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10.忠心の影

 ぽちゃんと雫がはねる音がした。  セルダンの部屋とちがい、王子の居室の浴槽にはきれいな湯が一日中満たされているらしい。回路魔術で循環させた湯が浴槽の底から湧きだしているのだ。それでも周囲の壁や床は湿っていない。壁にあいた送風口からふきこむ乾いた風が室内を快適に保っている。豪奢なタイルで飾られた浴槽の真上の天井だけが濡れ、たまった水滴がときおり落ちる。  王子がセルダンを見上げている。さっきまで自分の首に――絞めるのではないかという勢いで――回されていた手は両側にだらりと垂れている。眸に濡れたような光が浮かぶのは酔っているからにちがいない。そうでなければ、王子がこんなことを口にするはずがない。 「私は……女性がだめなんだ。一度も興味を持てた試しがない。女が嫌いなわけじゃない。私をそういう対象にしないのなら――打ち解けて話せる相手ならいいが……でも……」  アピアンは小さく頭を振った。 「おまえはちがう――でも、知っているだろう。たぶん、そんなに……珍しいことではない。ちがうか? 王城でも王宮でも、女官たちが私のような……好みを嫌悪していないのは知っている。私が私でなければいい。王の息子でなければ……メストリンがもう少し年長なら……」  アピアンと視線を合わせたまま、無意識に握りしめた手のひらが汗で湿る。セルダンの心の一部は混乱し、心の一部は納得していた。いくつかのことが腑に落ちたのだ。王宮でも有名な王子の秘密主義や、王に対するぎこちない態度。しかし逆にわからなくなったこともあった。  夢とは。 「セルダン。私はどうすればいい」  アピアンの言葉は問いかけだったが、セルダンの口をついて出たのは別の問いだった。 「夢とは……なんですか」  アピアンは唇をゆがめて笑った。 「聞くな、くだらない。おまえには経験がないのか? 童貞がみそうなよくある夢だ」 「殿下」  アピアンは今度は眉を寄せる。 「だめだ。名前を呼べ」  一瞬ひるんだセルダンにアピアンは繰り返した。 「名前だ。おまえにアピアンと呼ばれるのが……好きだ。おまえの他に私を名で呼ぶのは陛下だけだ。おまえの一族が王家に捧げた忠誠のために私のそばにいるとしても」  セルダンは唾を飲みこんだ。唇がこわばったようになって、うまく動かなかった。 「アピアン」  王子の目じりがわずかにゆるんだ。 「そうだ。それがいい」  わずかな表情の変化でも矢で射られたようだった。セルダンは鋭く息を吸った。 「俺は前にもいいました。あなたが好きです」  アピアンのまつ毛が揺れた。 「おまえはレムニスケートだ。もちろんそういうだろう」  うしろめたさを隠すかのようにすっと視線が伏せられる。 「私が……何を想像しているか知ったら、おまえはきっと私を軽蔑する……それでもおまえは私を護るというだろうがな。私が――私が陛下の息子で、おまえはレムニスケートだから」  王子は考えちがいをしている。やっとセルダンは悟った。自分が考えちがいをしていたように、俺はちがうと思っているのだ。このひとは……。  俺は腕を回してこのひとを抱けばいい。そんな考えが頭に浮かび、次の瞬間セルダンは無意識に身震いしていた。アピアンの眉がぴくっと動いた。 「悪かった」  小さなため息が王子の唇から漏れる。眸と同様に唇も濡れた色をしている。 「私は愚かだ。もう寝ろ。レムニスケート」  一瞬にしてセルダンの頭をふたつの思いが行き交った。  ――馬鹿はおまえだ、セルダン。このひとはまた誤解している。  ――彼は主君だ。触れてはならない。  だが最後に勝ったのは騎士の本能だった。アピアンがうしろに下がろうと――自分から離れようとした瞬間、腕が勝手に動いたのだ。  背中を抱いた手のひらになめらかなローブが触れた。濡れた髪が首に触れ、ちらりとみえた驚きの表情ごとセルダンは王子を抱きしめていた。 「アピアン、あなたがみた夢は……」 「何度もいわせるな」  ささやきに対して、自分の首のあたりからくぐもった声が返った。肌に直接アピアンの吐息がかかり、全身がぞくぞくし、強い酒でも飲んだように頭が揺れるような錯覚をおぼえる。  俺もかなり酔っているのだろうか?  そのときセルダンは思い出した。そうだ、アピアンは「夜の蛍」をどのくらい吸ったのだろう? 効力のほどは体質や種類によって変わるというが、この薬物は健忘症をもたらす。翌日になると何が起きたのか思い出せない、そんな証言を以前セルダンは何度もきいたのだ。  このひとは明日になっても覚えているだろうか。  王子はセルダンの腕の中でみじろぎし、顔をあげた。 「私がみた夢は……おまえが……」  ため息とともにつぶやかれた言葉をセルダンは最後まで待たなかった。アピアンの背中を抱きしめたまま、唇に唇をあわせた。  またどこかで雫がおちた。  セルダンの耳はちがう音に集中している。声になるかならないかの喘ぎがアピアンの唇からもれているからだ。セルダンは長椅子に彼を倒して、ローブの前をはだけさせる。あらわになった肌はなめらかで、セルダンの体によく残るような打ち身や日焼けの痕はない。  セルダンは王子の肩口から胸にかけて唇でなぞりながら、さらに下を手と指で侵す。胸の尖った部分を舌先で撫でて濡らすと吐息に小さな声がまじり、セルダンの手の中で雄が立ち上がる。またかすかな声があがる。顔をあげるとアピアンはうらめしそうな目つきでセルダンを睨んでいる。 「おまえはそのままか」  王子の手がセルダンの服をつかみ、ボタンを引っぱる。セルダンはアピアンの指を慎重にはずし、起き上がるとシャツを脱いで裸体をさらした。王子はセルダンの胸をなで、腹の筋肉をたどり、ベルトへ手を伸ばそうとする。セルダンはアピアンの上に覆いかぶさり、もう一度唇をかさねた。  とっくに王子は張りつめすぎた己の怒張を感じているにちがいない。だがこんなものを彼の目にさらしていいものか。アピアンの唇はやわらかく、舌でなぞるだけでセルダンの内側に興奮が駆けめぐる。その一方でだめだ、と頭の中で警告が響く。  彼は主君だ。それにおまえはレムニスケートだ。  しかしためらうように差し出された舌に触れるとセルダンの意思は揺れ、いつのまにかお互いを激しく奪うような口づけになっている。唇を離すとアピアンの先走りで腹がうっすら濡れている。 「あなたが好きです。ずっと前から好きでした」  耳元にささやいたあとで、これを告げるのは何度目だろうかと思った。 「あなたが望むようにします」  眸をみつめたままつぶやくと、王子の眉がわずかにひそめられた。半開きになった唇が何かをいいかけてやめ、またひらく。 「だったら……さっさと私を抱け」

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