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8.虎の足先
「好きにしろ、か。あんたの殿下最高だな」
と、この国の騎士、キリムがいった。
「かまわれるのが嫌いな上ほどいいものはない。でなかったら、夜会で誰かの気を惹くためにこき使われたり、下手をすれば余計な対抗心燃やされたりして、面倒が起きたりもする。こっちはしがない宮仕えだってのに」
キリムは下級貴族――本人の弁では平民とあまり変わらない末端――の第三子で、王族のひとりに仕えている。セルダンより年齢は二、三歳ほど上だろう。騎士の称号を得ているが、王家の騎士団の一員ではない。本人曰く主人は「王位継承の可能性がかけらもない」ため、地方に広大な領地を抱える有力貴族の令嬢を娶ろうと「毎日ろくでもない努力を欠かさない」らしい。この国の王族や貴族は騎士を警護や空威張り――これもキリムの言葉だ――のために雇うのだ。
だが騎士団の所有する訓練場にはキリムのように私的に雇われた騎士もいて、セルダンが彼と知り合ったのも、そこで数人と稽古したときのことである。王族の係累がたくさんいるせいかセルダンが「王子のおつき」といっても特別扱いはされなかった。
とはいえ「レムニスケート」の名はこの国でも知られているせいか、セルダンが周囲に低くみられることはなかった。ここまでの旅や到着後の疲労をほぐすのに稽古はちょうどよかったし、今日のように「休みだから街を見せようか」と誘われて出かけることもできる。セルダンにとってこの国の滞在は悪いものではない。とにかく、表面的には。
しかしキリムの言葉とは裏腹に、王子に「好きにしろ」と告げられるのは、心ときめく事態とはいえなかった。
「どこに行きたい? 案内するよ」
「右も左もわからないんだ。ついていく」
「じゃ、とりあえず街の名所ってやつを案内して……あとはそうだな、酒と、それに――」
セルダンがキリムと並んで歩いているのは夕暮れの街路である。白っぽい石のタイルが基調となる首都の街並みは夜の明かりに照らされてきらきらと輝いている。広い道には馬車と徒歩の人々がごったがえし、とびかう声や馬の蹄、車輪の軋みでやかましい。
今頃アピアンは迎えの馬車に乗ったところだろうか。
キリムに歩幅をあわせて歩きながらセルダンは街を観察したが、頭の片隅では館で別れた時の王子の様子を思い出していた。館の豪奢な設備のせいか夜会用の衣服のせいか、短い滞在のあいだにアピアンの外見はハッとするほど垢ぬけていた。多少憂鬱そうな表情もセルダンの目には官能的にうつり、いささか心臓に悪いのである。
旅のあいだも緊張はしたのだが、旅装で馬の背にいるあいだはそれほどでもなかった。しかし、到着してから連日開かれる催しをそつなくこなすアピアンをみるにつけ、セルダンの中では口に出せない欲望が募るようになって、これは大いに予想外のことだった。
幸いアピアン本人はセルダンのそんな葛藤に気づいていないらしいが、王子のささいな動作や視線でセルダンの心臓は早鐘を打つのだ。王国にいたときはこんなことはなかったので、セルダンは距離の取り方に苦心していた。
騎士団長がもうひとつの任務を与えたのは今にして思えばありがたかった。こうしてキリムと共に街へ出ることも、好奇心を満たすだけではなく任務の一環になる。が、そんなことをキリムに話せば「何でそんなにお堅いの?」といわれかねないので、セルダンは黙っていた。この性格はレムニスケートの家風のようなものだ。
建国王の彫像がそびえる広場を抜け、王族や高位貴族御用達の店がならぶ通りを抜けるうちに日が暮れた。庶民も行きかう盛り場の風景は王国とそれほど変わりがない。道幅も狭く、警備隊の一員として城下を歩くのに慣れたセルダンの目にはこういった街路をうろつく物騒な輩も目に留まる。
「気をつけろ」
ぶつかってきた少年の手首をセルダンはすばやく捕まえた。
「こいつはおまえのものか?」
少年は十代半ば、使い走りでもしていそうな平民の服装で、群集に紛れてしまいそうな目立たない外見だ。しかしセルダンは彼のポケットが服装にそぐわない金の宝飾品でいっぱいなのをみてとる。
「旦那、これは落ちてただけで……」
「だったら警備隊に届けてもらわないとな」
キリムがにやっと笑って少年の行く手を阻んだ。
「相手を間違えたな。俺もこの『旦那』もただの若造じゃない。警備隊に連れてくぞ」
少年は顔をゆがめてふたりを見返し、セルダンは視線の強さに一瞬手の力をゆるめた。その隙を逃さず少年は腕をふる。同時に体をかがめてキリムに体当たりすると、転がるように騎士の足元から滑り出て、走り出す。
「おい、この――」
キリムが叫んだときセルダンはもう駆けだしていた。盗人を追うことは城下の警備隊でたまにあったが、問題は土地勘がないことだ。見慣れぬ盛り場の景色にまどわされ、少年の後姿はたちまち視界から消えうせる。あちこちでひるがえるのは酒場のしるしだ。セルダンはあたりを見回した。キリムはどこにいった?
