になった。 「ええ、あなたを護ります。ですがここで無礼になってはいけないと」  アピアンは今度こそため息をついた。  もちろん、ただの警備なら招待主やロア王が用意している。ここまでくる旅の道中はともかく、首都でセルダンを護衛といって連れ回すのは、場合によっては失礼にあたる。  到着したころの大きな晩餐会や夜会にはセルダンも招待されて出席したが、ロア王の騎士団に紹介されてからはまばらになった。聞くと訓練場で手合わせをしているのだという。 「今晩はどうする」 「街に出ます。実は騎士団長に様子をみるように命じられているので」  アピアンは肩をすくめた。 「任務でも遊びでもいい。勝手にしろ」  王国を出たのはいい気晴らしになった――とアピアンは思っていた。結局は父王に命じられた「社交シーズン」をどこで過ごすかという話なのだが、知らない土地や習慣のもとなら何でも新鮮ではあるし、審判の塔に通う日々から解放されたのも悪くなかった。連日の社交行事は疲れるとはいえ、名代として滞在している以上は公務のひとつでもある。今は変装して市井へ出るなど考えずにすむ。  しかしひとつだけ、解決するどころかもっと厄介になった問題があった。馬を並べて旅をするあいだにセルダン・レムニスケートをより意識するようになってしまったことである。なにしろ、途中の宿屋では眠る部屋こそちがっても、壁を隔てたすぐ隣にいるし、共同の浴室ではちあわせたこともあったのだ。  入浴場所が同じというのは騎士団や警備隊ではよくあることらしく、セルダンはアピアンの前に裸体をさらしても完全に無頓着である。アピアンひとりが緊張しているのだ――と、少なくともアピアンは思い、そんな自分自身がいまいましかった。壁のむこうにセルダンが眠っていると想像するだけで力がみなぎり、欲望がつのることにも苛立つ。  おまけにセルダンは知らぬふりをしたが、爽やかな長身の騎士はこの国の令嬢の興味の的である。最初のうち同行した夜会では、セルダンは本人がいうよりずっと気軽に初対面の女性と話していたし、そのうちの数人とは軽快な足取りで踊ることもあったのだ。  もちろん彼はレムニスケートであり、つまり王国の貴族としてそういった作法についてはきちんと教えられているだろう。騎士団と警備隊しか知らない朴念仁ではない。  それともセルダンが夜会のような場所へ出たがらないのは、すでに王国に決まった相手がいるせいなのかもしれない――突然そんな考えが浮かびもして、アピアンの胸はぐっと締めつけられた。  つまるところ王国でもセルダンは若い娘の視線を受けていたのであり、そうであっても不思議ではない。  まったく、くだらない。こんなことを考えてしまうことすらくだらない。アピアンは頭を振った。  ほんとうに困るのは夜ひとりになってからだった。快適な浴室でぬくもってから寝台におさまると、体が欲望でうずくのだ。自分で慰めるときに頭に浮かぶのはいつもレムニスケートの顔で、そこに浴室付きの若者の手の感触が重なり、ありありと想像してしまうのだ。尻を揉まれ、ほぐされて……  これまで男とも女とも未経験だとはいえ、アピアンとて、男同士で何をするのかまったく知らないわけではなかった。何しろアピアンがここ数年通っていたのは審判の塔である。ここには貴族庶民の生々しい事件が記録されており、中には同性同士の刃傷沙汰をめぐる供述がありもする。それに塔で働く女性に人気がある物語にはなぜか男同士の恋物語が混ざっており、置き忘れられていたそれを面白半分に手にとったこともあるのだった。  どうせ空想の話だ。何もかも自慰の空想にすぎない。  ひとりで達したあとのむなしさにアピアンはうんざりしていた。  夜の行事の多少の救いは酒があることかもしれなかった。すこし酔うだけで気まずさが減り、話が容易になるのを近頃のアピアンは学んでいた。  今晩も最後はそれで乗り切ることになるのだろう。  レムニスケートが何をしていようが、知ったことか。

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