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偉大な星たちの絵 5.天窓の穴
セルダン・レムニスケートを「自分と同じ貴族に仕える遊び好きの元警備隊員」に変装させるのはアピアンにとって愉快な作業だった。しかし当の本人は気の進まぬ様子で鏡の前に突っ立っている。
「いったいどんな噂を聞いたんです?」
「セルダン、動くな」
アピアンは指にとった褐色の染料をひたいと鼻の上、両頬に乗せた。慎重に塗り広げて色濃くかわると、友人の顔はいっそう精悍にみえる。
「前の時も思いましたが、こんなもの、どこでお求めになるんですか」
「これは春に来た旅役者の一座からだな。化粧について話を聞いていたら、殿下もいかがですかと勧められたので分けてもらった」
「そんなに顔が広いのなら、名をふたつ持たなくてもいいでしょうに。市井を探る職分の者がいるのですから」
「陛下の〈目〉や〈耳〉の仕事を奪っているわけじゃないさ」アピアンは肩をすくめた。「昨日の噂の件は取り扱いに注意がいる。私の名を使って何やら企んでいる者がいる」
「いま何といいました?」
「落ちつけ、セルダン。さっさと着替えろ」
アピアンは寝台に腰をおろし「落とし子」について話したが、最初のうちセルダンは呆れ顔になっただけだった。
「あなたはそんな話を真に受けるんですか?」
「いいや。ただ、その男は私の保証を持っているといいふらしているらしい。おかしいのはそんな話を盛り場で吹聴して、警備隊の誰も不審に思わないところだ。私はもちろんそんな男のことなど知らないし、ましてや王族の一員と証明するものなど渡したことはない」
「つまり?」
「単純な詐欺か、あるいは魔術が絡んでいるかもしれない」
アピアンは眉をひそめたままの友人に片目をつぶってみせる。この男が自分の前で、騎士服以外を着ていることはめったにない。ふたりきりになれるときはいっそ何も着ていなくてもかまわないくらいだが――体の中でうごめいた欲望をアピアンは押さえこんだ。
「まあ、もしも本当に王家の係累だというのならそれなりの対処はするが」
軽い口調でいったのだが、じっとみつめるセルダンの表情は真剣だ。
「アピアン、あなたが直々に調べるようなことではない。俺がひとりで行きます」
「私はおまえといれば安全じゃないのか? 気がかりなのは、その男が精霊魔術で周囲をたばかっている可能性だ。仮にそうなら警備隊やおまえよりも私のほうが騙されにくい――王家の血のおかげでね。セルダン、ここに座れ」
ため息をつきながら友人が寝台に腰をおろすと、アピアンは眉毛に沿って筆をすべらせる。
「よし。うまくいったぞ」
「まったく、そんな筆の使い方まで覚えられているとは。これも旅役者から?」
「いや。女官にみせてもらった」
セルダンの表情が変わるのを見るのは楽しくて仕方がない。アピアンは衝動に負け、唇を近づける。かすかに触れては離れ、もう一度触れる。じゃれるような口づけは一度ではおわらない。セルダンの息を感じながら、アピアンは父に話してしまったことを後悔する。王はレムニスケート当主に告げるかもしれない。そのまえにセルダンに知らせておくべきか。
アピアンは迷い、結局何もいわず、ただ唇をあわせた。
最初に誰がそう呼びはじめたのか「愚か者通り」とはよく名付けたものである。
遊興に金を費やす者たちにまじっていつもの店に入ったアピアンは、すぐに件の男を目にした。中央の広い席を陣取り、着飾った女たちをはべらせている。大勢の注視を受けても堂々として、周囲の人間に酒をおごっているようだ。
「祝うようなことでもあったのか?」
誰にともなくいうと、カウンターにもたれて飲んでいた男が「噂のジュールス殿だ」という。
「自分が王につらなる血筋だともしらず、隣国で小商いをしていたそうだ。アピアン殿下に見いだされて王都にやってきた。王子様は情報通だからな」
「そうなのか?」アピアンは驚いた表情をつくる。
「だったらどうしてこんなところにいるんだ。王城に行かないで?」
「俺もそう思ったんだが、今は城下にいるように殿下にいわれているらしい。迎える準備を整えるとかで」
「へえ。それは大掛かりな話だな」
「だろ? 直接聞いてみろよ。殿下に託されたしるしを見せてくれるぜ」
セルダンが腕に触れる。アピアンはカウンターを向いて酒を頼んだ。グラスを持ったまま「ジュールス」を観察する。ひたいや顎の線は父やアンダース殿下に似ているといえなくもないが、面貌だけでは誰も王族の係累だとは思わないだろう。