ふいにある匂いが鼻をついた。安い香木に腐る直前の果物の匂いが混ざったもの――セルダンは息を飲む。
「逃がしたか?」
声にふりむくとキリムがすぐそばに立っていた。
「ああ。警備隊には?」
「話したから今ごろ探しているだろう」キリムは肩をすくめる。
「おまえは何も盗られてないんだろう。どうする? せっかくこのあたりまで来たからには、どこか入るか」
「そうだな」
答えながらもセルダンはなかばうわの空で空気の匂いを嗅いでいた。
「キリム。知っていたら教えてほしいんだが」
王国に最初に持ちこまれた「夜の蛍」は練り香にそっくりな丸薬状のものだった。火をつけると熾が黄緑色に点滅するさまが蛍のようだというので「夜の蛍」の名がついた、という。この名にはもうひとつの由来があり、火がついているとき効き目が強くなったり弱くなったりするさまが蛍の光のようだから、ともいわれる。
煙を吸い、点滅する熾火をみつめるうちに人は浮遊するような多幸感に満たされるが、すべて消えて灰になるうちに眠くなり、目覚めると完全に醒めている――というのが当初の評判だった。
この薬は最初のうち色町で広まったが、眠っているあいだにみぐるみ剥がれ、目覚めると記憶を失うという訴えにセルダンが所属していた警備隊が動いたのだ。しかしその後続いたのは不審死だった。どの現場にも「夜の蛍」特有の匂いが残っていたため、話は王都の防備を統括する騎士団まで届いたのである。
どうやら「夜の蛍」と称される薬物には何種類かあり、そのうちのひとつはちょっと気分がよくなるどころではない作用をおよぼすらしい。騎士団は当初、最初の出所が施療院ではないかという疑いをもったが、治療師が扱うハーブや薬剤とはちがう成分が含まれていることがまもなくわかった。隣国の特産品である。
「夜の蛍か。何種類か出回ってるな」
キリムが杯のしずくをぬぐいながらいった。酒場はほどほどの混み具合だ。料理の匂い、磨かれた木や金属の匂いが漂うだけで、街路でセルダンが気づいた「夜の蛍」の気配はない。
「そっちじゃどうかしらんが、効き目や、いまは形にもいろいろある」
キリムはのんびりした口調で話した。
「香として焚くのは弱いやつだ。中毒性が強くなるのは水煙草にして吸う場合だな。紙巻にそっくりなのもある。こっちでも死人が続いたときは問題になって手入れをやったが、供給元は抑えられなかった。最近は人死にも出ないから見逃しも多い。だいたい……」キリムは声を低めた。
「俺なんか金がもったいないからやらないが、けっこうな数の上流貴族が高級品をたしなんでいるからな。茶会や夜会でもらって、知らずに一服やってるうちにはまるってケースもあるらしい」
セルダンは眉をひそめた。
「それを見逃すと?」
「こういう嗜好品はうっかり取り締まるとまずいんだ。粗悪品が出回って、もっとひどいことも起きる」
「死者が出るのは粗悪品だけじゃない。体質と合わない場合もあると聞いたが」とセルダンはいった。「各人の魔力の質によって過剰反応が出る場合があるのでは、と」
「誰がそういった?」
「治療師だ」
「なるほど。ありそうな話だな」
キリムはまた杯をかたむけ、唇についた泡を舐めた。
「そっちのほうが魔力の研究は進んでいるんだろう。回路魔術にしろ精霊魔術にしろ……」
「これ自体は心の防壁をゆるめる役目をする。もとの心の防壁によって差が出る――とか、そういう話だった。俺にはよくわからなかったが」
セルダンもすでに二杯目を飲んでいた。