「小商いにしては派手に金を使うな」セルダンがつぶやいた。
ジュールスの視線がセルダンの方に向けられ、すぐにそれた。アピアンはセルダンの腕をつかんだ。耳元に唇をよせる。
「わかるか?」
「何を?」
「おそらく〈探知〉している。気をそらせ」
「それはどう――」
即座にアピアンはセルダンに向きなおり、口づけをした。不意打ちに固まったセルダンを楽しむようにゆっくり離れる。目をあげると女主人が笑みを浮かべている。アピアンもにやっと笑みを返し、セルダンにささやいた。
「せっかくだ、話してこよう」
アピアンはグラスを片手に円卓を囲む賑やかな一団へ近づきながら、やはり精霊魔術が働いていると確信した。
アピアンが生まれながらにもつ「魔力」は大多数の人間とおなじようなものだ。生まれつき膨大な魔力に恵まれた魔術師たちのように、周囲の人間や世界を探れるようなものではないし、訓練で自在に制御できるわけでもない。しかしアピアンは周囲の魔力が自分におよぼす影響をはかり、その影響を逃れることができる上に、学院で自分の力を相手から隠す術も学んでいた。
「やあ、噂の人に会いに来た。アルティンだ。王様の親戚だって?」
ジュールスは気安い笑みを浮かべ、自分の前の席をあけさせた。
「噂になるほどじゃないさ。アルティンといったか? これも王の名じゃないか」
茶色の眸がアピアンを見据える。役者のように深みのある良い声だった。ゆったりして抑揚に飛んだ話し方は聞く者の警戒を緩ませ、安心させるようなおもむきがある。
「ああ。若きアルティン王の絵姿を曾祖母が大事にしていたからね。でもそっちは本物だって?」
「私も驚いたが、そうらしい。証拠をみるかね?」
ジュールスは片手をひるがえし、その奇妙な動きはアピアンの目をひいた。周囲の者もジュールスを注視している。ふところから取り出した書簡筒をあけ、丸めた書類を円卓に広げる。
ジュールスの儀式がかった身ぶりを全員が追っていた。その様子がさらにアピアンの注意をひいた。精霊魔術にはどこか手品めいたところがある。この男には王城の精霊魔術師のような優雅さはないが、手や目の動きは彼らにそっくりだ。
「すごいな」アピアンは透かしの入った紙をみつめた。
「これが王子殿下の?」
「ここに正式な署名と印章がある」
アピアンは目をこらした。
「こんなの見たことない。触ってもいいか?」
手を出したが、ジュールスはすっと書状をひっこめる。
「駄目だ」
「王城にはいつ行くんだ? きっとすごいことが起きるんだろう?」
「ああ、じきにな」
顔をあげるとジュールスはあいかわらず気安い笑みを浮かべていたが、慎重な手つきで書状を丸め、もとの筒に戻した。アピアンはグラスの酒を飲み干す。
「ありがとう、すごいものを見せてくれて。酒をとってくる」
カウンターに戻ると女主人が「連れは外に出てるそうだ」という。扉のそばにセルダンの姿をみて、アピアンはうなずいた。グラスを返して店の外に出ると影のようにセルダンが横につく。
「どうでした」
「書類は王家の透かし入り、私の印と宣誓署名入りだ。たぶんあの紙切れにも魔術の仕掛けがあって、見た者は騙されるんだろう。王城の魔術師に通用するかといえば、どうだろうな」
「待ってください。宣誓署名を偽造したということですか? あなたの?」セルダンは声をひそめた。
「それは重罪です。本物ですか?」
「本物そっくりではあった」
アピアンは大股で歩く男にあわせて足を速めた。王族の宣誓署名は複雑な紋様と共に描かれ、日常的に使うものではない。外国との条約締結や重罪人の恩赦、それに婚姻のような機会にしか行わず、一般に流布するようなものでもない。
「そいつはいったいどこで知ったんです。俺も見たことがないのに」
「ああ、そうだったな」アピアンは隣の男に向かって眉をあげる。
「気づかなくて悪かった。おまえに誓わせておいて、しるしのひとつも渡していなかったとは」
「こんなときにふざけないでください。で、これからどうすると?」
ふざけたつもりはないのだが――という言葉をアピアンは飲みこむ。
「精霊魔術には精霊魔術だ。さしあたっては――そうだな、アダマール師をたずねよう」
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