「俺は魔力に関してはただの人でしかない。防壁だのなんだのといわれても、よくわからない」
キリムはからからと笑った。
「この仕事につく人間はたいていそうさ。俺だって、魔力があれば騎士にはなっていない。下級貴族の末っ子は何をすればいちばん一族に感謝されると思う?」
「ん? 魔術師になることか?」
「魔術師の嫁をもらうことさ」キリムは空の杯をふった。
「これからどうする?」
セルダンが館に戻った時、アピアンはすでに夜会から戻っていた。迎えに出た執事がセルダンをじろりとながめて「王子殿下がお待ちです」といった。
「かなり前に戻られたのか?」
「それほどでも」
執事はそういったが、若干皮肉がこめられているようにセルダンは感じた。さてはキリムともう一軒酒場を回らずに戻るべきだったか。
「眠るお支度をされているようですが、戻ったらかまわずすぐにお部屋へ向かうようにとのことでした」
セルダンはうなずいて階段を上った。アピアンの居室は最上階の奥にあり、セルダンの部屋はその真下だ。一度身じまいを正してからの方が良いだろうか。自覚するほど酔いはしなかったが、キリムお勧めの二軒目はかなり場末の方だった。安い油の匂いが服にまとわりついている。
だが「すぐに」という執事の言葉を思い出した。夜会で何かあったのだとすれば、悠長なことはしていられない。というわけで自室には寄らず、もう一階上にあがる。
「殿下」
両開きの扉を叩いたが、返事は聞こえなかった。
「殿下?」
セルダンは拳で扉を押して中に入った。内側は短い廊下の左右に扉がある。三間のつづき部屋に加え、身支度の部屋や広い浴室もあるからだ。ランプの光が点々と床におち、どの扉も半開きか隙間があり、明かりが漏れている。
「セルダン」
声が聞こえたのは浴室の方からだ。セルダンは薄く開いた扉の前に立った。
「殿下、戻りました」
「入れ」
扉は外に開いた。石鹸や香油の爽やかな匂いがセルダンの鼻をかすめる。廊下と同じようにランプの光が随所に輝くなか、セルダンはアピアンの姿を探した。笑い声が響き「ここだ」という。
アピアンは壁際の長椅子に膝を曲げて座っていた。巻き付けたローブから裸足がのぞき、髪は濡れた光を帯びている。
突然セルダンは視界がくらむような感覚を覚えた。今の今まで意識しなかった酔いが頭にのぼってきたようだった。
「遅かったな」
アピアンがいった。手の中でちかりと小さなグラスが光った。
「申し訳ありません」
「謝るな。好きにしろといったはずだ。街はどうだ。楽しかったか? そこに座るといい」
アピアンは鷹揚に手をふって足台をしめし、長椅子に寄りかかりながら膝と右腕をのばす。セルダンは腰をおろしながらふと別の香りを嗅いだ。長椅子の脇に小机があり、そこからほそく紫煙がのぼっている。アピアンが紙巻をとりあげ、なめらかな動作で咥えて吸った。
緑色の光が点滅した。
セルダンの心臓が早鐘をうった。
「殿下? それは……」
「ん? ハーブさ。眠りが浅いのが困るといったら、試してみるといいと」
「今日の夜会で?」
「ああ」王子は微笑んだ。
「どうした、セルダン?」
何かいえばよかったのだろう。それは「夜の蛍」だとか、危険なものかもしれない、などと。しかし言葉が出る前に体が反応した。セルダンの手はすばやく動き、アピアンの唇から紙巻をつみとった。
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